What happend to cognitive science?を読まずに反論論文だけを読む

少し前に認知科学について調べていたら、現在の認知科学を否定的に評価する論文google: R Núñez "What happend to cognitive science?"の要旨ページを見つけた。その要旨を読んで違和感があったが、無料で論文本文を読める訳でなかったせいもあり、そのまま気になりながらも忘れていた。そんなときに、定期的に確認している学術誌「Trends in cognitive science」のアプリで早期公開されている論文を確認していたら、どうも特集を予定しているらしく、まさに「What happend to cognitive science?」への反論をしている論文が幾つか見つかった。それを読んでみたら、自分が感じた違和感が正しかったのが確証できた。そこで、当の批判対象の論文は読めてないけれど、あえて反論論文だけから自分なりに批判内容を紹介してみたい。

反論論文だけ読んでみる

まずは最もよくまとまっている反論論文google:E.P.Cooper"Multidisciplinary flux and multiple reseach traditons whthin cognitive science"を元にして元論文の批判内容を箇条書きしてみよう。

もう一つ「学術誌"Cognitive Science"の採択論文が心理学に偏っている」という批判もあるが、これは認知科学認知心理学と融合するのでは?という予測と共に考えると、認知科学の学際性への誤解と結びついているので一つ目の項目とセットにしようと私なりに判断した。まぁそれを言い始めたら、この二つの項目自体が認知科学を一つの統一した分野と考えている誤解から導かれるのだが、とりあえずこれで話を進めよう

認知科学は学際的な一貫した領域になりそこねたのか?

認知科学が学際的な領域であるというのは日本でも正しく理解されていないところがある。その点では、当の批判論文では認知科学が学際的であることが理解されている部分では正しい。しかし、Cooperが指摘するようにinterdisciplinaryとmultidisciplinaryとの区別がきちんとついていないのが問題となる。

interdisciplinaryとmultidisciplinaryは日本語ではどちらも学際性と同じ語で訳す以外の訳語の選択がなかなか難しい。Cooperの指摘を参考にしながら私なりに違いを述べてみよう。interdisciplinaryは複数の分野に関わりを持っているという意味で、Cooperによるとそこには何かしらの一貫性が前提とされているようだ。対して、multidisciplinaryは複数の分野が参加しているという意味で、Cooperによると各参加分野の同一性は確保されているという。認知科学の場合は、明らかにmultidisciplinaryが当てはまる。実際に認知科学には専門的な心理学者や言語学者人工知能学者が研究に参加しているが、そのことによって元々の専門家としてのアイデンティティーが失われるわけではない。interdisciplinaryの場合は複数の分野の知識が必要になるのかもしれないが、それはその研究者のアイデンティティーとは別の問題だ。もちろん認知科学の中にはinterdisciplinaryの意味で学際的な研究をしている人もいるかもしれないが、それは認知科学がmultidisciplinaryであることに反しない。

認知科学に統一性や一貫性が前提とされていないことは、google:Dedre Gentner"Cognitive science is and should be pluralistic"でも認知科学創始者からのコメントによっても確認されている。現実に認知科学は一枚板ではないのだが、それは2つ目の項目と関わられて論じるが、その前に確認しておくことがある。

批判論文では、学術誌"Cognitive Science"の採択論文が心理学に偏っていることがデータから確認されて、認知科学認知心理学に融合されるのではないかと指摘されている。私の見解では、心理学の研究論文がよく採択されるのは実験や調査をすればとりあえずオリジナルのデータが取れるから論文が書きやすい 1のと、神経科学その他の分野ではそもそも専門誌に論文が投稿されるせいな気がする。それを無視しても、採択論文が偏っているとは別の分野に吸収されて構わない理由にならない。だいたいその程度しか価値のない学術誌はいずれ勝手に消え去るだけだ。しかし、認知科学のmultidisciplinaryな役割はまだ当分はお役御免とはなりそうにないと私は思う。現在の認知科学の問題はもっと別のところにあると思うが、それは別の機会に触れるかもしれない。

認知科学は研究プログラムとして成功してないのか?

研究プログラムとは科学哲学者ラカトシュの提示した概念である。研究プログラムは本気で説明しようとすると大変だが、大雑把に言うと核や保護膜や発見法などからなる科学的な研究を推し進めるためのひとかたまりのプログラムであり、例えばニュートン力学相対性理論などはこうした研究プログラムを持っているとされる。対象の批判論文では認知科学はこうした研究プログラムとしてとして成功していないと言う。しかし、これは科学哲学についてそれなりに知識を持っていればおかしなことを言っているな〜と感じるはずだ。

