論文「Is the Free-Energy Principle a Formal Theory of Semantics?」の背景を説明する

ネットを見てたら、自由エネルギー原理で有名なフリストンが共著者の最新論文が紹介されてた。

ツイートを見てたら、この論文がenactivismを否定してるかのような書き込みを見て、気になって論文を眺めてみた。その結果、それは勘違いだと思ったが、その哲学的な背景が分からないと勘違いしても仕方ないかな?とは思った。

以下にするのは、この論文の哲学的な背景だけであって、論文の解説はしません。にしても、共著者に哲学の研究者がいないのに、哲学的な議論をしているという、どこか奇妙な論文だ。

内容を認めない反表象主義としてのradical enactivism

この論文は対立する二つの立場が問題となっている。その一方が最近、流行りのradical enactivismだ。enactivismはもともとヴァレラが提唱した考え方だが、近年になってその考え方をよりラジカルな形で受け継いだのが、radical enactivism。それがオリジナルのenactivismとどう違うのかは省略。

radical enactivismが提示する問題に「内容についての難しい問題」(hard problem of content)がある。内容とは、言葉の意味的な内容と言ったときの内容に近い。radical enactivismでは、内容の難しい問題を解けないので、表象を認める考え方は間違っている…とする反表象主義の立場をとる。その立場は、心的内容を一切認めない行動主義にも近い。

しかし、反表象主義には自由エネルギー原理からは都合の悪い側面がある。

生成モデルによって作り出される予測へのコミットは、radical enactivistを悩ませるが、その理由は予測の考え方には本質的に内容が含まれているからだ。予測される未来はこういう風のものとして予測されるが、予測はときどき真実になりそこねる
google:Tomasz Korbak Unsupervised Learning and the Natural Origins of Content p.4より

生成モデルを表象として理解する構造的表象論

反表象主義に対立する立場として、このような生成モデルをむしろ表象として認めてしまおうという立場がある。

とはいえ、世界の正確な表象を認める考え方はさんざん批判されたのでとれない。そこで現れてきたのが、地図における地形のように、現実と構造的に似ている表象を認めよう…という考え方が出てきた。その構造的表象論が生成モデルと出会うことになった。

詳しくは次の文献がネットでオープンアクセスですぐに読めますので、それを参照してください→google:Representation in Cognitive Science Nicholas Shea

反表象主義と構造的表象論を調停する

自由エネルギー原理を提示するフリストンらは、これらの対立する立場をいいとこどりしたかった。そこでこの論文で提唱されているのが、表象はフィクション(虚構)である説だ。

あと詳しくは論文を読んでほしいが、それなりの説明もあるとはいえ、こうした最近の哲学的な議論の背景が分からないと、理解しにくい論文だな…とは思う。

個人的な評価

これを読んで思ったのは、構造的表象論は別に表象が存在すると言った形而上学的な立場をとっている訳ではないので、表象は虚構だと言われても、痛くも痒くもないだろう…と言うことだ。

radical enactivismの場合は、強烈な反計算主義者もいたりするので、こんな調停は嫌だ!という人もいそうだ。てか、たとえ虚構としてであろうと表象や計算にそれなりの役割を認めてしまった時点で、かなりの譲歩をしてる気もする。

radical enactivismを認めたい動機には、心における身体の重要性を強調したい気持ちがあるのだろう。ただし、生前にフォーダーも言っていたが、認知に身体がいらないと思っている人は(めったに)いない。だから、単に身体!身体!としつこく繰り返されるのも…なんだかなぁ〜と思わなくはない。

まぁ、私は裏事情もそれなりに知っているので、radical enactivismに辛いところはある。だから、二つの対立する立場の評価は各自にお任せします。その上での私的な結論に入る。

表象は虚構説に意義はあるのか?

