カントから見る予測符号化と合理的ベイジアンの特徴

The predictive processing paradigm has roots in Kant」を目にして間もないうちは、これを元にして予測符号化(predictive coding;predictive processingとも呼ばれる)と表象主義について記事を書こうと予定していたのだが、そもそもこのテーマ自体が広大なものだとだんだん気づいてきて気軽に記事に書けなくなってしまった*1のだが、それとは別にこのカント論文における予測符号化の理解に問題があると気づいてしまった。そこでとりあえずは表象主義の先にある深い森に入り込むのは避けて、その手前の基本的な問題をまとめることから始めようと思った。

同じくベイジアンを用いた理論でも…

The predictive processing paradigm has roots in Kant」は予測符号化(予測的処理)の考え方とカントの哲学との共通点を分析した論文である。私はこれをを元にして、科学的には妥当な解釈である予測符号化の観念論的解釈(Jakob Hohwy"The self-evidencing brain"を参照)を論じようとしたのだが、どうもこの論文の予測符号化の捉え方に問題があることに気づいた。つまり、予測符号化の例として同じくベイジアンを用いていることで有名な研究者であるGriffithsやTenenbaumらによる研究も参照されているのが、これは私には勘違いとしか思えない。実際に他の予測符号化の論文で彼らの論文が参照されているのはほぼ見たことがない。それどころか、あるAndy Clarkフォロワー学者が予測符号化と比べてGriffithsやTenenbaumの研究を批判しているのを見たことがあるが、その内実は別にしてもその言いたいことは分からなくもなかった。要するにその学者はGriffithsやTenenbaumの研究の合理主義的な要素を嫌っていたのだ。
GriffithsやTenenbaum研究については「認知科学におけるベイズ的アプローチに関する文献の紹介」を参照してもらうと分かるが、予測符号化における予測誤差を用いた考え方とは異なる。その特徴は行動経済学との比較が分かりやすい。行動経済学との共通点は高次な判断を扱っている点だが、その考え方が異なる。行動経済学では人の判断における非合理性が強調されがちだ。しかし、GriffithsやTenenbaumによるベイジアン・アプローチでは人の高次な判断における合理性が注目されている。そこでこれ以降はGriffithsやTenenbaumらによるアプローチを指すのに合理的ベイジアンという言葉を使うことにする。

合理的ベイジアンとカントの因果論

カント哲学の特徴の一つに因果についての考え方がある。哲学者ヒュームによって有名になった単なる観察された事実からだけでは因果関係は導けないという議論がある。この懐疑的な結論に対してカントが挑戦して、人の側に世界の中に因果を認識する図式が備わっているとした。こうした因果推論に対してベイジアンの立場から統一的な説明を与えたのがGriffithsやTenenbaumによる合理的ベイジアンの考え方である。現代的な因果推論ではあらかじめベイジアンネットワークによって因果構造を与えて、そこから因果関係を推測するという手段をとる。
つまり(ヒュームの論じるように)外界から与えられてデータだけから因果を導けるわけではなく、因果についての図式や構造を前提として関係を推測しているのだ。確かにここには合理的ベイジアンとカント哲学との間に共通点がある。

予測符号化とトップダウン効果

それでは予測符号化とカント哲学との共通点とは何か。それはセラーズによっても有名になった「概念なき直観は盲目である」という言葉に含まれている。つまり私達は外からの感覚的データだけから知覚を形成しているわけではない。それは錯覚や盲点などの例を考えれば分かる。実は私達の視覚には盲点があるのだが、それは自動的に埋められてしまうのでそれに気づくことはめったにない。文脈効果というのもあって、周りの文字との並びによって同じ文字でも「B」に見えたり「13」に見えたりする例は有名だ。これ以外にも、私達は感覚入力からの影響(ボトムアップ)だけでなく入力から遠い所からの影響(トップダウン)も大きく受けていることが分かっている。予測符号化はそうした知覚や運動におけるトップダウン側の予測が重要な役割を果たしていることをモデル化したものだ。
このように人の側の持っている知識や枠組が認識に影響を与えるという考え方はカントにまで遡るものであり、それは後にヘルムホルツによって無意識的推論という形で現代にまでつながる心についての考えを導いたのだ。