認知科学は一つの研究プログラムなのだろうか?例えば、成功した科学の典型である物理学を考えみよう。物理学には相対性理論量子力学統計力学などの研究領域があるが、これらが単一の同じ研究プログラムからなっていると言えるだろうか?もちろんそんなことは言えそうにない。だいたいラカトシュは複数の研究プログラムの中から成功するものと後退的なものが出てくるとしているのであり、物理学という分野自体が一つの一貫した研究プログラムを持っている訳ではない。物理学でさえ複数の研究プログラムから成っているのに、なぜ認知科学がただ一つの研究プログラムしか持っていない(持つべきでない)と言えるのだろうか。

認知科学が単一の一貫した研究プログラムだと誤解した理由は、おそらく認知科学の計算主義(情報処理アプローチ)にあると思われる。じゃあ、計算主義を認知科学の研究プログラムの核だとしたら、シンボル処理もコネクショニズムも(最近だとベイズアプローチも反表象主義も)同じ一つの研究プログラムが元になっていると言えるのだろうか?どう考えても、認知科学そのものの中に複数の研究プログラムがあると考えるのが自然だ。

要するに、認知科学はDedre Gentnerも論じているように始めからそして今も多元的なのであり、むしろそうであるべきなのだ。認知科学に一貫した一枚岩であることを求めるのは、そもそものところ見当違いでしかない。


  1. ただし、再現性問題が問題になっている現在でもそれが言えるのかはよく分からない。ただ、メタ分析の問題とかを考えると有意性が出なかったからと言ってデータを公表しなくていいということにはならない気もするが、それはインターネットを使って解決されるべき問題だろう。

なぜ公的な領域にはエビデンスベースが求められるのか?

二十一世紀に入ってから、医療や教育や政策などエビデンスベースが求められる領域が広がっている。エビデンスベースとは「証拠に基づいた」という意味で、経験的な検証を経た手法を用いて医療や教育などを行なおうという動きである。

エビデンスベースとは何か?

まず始めに確認しておきたいのは、エビデンスベースとは科学的であることと全く同じであるわけではないことである。世間一般で(広い意味で)科学的という場合は、任意の科学的成果に基づいているという広い意味で使われることが多く、科学的成果からそれに基づく提言までの間にあからさまに類推や推測が働いていることが多い。それに対して、エビデンスベースの場合は、対象となる手法を直接的に検証している。例えば、単に(広義で)科学的というだけだとある成分がラット実験に効くことだけから人間にも効くということを導く場合も含まれうるが、この例ではラットに効くなら人間にも効くという推測が働いている。エビデンスベースの場合はその成分の直接に人間に試して効くかどうかを検証するような直接的な仮説検証型を指す場合が一般的だ。更に実験計画や因果推論に関わる細かい話は他にいろいろとする余地は幾らでもある。当初はそうした細かい議論をする記事を書く計画だったが、それは手間が掛かりそうなので今回はその手前の内容を書く予定なので、今はこの説明で済ませます。

私がエビデンスベースについて書こうとしているきっかけは、たまたまネット上にあったエビデンスベースについて記事を読む機会があり、ネットで日本語のエビデンスベースの論文を幾つか読むうちに危機感が高まってきたせいである。ネットでよく見かけるエビデンスベースの論文は教育学者や人文学者によって書かれたものが多く、基本的に反エビデンスベース色が強い上に科学的な方法論にも無知なことが多く、読んでも得るものが少ないと言わざるをえない。だいたいその人たちの科学観も科学社会学(やSTS)の辺りに留まるものが多く、私から見ても古臭くて偏っている。このポストトゥルースの時代に、クワインホーリズムもろくに分からない不勉強で非倫理的な 1学者に付き合わされるのはあまりに気の毒なので、とりあえずはエビデンスベースの必要性についてだけの記事を書くことにした。エビデンスベースについてのさらなる突っ込んだ議論 2は別の機会に書く予定です(出来なかったときはすいません)。

私的な領域にエビデンスはいらない(当たり前だ)

なぜ、どんな領域にエビデンスは必要なのだろうか。それは公共的な領域にはエビデンスベースが求められるのだ。そして、医療や教育は社会全体に影響を及ぼす重要な領域であり、そこで使われる手法になぜそれである必要があるのかという公共的な理由が要求されるの自然なことだ。エビデンスというのはまさにその公的な理由(public reason)としてふさわしいものだ。効果があるのかよく分からないものに公的な資金が費やされ、社会の大多数がそれに巻き込まれるのは社会にとって迷惑でしかない。医者が自分の好みで勝手な治療法を選んだり、教育の仕方が政治家や教育学者の単なる思い込みで決めれたりしたら、その社会は大損失を被ることになる。もちろんエビデンスベースは万能なものではないが、社会全体を考えたら、エビデンスベースに従うことが多くの人にとって益することになるのだ。勝手にエビデンスベースを万能なものに仕立ててそれを非難するという反エビデンスベース論者の言うことをいちいち真に受ける必要はない。

