社会生物学が還元主義的でないことを進化ゲームから理解する

少し前にネットで、哲学者がドーキンスの機械論を論じていた記事を読んでいて、あぁ〜この辺りについては私が説明しておいた方がいいのかなぁ?と感じてしまった。

社会生物学(行動生態学)1進化心理学については、一応は私の関心領域と関わりが深いので一時きちんと勉強していたこともあり、知識には自信がある。このブログではたまたまその辺りの話題をあまりしていないが、他でその辺りの話題を見るたびに、なんか違うんだよな〜と感じることは多かった。

進化ゲームの理解こそが正しい理解の近道

社会生物学(行動生態学)を理解したければ、進化ゲームを理解するのが最も適切だと思う。だが、今回ネットで調べてみて、進化ゲームについての分かりやすい解説が相変わらずないのを確認した。

進化ゲームの書籍については私が以前にアマゾンでレビューを書いた本があるので、それを見てください。多分、今でも進化ゲームの一般向け解説書としてはこれを超える本はないと思う(もちろん関連書籍を確認しきれてはない)。

そこで、この記事の目的は進化ゲームの考え方を理解するための肝の部分だけ説明します。詳しい説明をしないどころか、ゲーム理論ダイナミクスも説明を端折ります。情報としての遺伝子に話を集中します。これさえ分かれば、社会生物学(行動生態学)が還元主義でないことがあっさり分かります。

社会生物学(行動生態学)や進化心理学への正しい批判

ただ一応、進化ゲームの説明に入る前に、社会生物学(行動生態学)や進化心理学についての基本を確認しておきます。よくある不毛な議論の多くが基本を押さえるだけでもスキップできます。

社会生物学(行動生態学)や進化心理学は、行動(心)が進化によって生じたとする考え方を基礎に置いている。これを前提にした上でよくある勘違いに軽く触れておきます。

観察される事実に反するものは間違っている

観察される事実(この場合は行動)に反するものは間違っている…当たり前だろ!とは思われるかもしれないが、案外ここが押さえられてなくて議論が不毛になることは多い。

著者たちにとっては残念なことに、「奇形児または重病の子」として分類されている例のかなりの部分において、そうした子供たちが殺されることが包括適応度の上昇につながるという主張は必ずしもあてはまらない。「健康な赤ん坊を『迷信的に』殺してしまうような社会はほとんどない」(ibid.)と著者たちは断言するが、これはあきらかに事実に反している。ちゃんと民族誌を読まずにHRAFなどで作業しようとするからこういうことになるのだ。
google:比喩の使用と濫用―進化論における志向的語り口の問題点― 浜本 満より

引用部分はDaly & Wilsonによる社会生物学的な説明への批判であるが、このような事実確認で批判が済むことは案外多い。不毛な議論の迷宮に入る前に、この部分を確認しておくのがお勧め。

究極要因と至近要因は対立していない

行動が今ここでどう起きてるのかという至近要因と、行動が進化の過程でどう生じたのかという究極要因とを、たまに排他的に対立させて比較する人がいるけど、それは端的に間違っている。至近要因の説明と究極要因の説明は両立する。究極要因の優位性を示そうとするマウンティングにいちいち付き合う必要はない。

ここで重要なのは、社会生物学(行動生態学)と進化心理学の違いだ。これらは安易に一緒にされることもあるが違う。社会生物学(行動生態学)には行動を起こすメカニズム(至近要因)の説明は含まれてないが、(少なくとも正統派の)進化心理学はモジュール論というメカニズム(至近要因)の説明が含まれている。

進化心理学は説明の質の差が激しい

ただし、進化心理学の議論の中にはモジュール論が前提になっていないものもたまにある。その上に、進化ゲームのような形式的(論理的)な議論を用いずに進化的な適応を説明する場合もある。そうなると、もっともらしい説明をしてるだけの「なぜなに物語」と揶揄されてももはや仕方ない事態に陥ってしまっている場合もある。

では、どんなときにもっともらしいだけの「なぜなに物語」に陥っているかを見分けるには、そもそもどうすれば進化的な適応を論理的に提示できるのかを分かっていないといけない。それを示す典型的な手法が進化ゲームである。

