書評 ダグラス・マレー「西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム」

書評 ダグラス・マレー「西洋の自死 移民・アイデンティティイスラム

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

リベラルぶりっ子なエリートによる安易な移民政策がいかにヨーロッパの文化と社会を壊したのかを描いた大作

ヨーロッパの移民大量受け入れの歴史を描きながら、それがヨーロッパの社会にいかなる影響を与えたかを論じた、ジャーナリストによる大作の翻訳。タイトルからは西洋批判の本にも思えるが、そうでは全くない(原題は「ヨーロッパの不可思議な死」)。チラっと中身を見ただけだと移民排斥の本にも見えるが、そういう視野の狭い著作ではない。なぜヨーロッパが大量の移民を受け入れるようになったのか、その結果としてヨーロッパの社会が如何に変質していったのかを、ジャーナリストならではの取材を始めとした事実に基づいて描き出した本だ。特に本の後半では、ヨーロッパにおける思想と文化の衰退を描いており、そういう視点からも興味深い。これらが日本にどれくらい当てはまるかはこれからの課題だが、ともかく最近のヨーロッパ社会の現状について知るにはうってつけの著作。

日本ではリベラルな評論家が移民を受け入れるのは当然とばかりの主張をして、欧米における移民排斥を叫ぶ右傾化を懸念する意見はよく聞かれる。しかし、何の議論もなく移民を受け入れるのは当たり前だとする見解には前から疑問を感じていた。そこでこの本を手に取ると、ヨーロッパにおいて移民問題がいかに深刻なのか、そしてそうした移民政策が国民の意見を反映することなくリベラルぶりっ子なエリートに先導されていたことが描かれていて驚いてしまう。こうした議論は下手をすると移民排斥や差別主義と区別が付きにくくなるので、著者はその辺りをとても丁寧に論じている。この著作の前半を中心に全般を覆うヨーロッパの移民問題についての叙述は読んで確かめてもらうとして、以下ではこの著作のもう一つの側面に注目したい。

もしこの著作が移民問題についてだけ論じていたら、たとえ丁寧に事実に基づいて書かれていたとしても、単なる移民排斥についての著作だと勘違いされたかもしれない。しかし、この著作の後半は移民問題がヨーロッパの文化や価値観と結びつけて論じられており、これが単なる移民排斥の本では決してないことをはっきり物語っている。

移民についての文化的問題は大きく二つ挙げることができる。それは移民のヨーロッパ的な価値観への同化の失敗と、ヨーロッパの思想的退廃や移民への罪悪感である。前者は、差別意識を持った人々を差別せずに受け入れることの矛盾から成り立っており、経済成長やグローバル化を理由に移民を受け入れることばかりを考えてしまい、移民がヨーロッパの文化や価値観に適応できるかどうかを考えてこなかった結果として、文化的に同化できなかった移民による犯罪が絶えなくなってしまったことが指摘できる。ヨーロッパが移民を拒絶せずに受け入れきた理由はもう一つあり、ヨーロッパが長らく続けてきた植民地主義への罪悪感からリベラルに見られたいエリートが移民を拒否できなかったせいでもある。さらに、インテリたちが限りのない脱構築ゲームにはまり込んでしまい、ヨーロッパが思想的にも文化的にも積極的なものを何も提示できない退廃状態に陥ってしまい、その結果としてテロを推し進めるような過激思想に対する免疫がない若者が生まれた。そして、そうした退廃的な文化は移民に人権や寛容さを教えることもありえず、結局は同化は失敗を約束されている。この辺りの著作の指摘はとても深い。

この著作は異文化や異宗教との共存を否定していると安易に誤解されそうだが、そうではなく寛容に反するほどの異なる価値観が移民とともに移入してくることの危険性を訴えているのだ。そしてそれが、リベラルぶりっ子をしたいだけの現実を見ないエリートによって主導されてきたのだ。