哲学的にはどうであれ、科学者は表象や計算の形而上学的な位置づけなど全く気にせずとも、科学的な活動にたずさわれる。自然法則を認めるのに、世界を計算する神の存在をわざわざ信じる必要はない。

その点では、この論文が哲学者に向けられてるのか?科学者に向けられてるのか?よく分からない。共著者に哲学の研究者がいないのに、内容が哲学に寄っている。

表象が存在するかどうか?なんて科学者にはどうでも良くて、その前提が含まれる研究プログラム(byラカトシュ)が、科学的な研究を推し進めるかどうかだけが大事だ。

その点では、この論文は研究プログラムとしての自由エネルギー原理論にどの程度に益があるのか?は私にはどうも怪しい。

またネットですぐ読めるお薦め論文を紹介してみた

なにかマトモな記事は書きたいが、なかなかやる気が起こらない。アブダクションについては、既に中間報告はしたが未だに進行中のテーマだ。教養についての記事もある程度の準備は前から進めているが、まだ書く気がしない。教養と言っても、これが教養だ!的な自分に都合の良い内容を教養だと言い張る話ではなくて、教養が人文学とどう結びついてるか?とか民主主義に教養は必要?みたいな話の予定だ。

エヴェレットの新著の翻訳が出たということで、ピダハン論争について書こうか?という気もしなくもない。特に日本ではエヴェレット寄りの話に偏りがちなので、そのバランスを取りたいと言うのはある。ただ問題はネットで読める中井悟のピダハン論文の域を超える内容は私には書けないので、興味のある人はそれを読めば済む話ではある(ただし読みやすい論文ではない)。

最近読んだお薦め論文

で…まぁ、以前にもやったネットで読める最近読んだ面白かった論文でも紹介しようかな〜と思う。一応は読みやすい論文を選んではいるが、スラスラとまでいくかは保証できない。私の本来の得意領域外とはいえ、馴染みが全くない訳ではないので、知識ゼロでも読めるかは私にはよく分からない。

例によって、どの論文もネットで調べればPDFが手に入って、すぐに読めます。

ジュゼッペ・パテッラ「アイデアを修復できるのか」

google:アイデアを修復できるのか 現代芸術の修復についての問い ジュゼッペ・パテッラ

現代芸術についての講演の翻訳。現代芸術はどう修復できるのか?という話。

私は若い頃に現代芸術の展覧会によく行っていたので、昔ほどではないにしても、現代芸術にはそれなりに理解も興味もあるつもり。だから、現代芸術が政治的なことに怒っていた馬鹿ウヨには軽蔑しかしなかったが、今回はその話ではない。

現代芸術に修復は必要か?

もちろん、すべての芸術作品に修復は必要だ。なぜなら、すべての物質は劣化を免れないからだ。有名な例では、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」の劣化からの修復がある。ここまでの極端な例でなくとも、普通の絵画でも劣化は起こりうる。美術館では作品の劣化を防ぐために、展示作品を定期的に交換したり、明かりを工夫したりしている。

すべての芸術作品は劣化からの修復を必要とするが、現代芸術は事情が特別だ。ダヴィンチは作品の劣化を予想して作品を描いた訳ではないだろう。しかし、現代芸術は意図的に劣化しやすい素材を使っていることがある。講演では砂糖や牛乳の例が挙げられている。当然、こんな素材で作られた作品はすぐに腐ってしまう。こんな作品を修復する必要はあるのだろうか?

コンセプトと商品に引き裂かれる現代芸術

現代芸術ではアイデアやコンセプトが重視されている。インスタレーションやパフォーマンスのように、その場で成立すれば構わないタイプの現代芸術もある。ストリートアートのように、その特性上で劣化しやすい作品もある。ならば、そもそも現代芸術は消えてしまうものとして、修復なんて考えなくても良い…とも考えられる。しかし、そうも行かない理由がコレクターの存在だ。

現代芸術は高値で取り引きされる対象であり、コレクターにとっては作品を劣化されるままにして消え去っても構わない…とは思っていない。ならば、現代芸術は劣化したら元通りにすべきなのか?それとも、コンセプトを優先して元とは違う姿にして修復してもよいか?

このように、現代芸術がコンセプトを重視する芸術システムと、商品として扱う市場システムと、の狭間で微妙な位置にあることを、作品の修復の視点から考察した面白い講演だ。

鰐淵秀一「ポスト共和主義パラダイム期のアメリカ革命史研究」

google:ポスト共和主義パラダイム期のアメリカ革命史研究鰐淵秀一

ブラックライブズマター(BLM)の動きがここ最近盛んだが、そこである注目すべき動きが起こった。アメリカのある有名な大学の創始者が、当時に差別的な言動を行なっていたとして、その像を撤去するように訴えが大きくなった。

私自身は、極端なポリティカルコレクトネス的な表面だけきれいにしようとする試みは、実態としての差別を覆い隠す役割を果たすので危険だと思うが、ここではその話はしない。

むしろ注目すべきなのは、このような歴史をマジョリティ(大学の創始者!)の視点から差別されたマイノリティの視点への転換だが、これはアカデミックな世界では長い間をかけて起こっていた動きであり、今回の像撤去はその帰結だと言うことだ。

学問的な歴史学で何が起こっていたのか?