社会生物学を情報としての遺伝子から理解しよう

ドーキンスの「利己的な遺伝子」は今でも読む価値のある素晴らしい本ではある。ただそれを読んでいて、始めにある分子生物学の説明は、本の全体的な構成からは浮いていて違和感があった覚えがある。それも含めて、ドーキンスの遺伝子還元主義的な説明にはどうも馴染めなかった。しかし、それは以下の引用部分を読んだことでスッキリと解消した。

ジョージ・ウィリアムズは、議論に別の一ひねりを加えた。彼は『自然淘汰』(Williams,1992)において、情報的単位としての遺伝子と物理的単位としての遺伝子を区別すべきことを明確にした。
…中略…
彼によれば、伝達されているのは基本的に情報であるという。彼は、ドーキンスが物としての遺伝子を、そしてその複製の重要性を強調してきたために、人々を説得するのに苦労したと信じていた。「情報と物質とのあいだの区別をはっきりさせるまでは、淘汰のレヴェルをめぐる議論は混乱に陥るだろう」(Williams,1995,p.44)
社会生物学論争史〈2〉―誰もが真理を擁護していた」p.569-70より

現在だって、行動の原因となる遺伝子なんて直接には発見されてないはずだ(可能だとしても些細なもののはず)。じゃあ、ドーキンスのような進化学者は行動の進化をどう研究したのだろうか。

社会生物学の理解に分子生物学は必須ではない

社会生物学(行動生態学)にとって重要な主な要素とは、 1. (動物行動学によって)観察された生物の行動
2. その行動を論理的に分析する数理的な理論

さらに行動実験が入ることもあるが、基本はこの2つが重要だ。進化ゲームは2の数理的理論の一つに当たる。

これを見れば分かるよう、社会生物学(行動生態学)は分子生物学のようにDNAのような遺伝子を直接に調べてるわけではなく、あくまで行動からその遺伝性を調べている点は行動遺伝学と似ている。つまり、社会生物学(行動生態学)にとって分子生物学の説明は、(進化論という共通の基盤はあれど)必須な訳ではない(行動生態学の説明としては優れているが、つい分子生物学と組み合わせてしまった例としてgoogle:アマチュア研究家に薦めたいクモの行動生態学へのガイド 辻和希を参照)

社会生物学を理解する核は情報としての遺伝子だ

ここまで来て引用部分に入れる。ジョージ・ウィリアムズは進化の総合説を作り上げた先駆者の一人として有名だ。特に彼は遺伝子淘汰を主張したことで知られているだけに、この晩年の提案は興味深い。

あっさりと説明してしまおう。社会生物学(行動生態学)は特定の行動(戦略)を起こす遺伝子を想定しているが、それを物としての遺伝子だと主張したから誤解を招いたのである。それは情報としての遺伝子であるとするのが正しい理解なのだ。私はこのアイデアはもっと評価されてよいと思うのだが、実際にはあまり知られていない。

進化ゲームを情報としての遺伝子から理解する

進化ゲームを理解するためには、当然ながらゲーム理論を理解している必要がある。だが、ゲーム理論についてはネットを含めて大量の説明があるので詳しくはそれらを見てもらうとして、ここは最小限に済ます。

ゲーム理論とは、複数人がそれぞれ複数の選択肢から特定の行動を選び、その選択肢の組み合わせによって各自が利得を得る形式化されたゲームを研究する分野だ。有名なものに囚人のジレンマやチキンゲームなどがある。詳しくは自分で調べてください。

インターネットで調べても、ゲーム理論の説明はいくらでもあるけど、進化ゲームはほとんどない。たとえあっても分かりやすくない。その原因の一つは、その進化ゲームの説明の作者が経済学者ばかりなせいだろう。進化ゲームでは得られた利得に比例して次の世代に受け継がれる戦略(行動の選び方)が決まるが、その受け継ぎの解釈には遺伝と学習がある。経済学者は学習解釈を取らざるを得ないが、実際には遺伝解釈の方が解釈として自然で分かりやすい。ここでは当然、遺伝解釈で説明する。