認知科学における計算論モデルについて

合理的ベイジアンと予測符号化と、両者において感覚データだけによって認識が成り立っていることを否定している点は共通している。しかし、これらの大きな相違点は合理的ベイジアンが(脳の構造とは関わりの薄い)純粋な認知モデルなのに対して、予測符号化は古くは小脳研究から続く伝統を受け継いだ神経的モデルであることだ。
もちろん、心のモデルとしては生物学的な構造に則ったものがいいに決まっている。しかし、単なる還元的説明とは異なり、心の計算論モデルは何かしらのアイデア(例えばヘッブ則)がないと作り出すことができない。認知モデルの役割はむしろ観察可能なデータ(例えば行動)を導くための規則を心のモデルとしてふさわしいと思われる形で作り上げるのが目的だ。(最近は疑われてもいるが)脳イメージング研究において前提とされている機能局在論も、認知モデルとしてのモジュール論が想定されて研究されている。科学も心と同じように単なるデータの寄せ集めによって出来上がっているわけではない。

予測符号化は心の統一理論なのか

Andy Clarkを始め予測符号化について語る代表的な論者の多くは、予測符号化を心や脳についての統一理論(unified theory)だと称することがよくある。確かに予測符号化が幅広い現象を説明できる包括的な理論であることは私も認める。
しかし、もし予測符号化が統一理論だとしたら、フリストンの自由エネルギー原理への批判である暗室問題(dark room problem)は思われている以上に深刻だと思われる。自由エネルギー原理の元となる統計力学の考え方とは、部屋は放っておけばどんどん散らかり続けるという考え方である。つまり宇宙が死の状態へと向かい続けるように、生命は真っ暗闇にハマったら予測誤差がなくなるので結果としてそこから動く必要がなくなる結果が導かれる。確かに生命は目標が定まってさえいれば、(学習によって)安定的な適応点に向かって状態が収束するのが最適であるのは確かだ。だが、なんの目標も与えられないままに一般的にこれが正しいということにはあまり意味があるように感じられない。むしろ統一の原理にこだわることで世界における現象や説明の多元性に目を背けることのほうが危険だ(最初に挙げた合理的ベイジアンの意義に気づかないClarkフォロワーはその例だ)。
過去の例を考えても統一理論とかグランドセオリーとかの誇大妄想の行きつく先にいいところはない(社会学マートンの批判も参照)。科学に必要なのは、上から原理を一方的に押し付ける統一理論ではなく、上からの原理と下からのデータのバランスがとれた包括的な理論ではないだろうか。

*1:この理由でここではカントにおける構想力は扱わない

4E認知は仲良しごっこのウソお友達グループだったのか?

認知科学では二十世紀の末頃(特に80年代から90年代まで)に、主流(特に古典的計算主義)に対抗する動きとして身体化論の流れが様々な形で起こった。それは二十一世紀にも受け継がれて、主要な概念であるembodied,embedded, extended, enactiveから頭文字を取って4E認知と呼ばれて議論されるようになった。しかし、4E認知の諸概念は実はお互いに相容れない所もあるのではないかと、当の支持者も含めて疑われるようになった。