この論文は、最近までのアメリカ革命の歴史についての研究の展開を紹介するものとなっている。アメリカ革命そのものには興味がなくとも、これを読むとここ数十年で歴史学で起こった動きが分かるようになり、BLMでの動きの理解にも寄与する。

本当はポーコックに始まる共和主義パラダイムも興味深い1のだが、この論文で主に扱われているのは、それ以後から最近までの動きだ。それは大きく二つの動きからなる。 - 一国史からの脱却→周辺国を含むグローバルヒストリーへ - マジョリティ中心からの脱却→マイノリティへの視点の転換

論文では、アメリカ革命史の研究誌なのに、アメリカ以外の国を扱った論文ばかりになってしまったことへの年配の歴史家からの苦言が引用されている。もう一つ、アメリカ革命が白人男性中心で差別的だったとの見解にも反発している。

歴史への視点の多元化の結果…

近年のアメリカ史の研究は、女性・黒人・先住民といった従来の歴史研究では無視されてきたマイノリティの視点から描かれるものが増えたらしい。BLMでの動きは突然現れた孤立した動きではなく、アカデミックな歴史学で起こってた動きを反映したものだったのだ。これを読むとその一端が分かる。

もう一つ、この論文には興味深い指摘がある。それは、学問的な歴史学では視点の多元化が進んでいるのに対して、世間一般では相変わらず「当世風建国者伝」型の著作、つまり有名な人物を分かりやすく描いた伝記が人気だという指摘だ。これは、歴史学が多元化の結果として分かりやすい物語りをより提示しにくくなり、その一方で分かりやすさへの欲求は衰えてない(増してる?)事実だ。

これは私の勝手な推測だが、分かりやすい物語りへの欲求は、日本ではネトウヨに好まれる歴史学の成果を無視したフェイクヒストリーにつながっているのかも知れない。学問的な世界での証拠重視や多元化の動きに呼応するように、世間ではフェイクがはびこっていることについて語りたい欲望が生じてくるが、もはや紹介論文と関係ない内容なのでこれで終わり。


  1. 政治思想についても調べていたことがあるので、共和主義をめぐる議論もそれなりに知っている。シビックヒューマニズムや徳倫理が関わりを持っている。私は特に後期ロールズ好きなので、それと関連して言いたいことがないでもないが、それは別の機会にでも

アブダクションについての調査-中間報告

私は興味の出たテーマをあちこち調べてることが多いが、その際にたまに全く別の興味から調べていた内容どうしが結びついてるのに気づくことかある。最近ものすごくそれがあって、アブダクションと最良の説明への推論の関係を調べてることは既にここでも触れたが、それが別のルートとつながって驚いた。

最良の説明への推論との関係

それは、お気に入りの統計エッセイな論文を再読していたときに分かった。そこにアブダクションの名前が出てきた。あぁこの著者はアブダクション好きだなぁ〜とは前から分かっていたが、そこでの説明を読んでいると…あれ?これって最良の説明への推論と同じじゃん!と気づいてしまった。

あと、これはつい最近だが、生物学系の科学者が話してるポッドキャストを聞いてたら、そこでもアブダクションの名が出てきた。それは「最良の説明への推論」とは異なるアブダクションのもう一つの側面の方らしい。

詳しくは別の記事にするにして、ここでは簡単に説明しておく。アブダクションには、大きく分けると仮説生成の側面と仮説選択の側面がある。「最良の説明への推論」は仮説選択に当たるが、ポッドキャストに出てきたのはどうも仮説生成の方らしい。アブダクションにこの二つのどちらの面をみるかは研究者によっても異なり(例えばハンソン流の解釈とハーマン流の解釈)、それどころか当のパース自身が時期によって強調面が違う…という話を独立の記事に書こうとしているが、いつ書けるか?そもそも書けるか?目処はまだついていない。

統計理論との関係

今回はさらなる別ルートもあって、それは統計の勉強してて経験ベイズについて調べていた件だ。経験ベイズを作り上げた統計学者の一人のI.J.Goodについて調べていた。そこで出てきた用語「証拠の重み」が、これまたパースの確率についての論文に由来するという。これが(周辺)尤度を介してベイズファクターや経験ベイズへと結びついている。