進化ゲームにおける戦略を伝える遺伝子の役割

ゲーム理論における戦略とは、ジャンケンでいえば手の出し方に当たる。均等にバラバラに手を出す人もいれば、パーばかり出す人もいる。ある一つの手(例えばグーだけ)を出す戦略を純粋戦略、いくつかの手を確率で組み合わせる戦略を混合戦略と呼ぶ。ゲーム理論においては純粋戦略か混合戦略かの区別は重要だ。しかし、進化ゲームにおいてはその区別はそこまで重要ではない。なぜなら、進化ゲームでは戦略は個人が担うのではなく、(想定上の)遺伝子が担っているからだ。

もちろん進化ゲームでも、実際にゲームに参加するのは個人(個体)だが、その個体が実行する戦略は(架空の)遺伝子によって決まる。個体のとる戦略はその個体が持っている遺伝子の割合によって決まる(だから戦略の純粋/混合の区別は重要でない)。任意の個体同士のゲームから得られた利得に沿って、(架空の)遺伝子が受け継がれることで、その戦略が次の世代に伝わる。進化ゲームにおいては、表面では個体が淘汰されてるように見えるが、実質的に淘汰されているのは戦略を担った架空の遺伝子の方だ。

ここで重要となる考え方が遺伝子プールだ。見るべきは、どんな遺伝子が残っているか?であって、どんな個体が残っているかは二次的な問題(残った遺伝子の帰結)でしかない。(個体を度外視して)残った遺伝子を全体として見たのが遺伝子プールであり、この遺伝子プールにおける(戦略を担った)遺伝子の割合こそが進化ゲームでは重視される。この遺伝子プールの状態によってESS(進化的に安定した戦略)が定まる。

ネットで見れる進化ゲームを主題にした日本語文献は少ないが、その数少ない一つがgoogle:双安定進化ゲームの確率的ダイナミクスに対する 空間自由度の影響。ただし、ほぼ数式で普通に読めるのは冒頭ぐらい。しかも、進化ゲームの遺伝解釈の説明(生物種で説明)は私から見ても問題がある。

最後のひと押し

ここまでの私の進化ゲームの説明を大して分かりやすくないと言う人はいるかもしれない。だが、そういう人はネットや書籍で進化ゲームについて調べてほしい。数式だらけの説明に比べれば、私の説明の方がパラフレーズしてる分だけまだマシなはずだ。それでも分からない人のために一言。

進化ゲームでは、戦略(行動の選び方)という情報を担った遺伝子こそが主役(淘汰の単位)であって、個体(個人)も物としての遺伝子も重要ではない

ちなみに、遺伝子をミームに言い換えれば進化ゲームの学習解釈に変えられると思うが、遺伝解釈ほどにはしっくりこない気がする。


  1. 社会生物学という用語は誤解を与える上に、そもそも最近はあまり使われていない気がする。大して意味の変わらない行動生態学でも構わないと思うが、社会生物学という言葉があまりに有名になってしまった経緯があるので、ここでも一応用いる。たまに社会生物学(行動生態学)は社会性生物だけとか血縁淘汰だけとかにしか当てはまらないと適用範囲を勝手に狭めて理解してる人も見かける。進化ゲームの説明を見れば分かる通り、これは行動(や形態)の進化について一般的な説明を目指している。

社会を統治する新しいパラダイムを探ってみる

最近の私がよく調べたり考えたりしてるものがある。それの中の主な二つが、統計(情報)の話とアーキテクチャの話になる。ただ、私が考えてるテーマを直接書いてもなかなか興味を持ってもらえそうにはないので、もうちょっと現在の状況に合わせた形の話題にして、ネット記事からの引用を交えて記事を書くことにした。

目先のポストコロナ論を超えて

現在は新型コロナウイルスで騒然とした状況である。その中で、様々な人が様々な見解を発信している。ただ、直接に問題と結びついた知識を持っている人はそれを元に議論をすればよいが、そうでない側の人は(馬鹿騒ぎするのでなければ)やきもきするしかない。そこで、それに耐えられない人たちが、この新型コロナ以後の世界を論ずる、ポストコロナ論やアフターコロナ論を展開させている。