疑惑の前触れ、拡張と埋め込み

4E認知の諸概念は二十世紀の段階で既に提出されていた用語を寄せ集めただけだが、これらを同じ頭文字としてひとまとめにしたのは確かによくできている。いつからこう言われ始めたのか私にはよく分からないが、実は4e認知の用語が広まる前に既に不穏な空気は醸し出されていた。それはRupertによる拡張された心(extended mind)と埋め込まれた心(enbeded mind)の二つの仮説についての議論だ。簡潔な説明はAndy ClarkによるRupert批判論文「Curing cognitive hiccups」の冒頭を参照してください。Rupertは拡張された心と埋め込まれた心では環境の重視という点で救える現象はほぼ一致しているので、常識や科学理論における直観に反する心的システムの身体よりも外部への拡張の考え方をわざわざ採用する必要はない、としている。Clarkによる反論が正しいかは脇においても、とりあえず4E認知の中のextendedとembededの二つの概念が両立することに疑いの目が向けられたことだけは確かだ。

4E認知の革命はうまく行かない、拡張とエナクション

二十一世紀に入ってしばらくして、おそらく10年代に入る少し前辺りから、4E認知(特にenactive)の論者の中から認知科学に革命を起こそうとする急進的な(radical)な勢力が現れるようになった。私の印象では、もともとMicheal Wheelerはどちらかというとそうした傾向には好意的な論者だと思っていた。しかし「The revolution will not be optimised」でそうした急進的な革命が楽観的なものではないと気づくようになったようだ。
後はこの論文の内容を紹介すればいいのだが、エナクションが拡張を含み得ない…という結論だけははっきりしているのだが、それを導く議論は複雑でどうも私にはうまく分かり得ない。そこで以下の議論は論文の正確な要約と言うよりも、おそらくこういう事を言いたいんじゃないかという忖度だと思ってください。
拡張された心は心が身体の外に広がっているとする外在主義を、エナクションは反表象主義を第一に含意している。心的表象を否定する反表象主義はそのまま外在主義を導くと思われがちだ。ところで、エナクションにはギブソンからの系譜とヴァレラからの系譜がある。しかし、ギブソンから受け継がれたアフォーダンスの概念もヴァレラから受け継がれたオートポイエーシスの概念も心の境界を否定する外在主義とうまく両立しない。オートポイエーシスの概念には境界の概念が含まれているように思えるし、環境も心的システムの一部だとしたらアフォーダンスにおいて何に対して何が提示されているのかがよく分からない。エナクションが外在主義と一貫した整合的な理論となりうるのかは(少なくとも今のところは)どうも怪しい。
以上の議論に妥当性があるかは確信が持てないが、少なくともextendedとenactiveの間に亀裂がある疑いは抜けきれなくなった。

身体的認知に身体はいらない、身体なしのシュミレーション

しかし、4E認知の仲良しグループに決定的な打撃を与えることになったのは、最近における身体化論の代表的な論者Shaun Gallagherである。「Invasion of the body snatchers」はこれまで私が触れたギャラガーの文章の中でも圧倒的な傑作であり、本当は私の中途半端な要約でなく誰かに訳してもらいたいぐらいだが、そうもいかないので要点にだけ触れる。
基本的なアイデアはシンプルなものだ。4E認知の共通点は認知(心)における身体の役割の重要性を訴えているところだ。"embodied"の概念には、心の理論におけるシュミレーション説が含まれており、ミラーニューロン(システム)の発見によって科学的にも援護されている重要な説だ。シュミレーション説とは他者の身体的振る舞いを心の中でシュミレーションすることで他者の心を理解するという説である。このとき身体的イメージが使われるようになるが、こうした(身体的な)心的イメージを用いた議論はLakoffやBarsalouのような身体化論者にも共有されている。身体的に経験されたイメージが用いられる点で身体の重要性は強調されている。しかし逆に言えば、一度身体的なイメージを身に着けてしまえばもう身体は必要ない。つまり、身体化の理論の中にはイメージ以上の身体は必要ない説が含まれていることになる。もはやembodimentからは4E認知における唯一の絶対的な絆が失われてしまったのだ。
こうした以上の議論から言えることは、4E認知の表面的だけの仲良しブリっコが暴露された今、4E認知をまとめて擁護する活動には問題があると言う事だ。しかし、これは4E認知を一挙にまとめての擁護が問題視されただけであって、個々のアイデアについてはその限りではない。

拡張された心はどこに行くのか?