ヨーロッパの今を知りたければこれは必読の本だが、数少ない欠点は本が分厚くて読むのが大変なことだろう。特に日本では実感がない話なので余計に読みにくいかもしれない。私自身も全体を流し読みした後に後半を中心に読み直して、やっとこの著作の意義が理解できるようになった。あまり無理して全てを通読しようとせずに、事実や歴史に興味のある人は前半を中心に、思想や文化に興味があるなら後半を中心にと、必要に応じて読んでもいいかもしれない。

日本では本当は大して知識もないのにヨーロッパについてもっともらしく語る評論家もいるが、ここはやはり優れた当事者の話を聞くべきだろう。正直、この本での話が日本にどの程度あて当てはまるのかは未知数だが、あまりにも議論が無さすぎるのも事実だ。現在のヨーロッパの実情を知りたいなら、せめてこの本や既に翻訳されているEUについての本ぐらいは読んでおくべきだろう。

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム

そういえば、少し前にニューラルネットワークブラックボックスだという話を聞いた時に違和感を感じて軽く触れたのだが、その時はそれ以上は話が展開しなかったが、あらためてこの話を考えてみたい。

結論を言うと、最近のニューラルネットワーク(ディープラーニング)はブラックボックスだという話は半ば正しく半ば間違っている。どんな技術であれ知識のないユーザーにとってはその技術を用いた製品は中身が分からないという意味ではブラックボックスだが、もちろんニューラルネットワークの場合はこういう意味ではない。それどころか、プログラミングを組んだ本人さえもそのニューラルネットワークの作動の中身が理解できなくなっているという点でブラックボックスだと言われている。その理由はそんなに難しいものではなくて、普通のアルゴリズムでは作成した本人が設定した通りにしか作動しないのに対して、ニューラルネットワークの場合は与えられたデータから次々と学習することで中身の作動の仕方が複雑に変化してしまうので、それを作成した本人にもそれがどのように動いているのか結果としてよく分からなくなってしまうのだ。これがニューラルネットワークブラックボックスだと言われる所以であるが、これは事実の一方からの視点でしかない。

認知科学の世界でブラックボックスだと言われていた事の典型は行動主義であり、それこそ文字通りに外面から観察できる行動しか認めず、心的なものを行動に還元する考え方だ。この場合は心的メカニズムは見てないし、見ること自体が不可能とされてしまう。それに比べると、ニューラルネットワークブラックボックス性は中途半端だ。ニュラルネットワークは入力と出力の間を多数のユニットが複雑なネットワークで結び付けられているのだが、その中間層の状態は内部表現と呼ばれることがある。その巨大な中間層がそのニューラルネットワークのメカニズムに当たるのだが、もちろんこれは行動主義の想定するように文字通りに見えない訳ではない。正確には内部表現は見ようと思えば見ることができるが、見てもあまりにグチャグチャすぎてそれで何が表現されているのかが当の製作者にさえ分からない。基本的にはニューラルネットワークの中間層は特徴検出器(例えば色や傾き)になっていると想定されることが多く、多変量解析を用いてそれを調べた研究もある。とはいえ、実際のところ中身がどうなっているのかを理解することはとてつもなく難しくて、実質ブラックボックスと変わりがないとも言える。

とはいえ、それは実質上の話であって、行動主義のように文字通りのブラックボックスではないことに変わりはない。この先研究が進んで内部表現を理解できるようになる手段が開発される可能性はゼロではない。それに認知科学的には内部表現こそが興味深い対象であって、ディープラーニングの先駆者であるヒントンはそこ(事前学習で内部表現を前もって整えること)に注目した点で認知科学への素養を持った研究者だったのだ。当のニューラルネットワークは純粋な工学へとかなり変貌してしまったが、それとは別にヒントンの鋭い洞察には学ぶべき点もある。つまり、ヒントンの内部表現への注目は、ベイジアンにおける生成モデルの重要性とともに、認知科学に心があらかじめ持つ知識やモデルに目を向けさせる流れに結びついている。この流れは時間をかけて大きくなっているのではと予測しているが、ヒントンはその流れの一端を作り出したのかもしれない。