しかし、そうしたポストコロナ論やアフターコロナ論はたいてい、私にはつまらないと感じられる。それらを展開させている人がそもそも関連知識がない(あるなら直接に新型コロナ論を論じてる)のも原因の一つだ。だが、もっと大きな要因は、現在の危機状態における状況をそのまま将来に拡大させて反映させているだけなことが多いからだと思う。

その点では、山形浩生の指摘は正しい。オウムサリン事件やリーマンショック東日本大震災と同じで、事態が収まって時が十分に経てば1、そんな一時的な反省は忘れ去ってしまうだろう。

その中で比較的に面白い記事だと思ったのが、エフゲニー・モロゾフによる論考だ。

ごく単純に言えば、「ほかの選択肢も時間も財源もないから、 社会の傷にはデジタルの絆創膏を貼ることくらいしかできない」と考える思想だ。
ソリューショニズムの信者は、テクノロジーを使えば、政治に首を突っ込まなくてすむと考える人々だ。
「パンデミックを“IT政策”で乗り切る」のは大間違いですより

これが興味深く感じられる理由は、それがモロゾフが前々から主張している解決主義(ソリューショニズム)批判と結びついてるいるからだろう。たいていのアフターコロナ論は現在の危機感をそのまま将来に拡張させてるだけなのに対して、これまでの流れを踏まえた射程の広い議論なのが良い。

そこで自分も、このモロゾフの解決主義批判の議論を補うように視点を広くできるヒントぐらい書きたいなぁ〜

社会を統治する新たなパラダイム

社会に重大な影響を与える病気への対応は、時代によってかなり異なる。特にフーコーによる議論は知られている。

こうした排除、価値剥奪、追放といったネガティヴなメカニズムに支えられたモデルは、しかし17世紀末から18世紀初頭にかけて姿を消したように思われる、とフーコーは分析する。反対に、それとは別のモデル、ペスト患者に対する封じ込めのモデルが、癩病患者の排除に取って代わったという。ペストのモデル、それは管理のモデルであり、ペストが発生した都市の網羅的警備というモデルである。
7調和と逸脱──19世紀における〈メタ身体〉の系譜学より

「狂気の歴史」で描かれる排除モデルから、「監獄の誕生」で描かれる管理モデルへの転換は、その方面ではよく知られている。管理モデルはフーコーの言う生権力と結びついており、学校や工場、病院や監獄のように、一括に人々を集めて人々の行動を制御するという形をとる。詳しくは大量にある関連文献を読んでください。

しかし、こうした管理モデルが成立してたのはせいぜい二十世紀の間までだ。今では新しい社会統治のモデルが現れつつあり、それこそがモロゾフの言う解決主義である。政治的解決の当てにならなさに絶望した後に、テクノロジーによる解決に期待したくなる気持ちは私自身も理解できる。実際に、それはビックデータと高度な技術発展によって可能になりつつある…いや、実は別の形ですでに実現していた。

各個人に最適化させるアルゴリズム

マイクロターゲティングという手法自体は、一般的なマーケティングでも使われるものだ。CA社は、それをプロパガンダに利用した。かつてのプロパガンダでは、例えば同じメッセージが書かれた大量のビラを空から無作為にばらまいていた。CA社が行なったプロパガンダとは、ひとりひとりに対して異なるメッセージが書かれたビラを、狙い撃ちで届けるようなものだ。
ケンブリッジ・アナリティカ事件の当事者が語る「民主主義をハックする」方法より

ケンブリッジアナリティカは、イギリスのEU離脱やトランプの大統領当選に大きな影響を与えた企業として有名になった。重要なのはそこで使われた手法で、それはこれから社会統治に用いられようとしている手法そのものだ。

人々からデータを集めて、それを各自に沿った形へと変換して使う。そこには、過去の排除モデルや管理モデルにあったようなあからさまな不快さは消されている。それは一度受け入れてしまえば抵抗するのは困難になる。それは既に、アマゾンやユーチューブやネットフリックスのような巨大プラットフォームにおいては実装されており、利用者はその便利さに逆らうことにメリットはほぼない。

今回の感染症対策にこうした技術を活かせば、被害を最小限に抑えながら経済活動を促進することが可能になる。そして、ここで味をしめてしまえば後はそれが社会統治へと全面化されるがそれで良いのか?…がモロゾフの提示する疑問だ。