二十一世紀に入ってからの身体化論(流行りの言い方だと4e認知(embedded, extended, embodied, enactive))は、二十世紀までの古典的な身体化論に比べるとオリジナルな議論は少なくて、二十世紀までに出てきたのと同じテーマを繰り返し論じている傾向が強い。それらの議論がどこまで深められているかは怪しくもあるが、ここではその中から議論に興味深い展開がありながらも割に日本ではまだあまり知られていない拡張された心(extended mind)を紹介したい。これから紹介する内容の基本的な流れは「From folk psychology to cognitive ontology」の第四章第三節を元にして構成していますので、源泉となる参照文献はこちらにあるものを見てください。関連する日本語の文献としては「頭の外で考えることはできるのか」や「拡張されたシステム」があるので参考にしてください。

拡張された心(extended mind)とは何か

拡張された心(extended mind)はClark&Chalmersによって知られるようになったが、その論文でのインガとオットーの話は有名で(既にリンクした論文を含み)このテーマを扱った文献ならどれでも大抵説明されているので、ここでは省略する。簡単に説明すると、拡張された心は心の哲学における機能主義を前提にして議論が進む。心の哲学における機能主義とは(各種の違いを無視すれば)心的な状態(過程)とは機能であるとする立場である。Clarkらの論文で取り上げられている例は記憶である。つまり何を覚えておいて思い出すというのは機能であり、それによって心的な状態が特定される。この場合は人の頭の中で覚えておいて思い出す例だが、同じ機能は人の頭の中でなくとも実行できる。つまり、覚えたいことをノートにメモしてその項目を見ても、同じ機能が実現できる。記憶という機能は人の頭の中だけでなく、身体を超えた環境においても実現可能である。覚えて思い出すという心的状態は頭の中だけ起こるのではなく、外部のノートにおいても起こるのである。心的な過程は頭の中でも身体の外の環境でも同等に起こっているとするのが、拡張された心の基本的な主張だ。

結合と構成との取り違い(coupling-constitution fallacy)

こうした拡張された心の議論はよくできている。しかし、明らかに私達の直観には反している。外部にあるノートが私の心の一部でもある…と考えるのは普通に考えると変だ。そうした直観的な違和感を拡張された心への批判として成立させているのが、Adam&Aizawaによる「結合と構成との取り違い」による批判だ。つまり、身体の外部にあるノートは認知システムと結び付けられているだけであって、認知システムを構成しているわけではない。拡張された心では心に境界がないことになってしまうが、Adam&Aizawaは認知システムには境界があると主張する。認知システムには認知の標(mark of the cogniton)があるのであって、それによって認知システムの境界が定まるのだ(大抵は脳や身体が境界と考えられる)。ただし、何が認知の標かは議論に余地があって、そこが突っ込みどころになっていなくもない。

埋め込まれた認知の仮説(hypothesis of embedded cogntion)

Rupertは拡張された心に対して異なる方面から攻撃している。身体化論には拡張(extended)の概念だけでなく、埋め込み(embeded)という概念もある。認知は環境に埋め込まれているのであって、環境が認知システムを構成しているのではない。埋め込まれた認知の長所は、認知の境界を定めながらも、心にとっての環境の重要性も認めていることだ。つまり、拡張された心を採用せずとも、道具使用も認知科学における生態学的アプローチや状況的認知も認めることができる。拡張された心で救えることは、埋め込まれた心でもほぼ救うことができる。ならば、直観に反する拡張された心をわざわざ採用する理由はなくなるはずだ。
Rupertの言っていることはもっともであり、私も埋め込まれた認知で十分だとは思う。しかし、なぜか拡張された心の擁護者は絶えない。ある論者が(Adam&Aizawaはまだしも)Rupertまでを内在主義者呼ばわりして批判しているのには驚いた。拡張された心の擁護者が絶えない理由は私にはよく分からないが、拡張された心が反駁しがたい理由は確かにある。