エビデンスベース論者で極端な馬鹿論者は、何にでもエビデンスベースが当てはまるわけじゃないという人がいる。そんなの当たり前だ。すでに論じたように、エビデンスベースは公共的な領域について公共的な理由を与えるために求められるのだ。逆に言えば、当然なことに私的な領域にはエビデンスベースは必要ない。これまた理由は簡単で、私的な領域に公的な理由は必要ないのであり、各人は法律に反しなければどんな人生を送ろうと自由だ。もちろん人生に規範が必要だと思う人は勝手にそう思えばいいのであり、それもエビデンスとはなんの関係もない。エビデンスベースに強い抵抗を示している人は、自分の人生が侵食されるかのようなおかしな勘違いをしている場合もあるのかもしれない。

この節で重要な結論は、「公共的な領域にはエビデンスベースがあるものがふさわしい」ということだ。エビデンスベースをどう評価しどう適用すべきか?という上級編は別の機会に取っておきます。

経営にエビデンスベースは必要か?

エビデンスベースの必要性についての基本的な話はすでに終わったのだが、今度はその応用編となる議論をしてみよう。経営にエビデンスベースが必要だという人を想定しよう 3。この人の意見は正しいのだろうか?

結論を先に述べてしまうと、その人がそう主張するのは自由だが、公的領域におけるほどには強制的な説得力はない。経営にエビデンスが必要とされるかの判断の基準は、経営が公的な領域に当てはまるかどうかにかかっている。社会全体を網羅するような医療や教育ほどには大多数の人には関わりが大きくないにしても、私の人生のような私的領域に比べると関わりのある人数はずっと多い。その点では、ある経営者が自社の多数の雇用者のために確実なエビデンスに基づく経営手法を選ぶというのはおかしな話ではない。しかし、その決定は公共的決定とは言い難い。エビデンスの求められる公共性の問題は単に人数の問題ではなく、その失敗が社会においてどう位置づけられるかにかかっている。

ここで注目すべきなのは経営が市場で評価される点である。医療や教育におけるエビデンスベースとは失敗を最小限に抑えること…つまり実験では一方の条件の群が失敗を被るが、単に盲目的に勝手な手法が適用されている(つまり失敗の情報があまり伝わらない)よりは失敗の数は最小限に抑えられることになる(失敗の情報が効率的に伝わる)。

そもそも、経営手法を実地に実験できるか(条件のランダムな割当に経営者が賛同できるのか?)も問題だが、それ以前に注目すべき点として、市場とはそれ自体が実験場なところがある。つまり、市場で様々な経営が行われて、そのうちの成功したものが生き残るのだ。市場そのものが実験場なのだから、わざわざ手間のかかるエビデンスベースな実験をすることは無駄が多い。市場はそれ自体が効率的な(分散的)情報伝達を行なう場でもある。経営にはエビデンスが必要ないというよりも、市場の効果には及ばないということでしかない。

市場かエビデンスか、それが問題だ

ここまでくると、リバタリアン(自由至上主義者)なら医療や教育も市場に任せればいいだろ!というかもしれない。実際に塾や予備校は市場原理に従っている。しかしこれらはあくまで家庭ごとの私的支出によって支えられている。医療や教育のような公共的領域の目的の一つは、公的資金を投入することで最低限の基準を保つことである。そのためにはやはりエビデンスベースによる最低限の保証はないよりあった方がよい。それは自分勝手な政策を実行しようとする政治家に対する防波堤にもなりうる 。

無知なエビデンスベース非難はお話しにならないが、エビデンスベースには様々な面倒な問題があって、単に手法を検証して適用すれば構わないでは済まされないのも確かだ。その点ではリバタリアンのすべてを市場原理に任せろ!も理解できない訳ではない。しかし市場もエビデンスベースとは別の意味で万能薬ではない。ただ、最終的に市場に任せるのであれエビデンスベースに頼るのであれ、政治家や官僚や学者の何の証拠にも基づかない思弁的な政策を勝手に実行されるよりはずっとマシだということだ。 4


  1. 自分の学者人生を引き伸ばすことしか考えていない

  2. おそらく社会科学の基礎論的な話になるだろう。社会科学は条件の統制やサンプルの代表性が自然科学ほどには保証できない…と書けば分かる人には分かるはずだ。実は心理学の再現性問題も関わりを持っている。

  3. だいたい経営手法を直接に実験的に検証するのは困難としか思えない。「経営者と構成員の認知・判断に関する実験科学的アプローチ」を参照。一応確認しておくと、私はエビデンスベースの経営を否定しているのでなく、必要性の議論の違いに注目させたいだけだ。