この疑問を論ずることは別の機会にするとして、次はこうしたビックデータを扱う技術を支える背景にも少しは迫っておきたい。

平均の統計学からの転換

19世紀後半には、統計的平均と健康(健全さ)は同一視され、「正常なもの(le normal)」と呼ばれるようになり、逆に統計的平均=調和から逸脱したものは「病理的なもの」と記述されていった。
7調和と逸脱──19世紀における〈メタ身体〉の系譜学より

統計学を古典的統計とベイズ統計に大きく分けるとすれば、古典的統計は平均と線形(の帰結としての正規分布)の統計学である。二十世紀までは古典的統計が当たり前の主流であったが、最近はベイズ統計が力を増してきている。

二十世紀までは、フーコーのいう生政治によって統計的な平均が重視されており、それが規範を定める生権力による管理モデルに反映されていた。学校や工場のように、決まった時間に一斉に学んだり働いたりし、机に座ってじっと先生の話を聞くという行動規範が押し付けられていた。

ここで興味深いのは、管理モデルの時代と古典的統計が進展・普及する時代が重なっていることだ。ここには、その時代の知識の共通の基盤として、フーコー的な(近代的)エピステーメーが働いてるのかもしれない。そこでは、記述的な状態としての平均と人為的な基準としての規範が一緒くたにされて、社会統治のパラダイムをなしていたのかもしれない。

今回の新型コロナの件でリモートワークが増えてきている。そこから全てがリモート化するみたいな、今の状態を将来に拡大されただけの話はどうでもいい。ここでは管理モデルにあった、一括に人々を集めて管理する側面がどんどん解体されつつある。社会統治の新たなパラダイムが作られつつある(監視モデル?)。それに対応するかのように、知的な領域でも変換が生じているが、統計学における古典的統計からベイズ統計への転換もその一つと思われる。

統計改革は現在、進んでる最中でなかなか語りがたいが、古典的統計とは異なる考え方が普及しつつあるのは確かだ。ここで簡潔に論ずるのは困難だが、統計的な検定やモデリングだけでなく、ニューラルネットワークのようなアルゴリズムも含めて考慮すると、データへの統計的な扱い方や考え方(例えば線形から非線形へ)に大きな変化が起こっていることだけは確かだ。

とりあえず締める

後はせめて科学観の転換(物質から情報へ2)についても書けば、フーコーのいう知から力の層までで起こっている変化をとりあえず網羅できるが、もう切りがない。

最後に、ここでは結局あまり語れなかったアーキテクチャ論に触れてる最近の記事を紹介しておきます。


  1. おそらく問題は、人と距離を保つこと(social distancing)が元に戻るまで持たない業態が増えることだろう。特に昔ながらの商売を続けるのが困難になってしまい、街が様変わりしてしまうかもしれない。人々が精神的に目覚めて…みたいな一時的な空想よりも、そっちの方が心配。

  2. 案外知られてないのは、ニューラルネットワークの研究に物理学の研究者が多く関わっていることだ。これは統計力学の考え方(数式)がニューラルネットワークに応用できるかららしい。

認知バイアス用語集が便利な事典項目

私が最近に認知科学について興味を持っている内容が、一般向けにはマニアックすぎて書くのを躊躇している。そんな内容を書けないならこんなブログ続ける動機などないのだが、とりあえず比較的どうでもいい軽い話題でしのごうかと思う。

最新版 事典の認知バイアスの項目

認知科学については定期的にインターネットで調べ物をしている。その中で、今年の1月にプレプリント(事前公開)が出たばかりの事典の項目を見つけた。

google:Cognitive biases Section to be published in the Encyclopedia of Behavioral Neuroscience (Hans)Korteling Alexander Toet

これは認知バイアスの項目なのだが、正直なところ項目の解説内容はあまり大したことない。

その認知バイアスの項目の解説文は、いまさらの進化心理学の勧めみたいな内容で、感心するほどの中身はない。通常の心理学的な説明をくさして、進化的な説明を翼賛するという流れになってる。その至近要因と究極要因を比較して後者を褒めるという、進化心理学のブーム時によく見かけた不毛な形式を未だに繰り返してるだけで読む価値があると思えない。

