2010年代に私が感激した認知科学の哲学論文BEST3

もう2019年も終わるということで、2019年の認知科学を振り返ろうとする記事を書く計画は立ててみた。しかし、去年までの人工知能ブームが収まった今年は特にこれといった特徴を思いつくこともない。もしかしたらあったかもしれないが私には分からない。predctive proessingやradical enactivismは相変わらず話題にはなっているが、これは別に今年には始まった話ではない。

そこで今年は2010年代も終わりでもあるということで、2010年代の認知科学を振り返りたいと思う。ただ、道徳心理学を自動運転の議論に応用するが流行ったね!みたいに一般的に振り返っても私にはあまり面白くない。そこで、これまで紹介するのを躊躇っていた2010年代に読んで衝撃を受けた認知科学に哲学的にアプローチした英語の論文の私的なベスト3を書いてみたいと思う。すべてネットで手に入る論文なので興味の出た人は自分で調べてみてください。

第一位J Dewhurst"From folk psychology to cognitive ontology"

これは私に認知科学の面白さに改めて覚醒させた論文。2017年に出された博士論文でネットで調べれば手に入ります。ちなみに、論文のタイトルは1990年代に出たスティッチの有名な著作「素朴心理学から認知科学へ」をもじったもの。

2010年代の前半は私自身は認知科学に興味を失っていて、この論文を手に入れた頃も私にとって認知科学についての新しい興味深い話はもう大してないだろうと思っていた所があった。ところがこれを読んで、認知科学について大きな像を与えてくれる見事な議論に魅惑された。

論文(実質上著作並)の内容は、素朴心理学についての哲学的な議論から始まり、新しい認知科学の成果を参照しながらそこでの素朴概念の問題を論じ、最後に脳イメージング研究における機能部位対応説の失敗から素朴心理学を脱する認知的存在論の試みを紹介するという流れになっており、その見事な構成も素晴らしいものとなっている。

これを読んで、新しい成果を含めた認知科学への深い理解を前提にした認知科学についての哲学的な議論がまだ可能なことに気づかされた。私が未だに認知科学に興味を持てているのはこの論文のおかげだと言っても決して大袈裟ではない。認知科学の哲学が教科書に書かれるだけの遺物ではまだなんだと元気づけられる。

第二位P Gladziejewski"Explaing cognitive phenomena with internal representation:A mechanistic perspective"

認知科学の哲学において(新しいタイプの)表象主義は近年よく議論されるホットな話題である。この論文は、おそらく予測処理器(predictive processing)を構造的類似性と結び付けて表象主義を論じたものとしては、私の知る限りもっとも早いものだと思われる。ただしマイナーな学術誌に載ったせいか、参照されるのは同じ著者でももっと後の論文のことが多いが、論文としての出来は圧倒的にこっちの方が上だ。

表象主義は身体化論における古典的計算主義批判によって評判が悪くなってしまったが、この論文は表象を当時話題の予測符号化と結び付けて論じている。そのための準備として、そのために必要な表象の特徴として構造的類似性を取り上げている。認知科学の哲学において表象の構造的類似性に触れた文献自体はすでにあったが、それを予測符号化に導入してメカニズムとして提示しているのは始めてではないかと思われる。

私の好む論文の常で、論文の構成も見事だ。この論文を読んでおくと、最近の認知科学の哲学における表象主義の議論が理解しやすくなるような気がする。

第三位Daniel Williams"The mind as a preictive modelling engine:Generative model, structural similarity, and mental representation"

これは2018年に出された博士論文。予測処理器(predictive processing)について表象主義を中心に論じた論文。

第二位の論文と重なる内容も多く、サイバネティックス時代の先駆者Kenneth Craikの紹介も興味深い。だがやはり、むしろ表象を全面的に否定するradical enactivism(極端な身体化の立場)との対決がまとめてなされているのが見物。

行動主義と大して変わりのないラジカリストに対して「世界そのものはその最良の生成モデルではない」といった形で反論が繰り広げられている。このタイプの反論をまとめて読めるのはこれ以外には今でもほとんどないと思われる。そのじつ、予測処理器を安易に統一理論だと主張せずに、その適用範囲について慎重なのも私には好意が持てる。

ちなみに、同じ著者による今年出された論文では、ベイズ脳が前提とする合理性が批判されていてこれも興味深い論文だったが、今年このブログで紹介する余裕はなかった。

どうも、最近使っていた古いタブレットが突然にぶっ壊れてかなり困った蒼龍です。その後、リサイクル店で手頃な中古タブレットを見つけて助かったわ。

認知科学については日本ではあまり知られていないが自分ならそれなりに知っているようなことは探せばあるだろうが、面倒なのと知らせる動機が湧かないのとでやる気が起きない。最近だと計算主義批判に反論した論文が面白くて記事に書こうかとも思ったが、そもそも日本では計算主義も(身体化論による)計算主義批判もろくに知られてないのに計算主義への反論について書く意義がよく分からないし、一から説明するにも面倒で取り掛かる気は起きない。

最近の日本の認知科学事情だと、リサ=バレットの情動(emotion)論の著作が訳されたのが目についたかな。ちゃんと読んでないからここで大したことは言えないけど、リサ=バレットによる情動の構成主義から内受容感覚の予測符号化へという流れは、フリストンの認知的存在論(cognitive ontology)から自由エネルギー原理へという流れに対応している。つまり、機能や情動の脳部位対応説が失敗したことから脳の計算的メカニズムの探求へと言う流れは共通している。脳の計算的メカニズムとしてはベイズ脳が想定されているが、ベイズ脳における合理性を批判する論文も少し前に読んでいて面白いとは思ったが、それを紹介するのもまだやる気がしない。

それよりも、最近の日本の政治事情を見ていてイライラしてくるところがあるのでここに書いてスッキリする。それは日本での制度への注目のあまりのされなさにうんざりしている。つまり、官僚が政治家に忖度するそもそもの原因は、人事を政治家に握られているせいである。そこの問題に気づかないのはそれこそ権力分立も議院内閣制も日本ではろくに理解されていない証拠だ。

議院内閣制について知るには古典であるバジョット「イギリス憲政論」を読むのが一番だが、これは読まれていないどころか、日本では手軽に手に入れることさえできない。そのせいか、議院内閣制とは専門知識を持った官僚を素人としての大臣(政治家)が見張るという形式が理解されていないように見える。確かに元々の日本の大臣は官僚の犬みたいな立場で問題があったが、それが今回は真逆に政治家が官僚の人事を握ったら権力分立が完全に崩れっ去ってしまって官僚が政治家の犬になってしまう。議院内閣制では三権分立が守られていない…はバジョットの見解ではあるが、それは一方が他方に従属する犬になっていいことを意味していない。こんな馬鹿な制度を作ったのはどこの誰なのか?なんできちんと反対できなかったのか?はきちんと調べておいたほうが良い。

ちなみに、日本では制度か人か?の二者択一を持ってきて、制度では問題は解決しないから人だ!という論者もいるが、これはまやかしだ。もちろん制度も人も!が正しい。だいたい制度は人が安易に間違ったことをしないようにしたり(権力分立!)、できればうまく物事が運ぶようにしたりするための仕組みで、制度だけで問題が解決すると思うのが勘違いだ。

日本の問題は最新の理論や技術以前の基礎知識レベルで解決すべきところも多いが、それが指摘されることさえ少ない。実は日本には制度上の問題はもっと広範囲に見られるものでもある。