ブログに真面目な記事を書いてもほとんど読まれないと気づいたので、きちんとした記事など書く気も起きない。ましてや、最近の自分が面白く思っている話題があまりに新しい話すぎて、記事にするのが適切かもよく分からない。私は認知科学にちょっと飽きると一時的に別の話題に夢中になるのだが、最近までは確率や統計について調べていた。しかし、日本語で手に入るネットにある知識はテクニカルなものに偏っているし、書籍も同じ傾向が強い。それで自分向けに確率統計についての私的な整理を書いたので、それをあまり目立たないところに出しておいた→https://deepbluedragon.hatenadiary.com/entry/stat-memo。気が向いた人は見てみてください。

これで、とりあえずは確率統計については一区切り付いた感じがしたので、また認知科学に戻ってきた。予測処理(predictive processing)における表象(representation)論争とか総合による分析(analysis by synthesis)の系譜とか以前から個人的に調べているテーマはあるのだが、まぁ記事にする気はとても起きなくて完全に私的な趣味の領域に入りつつある。でも、そういうことばっかりしているとモヤモヤしてくるので、じゃあ昔ネットに出した認知科学年表を書き直してみようかと思い始めた。

あの認知科学年表も元々は私的な整理でしかないから、新版への改定もお手軽にやっていこうと思っている。ただ、その過程で驚いたのが、当時私が参考にした認知科学の重要文献をアンケートで調べたミレニアムプロジェクトがいつの間にかサイトが消えてしまっていたことだ。お気に入りだった個人によるホームページやブログが消えてしまうことにはさすがに慣れてしまったが、正式な組織による重要な資料が消えてしまったのはちょっとショックだ。一応、二十世紀の認知科学文献ベスト100だけは別の形で残っていたが、アンケートの総合結果が消えてしまったのがかなり痛い。古い認知科学年表はそのまま残すとして、新たな認知科学年表ではリンクをし直す必要が出てきた。

認知科学年表は1990年代以降を書き直す(書き足す)つもりだが、1990年代は参考にしたミレニアムプロジェクトにも含まれていたし、現在の視点から項目を入れ替えることに異存はないのだが、困ったのはやはり二十一世紀に入ってからだ。参考にできるめぼしいサイトもないし、完全に個人的な記憶と判断に頼るしかない。内容が偏ることに対しては、どうせ自分用のメモみたいなものだし構わないのだが、それでも困ったことは多い。採択する文献の選択の基準はなかなか難しい。

例えば、二十一世紀に入ってから認知神経科学進化心理学が流行ったが、この流行りを示す文献を挙げるのは難しい。この辺りははっきり言って重要な研究はたいてい1990年代に既にあったが、二十一世紀に入ってからは文献の多さの割には代表的な文献を挙げるのが難しい。それに関連した研究は言語進化や道徳心理学といった別の流行ったテーマにも含まれているので、無理に挙げる必要もないかもしれない。それにどうせ認知神経科学はそれほど詳しくないのでそれほど気にかける必要もないかもしれない。

逆の方向で困ったのが、代表的な文献は幾つも挙げられるが全部を挙げるとバランスが悪いので選択する必要がある場合だ。その代表は4E認知(身体化)だ。別の方向で困ったのが、同じ学者が重要な文献を幾つも書いていてどれを上げればいいのか迷うことだ。その代表はトマセロだろう。もう一つ困ったのが、重要な文献が出た年とそのテーマが流行った年にズレがあることが多いことだ。その典型はミラーニュロン研究だがこの場合は最初の重要文献は挙げて当然だが、これが道徳心理学や予測符号化(極端には小脳研究まで遡れる)になるともうちょっと迷う。

なんにせよ、個人的な趣味だと割り切って自分のペースでやることにしている。今回、関連の調べものをしていてネット上の日本語での認知科学の知識が相変わらず乏しいことは分かったが、一素人のできる事はたかが知れている。