項目の解説文はくだらないが、この文書におまけでつけられているGlossaryが、認知バイアスの用語集としてとても便利。私はやる気ないが、誰かこれをすべて訳して公開しておけばもっと便利なのに…とさえ思った。

で…まぁ、ちょっとだけ自分で訳して紹介してみます。

認知バイアス用語集からの翻訳

まずはこの前の記事で取り上げた認知バイアスから始めよう

内集団バイアス

他のグループよりも自分が属するグループを好む傾向

Ingroup bias: the tendency to favor one’s own group above that of others (Taylor and Doria, 1981).

訳してみると、認知バイアスを示す実験の説明(ランダムにグループ分けしても効果が出る)がなくてものすごく物足りない。とはいえ、全ての用語に必ずし最低一つの文献が参照されてるのは便利。これで元の文献に遡って調べられる。項目の解説文では褒める気が起きないけど、この点では著者達を褒めておきたい。

次は、認知バイアスの中でも断トツによく見る用語

確証バイアス

自らの先入見や視点や期待を確認するような情報を選び解釈し注目し記憶する傾向

Confirmation bias: the tendency to select, interpret, focus on and remember information in a way that confirms one's preconceptions, views, and expectations (Nickerson, 1998).

まぁ、よく聞く認知バイアスだよね。ただ、これを他人を非難するのに安易に使っちゃ駄目ね…あなたにもこれは当てはまります。それって実はこんなバイアスかも…

自己中心バイアス

自分の見方に激しくこだわり、他者の視点から状況を捉えられない傾向

Ego-centric bias: the tendency to rely too heavily on one's own point of view and to fail to consider situations from other people's perspectives (Moore and Kim, 2003).

こういう自分の見解にこだわってなんとか正当化しようとする傾向を、Dan Sperber&Hugo Mercierはマイサイドバイアスと呼んで、進化的な適応性を主張している。マイサイドバイアス説にある、人は相手に向かって正当化する動物だとするところは、哲学者のブランダムの説も思わせて興味深い。これまで紹介したのはこの種の認知バイアスとして分類できるかもしれない。

あと、最近聞くことが増えてきた認知バイアスもある

正常性バイアス

災害やそのありうる帰結が起こりうる可能性を低く見積って、物事は通常通りに働いているはずと信じる傾向

Normalcy bias: the tendency to underestimate both the likelihood of a disaster and its possible consequences, and to believe that things will always function the way they normally function (Drabek, 2012).

ただ認知バイアスは全ての人に当てはまるので、認知バイアスを理由に他人を非難(欠点として説明)するのはやめましょう。1俺は正常性バイアスにハマってないけどお前は正常性バイアスにハマっている…と非難しあうことに意義はありません。素直に今がどう緊急事態なのかを説得しましょう。

他にも、アンカリングとかフレーミング効果とか基準率の無視とかは、行動経済学の本では認知バイアスとしてよく紹介されている。用語集の中にもあるので興味のある人は確認してみてください。

私もよく知らない認知バイアスも用語集にあるが、責任を持っては紹介できないので自分で見てみてください。

あとがき

自分にとって発見のない記事は書くのがキツイことが多いが、この記事は楽ちんに書けてよかった。事典項目とは直接関係のないマイサイドバイアスに触れられたので、少しは書いた甲斐もあったかな。ただ認知バイアスについては認知のベイスモデルとの関連(バイアスを合理性とどう擦り合わせるか?)とか、とってある話題もまだあるが、書くかは分からない。


  1. 正常性バイアスについては、ラジオでなぜコロナ渦の中でもパチンコに行くのかを説明するのに臨床心理学者が語っていて、私は違和感を感じた。理由は記事で触れたが、他に性格(例えばビック5モデル)による説明でも駄目論と組み合わせて独立で記事を書こうともしたが、もうこれを書いたので書かない。要するに、性格や文化で行動を説明しちゃ駄目って話で、性格や文化は行動傾向そのものなので実はトートロジーでしかないのが理由。まぁ、これについては分かってない人が多いので、機会があったらその時は書くかも。