  4. ちなみに、この記事に文献参照が少ないのは単に適切な日本語のエビデンスベース論文がないからでしかない。一本だけ良い日本語の論文はあったが、今回参照するのには端的に適切でなかっただけだ(次があれば参照するはず)。英語のエビデンスベース文献で最も重要なのは科学哲学者ナンシー・カートライトの著作だ。

相変わらずブログに書くようなことはなくはないのだが、単に面倒なのもあるが、そもそも私自身が読んで感心するブログ記事そのものが今やあまりなくて、そのせいで自分からブログ記事を書こうとする気が起きない。ネットで見かける間違った内容や無益な話も多く見かけるが、あまりに多すぎていちいち対処する気も起きない。あとははてなブログ自体が気にいらなくて、ネット上に他に適切な媒体を探したが、どれも良くても一長一短でこれだ!というところがない。とりあえずブログとホームページの中間みたいなサイトだけは作ったので、お暇な人はどうぞ(→蒼龍のタワゴト 出張所へ)

最近調べているテーマとしては…ポピュリズムの話、人文学の危機の話、エビデンスベースの話とかがあるが、まだ勉強中なところもある。その中ですでに調べる気も失せて、記事として書く気も失ったポピュリズムの話について少しだけ書こう。

最近になってポピュリズムについて調べ始めた直接のきっかけは、れいわ新撰組への注目によって話題になった左派ポピュリズムについて知ったのが原因だ。調べるうちに、日本の一部の論者が含意するような(左派)ポピュリズムへのネガティブな言及はただのイメージ論でしかなくて間違っているのは分かった。始めはそこをメインにして書こうともしたが、ネットにはそこに触れている記事はなくもないので、その時点でやる気は相当失われた。つまり、ポピュリズムはその中身を別にすれば反エリート主義や少数者支配への反発の現れであり、そのこと自体を軽視するべきではない。ただ、左派ポピュリズムを知らしめたラクラウやムフからすれば、右派ポピュリズムと違って左派ポピュリズムにはより肯定的な意義があることになる。左派ポピュリズムを非現実的な政策を主張する者とする評価は一面的な評価に過ぎない。左派ポピュリズムであれ反知性主義であれ、日本の論者には元々の議論を確認することなく単なるイメージで言葉を使う奴が多い。これでは、ネットにはびこる思い込みの激しい無知な奴らとの違いがあまりない。

ポピュリズムについて調べたのはこれが初めてではなく、以前にも似たことは調べたことがある。それはトランプ政権が大きな話題になってしばらく経ってから、あるトランプ大統領についての記事で西部シュトラウス派(google:西海岸シュトラウス派)について知ったときだ。シュトラウス派とは、政治哲学者レオ・シュトラウスの影響を受けた学者の集団である。ブッシュJr.大統領時代にネオコンというのが話題になった頃があるが、ネオコンは東部シュトラウス派(東海岸シュトラウス派)とされている。ネオコンは世界中に民主主義を普及させることがアメリカの安全につながるとしていた。現在はそれへの反発が起こっていると言える。西部シュトラウス派は直接にトランプを支持しているわけではないが、トランプ現象に同情的な理論を展開している。

それまでのネオリベ政策によってアメリカで格差が広がってしまったが、リベラルも保守も主流の中道派はそこに切り込むことはできないでいた。大統領候補だったヒラリー・クリントンはまさにセレブであり、高慢ちきなエリートにしか見られなかった。かといって、共和党の側は市場主義的なネオリベラリズム(新自由主義)が主流に行き渡っていて、こっちも似たりよったりだ。トランプでであれサンダースであれ格差を広げるネオリベ状態を容認する左右の中道に対する反発として支持されているのだ。実際には西部シュトラウス派はリンカーンを取り上げて論じているが、東部シュトラウス派(ネオコン)のエリート主義に対して、西部シュトラウス派は民衆(多数派) 1による反エリート主義(というより反エスタブリッシュメントや反セレブ)を少数者支配に対する反抗として擁護している。 2

左派ポピュリズム論であれ西部シュトラウス派であれ、ポピュリズムの持つ反エリート主義を肯定的に指摘する点で一致している。自らの立場や見解を堅固に主張する人が多い中で、現象を冷静にに分析する視点はとても貴重なものとなっていると思う。


  1. トランプ支持者は本当の多数派じゃないのでは?という懸念はここでは無視する。多分、ポピュリズム的な側面だけでは現在の現象を論じるには片手落ちなのかもしれない。とりあえず、ここでは議論の紹介に徹する。

  2. トランプ自身が金持ちで金持ちの味方じゃん!という意見も正しいと思うが、ここでは政策や政権の具体的中身には触れない。ここで問題にしているのはトランプ現象に対する現象としての議論であり、その具体的な中身の評価は含んでいない。私の印象ではトランプ政権は内政的にはよく分からないが、外政的には評価すべき点も多い。それと比較すると、オバマ政権の外交政策はとても褒められるものだったとは言えない。