心の極端(radical)な拡張は避けられない

Sprevakは心の哲学で主流である機能主義を採用している限り、拡張された心は避けられないどころか、もっと極端な拡張された説さえ導けるとしている。なぜなら、機能主義においては多重実現可能性が前提とされているので、どんな素材からできていようと機能を満たしてさえいれば心を持っていることになってしまう。よく出る例では、それが有機物からできていようがシリコンからできていようが機能を満たせば心を持っていると言える。機能主義には有機的な脳に境界を定める理由が含まれていない。心を脳に境界付けるのはその論者による勝手な想定でしかない。シリコン製のアンドロイドに心があると考えられるなら、自分が使っているコンピューターを心的過程の一部に含めることも不自然ではないはずだ。つまり、機能主義が有機体にも無機体にも心を認めるぐらい目の粗い(coarse-grained)ものである限り、心を環境にまで広げる拡張は避けられない。結局のところ機能主義を前提としている限り、心が身体を超えた環境にまで伸びているかどうかは、結局の所それを信じるか信じないかという直観同士の争いにしかならないのだ。

機能主義の問題を考え直す

拡張された心というのは心の哲学における機能主義に再考を迫っている。機能主義への批判として有名なのはクオリア(または現象的意識)についての議論であり、これについては今でも盛んに議論されている。ただ勘違いされているところもあるが、クオリア論は機能主義を根底から批判しているというよりも、その前提となっている物理主義を批判しているとするのが正しい。よって、機能主義にクオリアを認めるようなオプションを認めるかどうかが問題であり、その極端な形が汎心論であると言える。そして、一時は機能主義への批判として熱心に論じられていたもう一つの話題は人工知能は心を持つか?である。ただこれについては以前ほどには論じられているようには思われない。おそらく、人工知能が心を持つという考えに以前ほど反感が持たれなくなったのが原因かもしれない。しかし、Sprevakが指摘するようにシリコン製の脳に心を認めることは心の環境への(極端な)拡張へとつながっている。そして、前者は認めるけど後者は認めないというのは困難であり、ただのご都合主義でしかない。とはいえ、拡張された心を単に認めるだけなのも(議論としては機能主義を認めるだけで済む)安易な道である。
別に視点から見てみると、心(または認知)に*1境界を認めないことの問題も浮かび上がってくる。最近の身体化論者はエナクション(enaction)を好む論者はとても多い。エナクションの概念はヴァレラによって有名になったが、それ以前にそのヴァレラはオートポイエーシスの概念でも知られていた。オートポイエーシスとエナクションとの関係は必ずしも明らかではない*2が、少なくともオートポイエーシスでは境界が重要な役割を果たしている。では、拡張した心を認める人はエナクションにも境界は必要ないとしているのだろうか?埋め込まれた心でもエナクションを論じるには十分ではないのか?と不思議に思われる。ただ、これを認めても心(認知)の境界についての問題(認知の標)はまるまる残る。機能主義だけではこうした疑問には答えられないので、新たな別のオプションが必要となる。おそらくそれはオートポイエーシスのような概念になるだろうが、当のオートポイエーシスそのものは(少数の論者に好まれてはいるが)もはや科学的に(おそらく哲学的にも)耐えられる概念とは残念ながら(心に関する議論としては)なっていない*3
拡張された心は、それ自体が擁護されるべきというよりも、(Sprevakの述べるように)さらなる心の理論のための新たな議論にとってこそ価値のあるものであるべきなのだ。

*1:論者の中には心には境界はないかもしれないが認知には境界があるとする用法をする人もいるが、必ずしも広くは認められていない

*2:ヴァレラの単著論文「Patterns of life」を見るとヴァレラは境界を認めているような気もするが正直よく分からない

*3:ただし生化学的なレベルはその限りではないかもしれない