自由エネルギー原理についてのある日本語論文を眺めていたら、そこにもアブダクションの名が出てきた。そこには証拠によるモデル選択だと書かれている。ここで尤度(証拠)を最大化するモデル(仮説)を選ぶ…と捉えると、まさに「最良の説明への推論」そのものだ。

異なるルートがつながるのは楽しい

こうやって文章にしてみて気づいたけど、こんなにいろんなルートが結びついたのは私でも珍しいかもしれない。異なる意外なルートがつながるのは、私にとって勉強する醍醐味ではある。だが、今回はつながるルートが多いし、まだ開拓の余地もある。もうちょっと各ルートの整備をして、もう少し先までルートを延ばす必要もありそう。

とはいえ、研究をしてるつもりはない(オリジナルの発見はない)ので、そこそこのところで切り上げるつもりだ(パースの原典までたどると切りがない)。どこか切りのいいところで記事にしてとりあえずおしまい…といういつもの展開にするつもり。とりあえず、これは中間報告。

おまけ、ほぼただの妄想

本文で異なるルートがつながる話を書いたので、少し前から哲学について考えていたことを書きなぐりたい。

(大陸哲学由来の)現代思想と(今は哲学の主流と化した)分析哲学との違いについて、個人的に好き勝手に考えていた。ただ、なんの根拠もないので書くのは躊躇してたが、おまけ程度に書くなら…と書いてみることにした。ちなみに、現代思想とは何か?分析哲学とは何か?を問うと泥沼にはまるので、それはできるだけしないので大雑把なイメージで聞いてください。

高峰の踏破としての哲学

過去に東浩紀が書いてたある記事で、現代思想はオカルトで分析哲学はオタクになってしまった…みたいなことを読んだ覚えがある。そもそもマトモな学問はマニアックにならざるをえないのだから、オタク的なことは悪口にならないのでは…という疑問は脇に置けば、言いたいことは分からなくはない。

以下に書くのは、私の勝手なイメージによる妄想なので、そこは大目に見て読んでください。

哲学の目的をエベレスト並みの高山の頂上にたどり着くことだとする。

世の中の職業的な哲学研究者には、現代思想系か分析哲学系かによらず、問題意識もなく論文を書くことが自己目的化した学者(院生)も多い。そういう人の書いた論文はたいていつまらないが、そういう低レベル(山に登った振りだけ)はここでは問題にしない。

ハイデガーの系譜を継ぐ現代哲学は、高山の頂上を直接に目指そうとして、絶壁や断崖をものともせずに直線の最短距離のルートを進もうとする。そのためには一般人にはとうてい扱えないアクロバティックな技術(議論展開の仕方)を堂々と使おうとするしかない。しかし、その人が本当に頂上に達しているのかは、第三者にはよく分からない。アクロバットを演じているうちに、自分はすごい域に達した…との幻覚を見てるだけかもしれない。そのアクロバットを真似できる人は稀なので、それを確かめようもない。

分析哲学はもっとマシなルートを行く。それでも険しいルートに変わりはないのでので、本格的な道具(論理や数理)がないと踏破することはできない。ここで道具にあまりにこだわって目的を見失うと、ただのマニアック(オタク)になってしまう。本格派の道具で険しいルートを踏破できるだけでもその人は優秀だ。しかし、頂上という本当の目的地を目指せる人はさらに少ない。たとえ特定のルートは辿れても、複数のルートを組み合わせて本来の目的地に近づける人は少数派だ。道具は使えているが、実は迷子になっている人は数知れない。ちなみに、新しいルートを開拓できる人はさらに稀。それから世間的なクオリア論受容によく見られたように、部分的なつまみ食いで満足してしまう人も多い(山の入り口に立ってさえない)。

なんとなく分かってもらえると思うが、私はルートを組み合わせる派だ。ただ、この方法は地味で好まれないし、目先の目的地だけを目指す近視眼的と隣り合わせの紙一重だ。しかも迷子にもなりやすく、意外なルートがあとから正しいと分かることもある。ただ、直線ルートと違って、周りの地形もよく分かるので、同じ位の高さであっても眺めが同じ訳ではない。半ばのルートの眺めもなかなか悪くないのだ。