前編からの続き
反表象主義の主張をあらためて確認する
まずは、反表象主義の中心的な主張である「内容の難しい問題」(hard problem of content)を説明した、前回に翻訳した部分をもう一度引用します。
心は本質的に内容を持つ訳ではない、なぜなら内容を伴う心の哲学的な説明はHPC(内容の難しい問題)の餌食に陥るからだ…とHuttoとMyinは論じている。HPCの議論は次のように再構成できる:
(T1) 認知科学での存在論的な責務として、説明上の自然主義を尊重すべきである
(T2) 言語的な活動は、基礎的な心の範囲外である
(T3) 内容を持つとは、なにがしらの状況に当てはまることを含意し、(もし存在するなら)内包と外延が決まる
(T4) 基礎的な心に内容を帰属するような、内容に関するいかなるありうる理論でも、(T1)か(T2)か(T3)のどれかを満たしえない
(T5) 内容を持つことは表象であることから成り立つ
(T1)から(T5) を組み合わせると、表象主義―認知は本質的に表象を含むとする見方―は間違っている。これは(T4)と(T5)が真であることから直接的に導かれる。これが本当なら、認知科学にとって決定的な重要性があるだろう。
google:Tomasz Korbak"Unsupervised Learning and the Natural Origins of Content"p.2より翻訳
要となるのは、引用中ではあえて直訳した「内容」(content)が何を意味しているのかを理解することだ。
思弁的実在論が批判する相関主義とはなにか?
とりあえず、相関主義を簡潔に説明した論文から引用してみます。
何かが現実的に存在するという事態は、その何かを考える認識主体から切り離すことはできない。両者は常にセットになっているのであって、思考と存在の相関性へのアクセスにのみ自身を制限することは―素朴な実在論に陥らないためには―哲学にとって不可避なものであるという主張、この哲学的主張をメイヤスーは相関主義と呼んでいる。
google:岩内章太郎 思弁的実在論の誤謬—フッサール現象学は信仰主義か?— p.3より
これは相関主義の標準的な説明で、どこを見ても似たりよったりの説明が多い。しかし、ここで想定されている(「思弁」と対比された)「思考」とは何なのか?が理解できないと、何を主張しているのか分かっていると言えない。
こうした思弁的実在論を説明するのが語用論的矛盾とされる。「私は考えていない」と発言することは、そう発言することで考えているので矛盾している。語用論的矛盾を解消する様々な戦略を提示するのが思弁的実在論と理解できるらしい。
しかし、思弁的実在論の言う「思考」が言語的思考なのだと気づいてしまえば、こんなややこしく考えなくとも、これは意味論を主題にしてると気づくのは難しくない。
言語と世界の関連を見る意味論を哲学の中心から追い出す
分析哲学では言語と世界1の関係を問う領域を意味論と呼ぶが、思弁的実在論の言う「思考と存在の相関性へのアクセス」とは、まさに意味論そのものである。
そう思って既に引用した内容の難しい問題の説明を見直すと、「(T3) 内容を持つとは、なにがしらの状況に当てはまることを含意し、(もし存在するなら)内包と外延が決まる」 とあり、これは意味論の説明そのものだ。反表象主義者の言う「内容」とは、言語の意味的な内容のことなのだ。
ここから分かるのは、思弁的実在論や反表象主義に共通する問題意識は、意味論や相関主義の枠内にある論理=言語=思考を哲学(認知科学)の中心から追い出すこと2にあるのだ。
言語=思考中心主義を歴史を遡って批判する
思弁的実在論と反表象主義の共通する問題意識を、もう少し別の視点から確認しよう。
反表象主義の言う「(T2) 言語的な活動は、基礎的な心の範囲外である」とは、なにを根拠に主張しているのだろう?HuttoとMyinはこの文脈でドレツキやミリカンに触れてることから、進化的に分枝してきた人間と他の動物に共通の基礎的な心からは、人間に独自の言語能力は外すべきだ…という主張だと思われる。
これに似た対応する主張を思弁的実在論もしている。
第一に、相関主義は、メイヤスーが「祖先以前的(ancestral)」(Meillassoux 2006: 25)と呼ぶ事象について説明することを論理的に不可能にする。祖先以前的であることは、知られうるかぎり地球上のあらゆる生命の出現に先立つ現実を意味している。
google:岩内章太郎 思弁的実在論の誤謬—フッサール現象学は信仰主義か?— p.3より
言語発生以前と祖先以前とで注目される時期は違うが、言語=思考以前的なところへの問題意識には似たところを感じる。
しかし、似た問題意識を感じられるのはここまでで、その解決には違いがある。しかもその違いは、反表象主義と思弁的実在論の間だけでなく、思弁的実在論どうしの間でも生じている。
どうやって言語=思考中心主義から逃れられるのか?
言語=思考を介した世界との間接的な関係を脱して、世界との直接的な接触は可能なのだろうか?この答えは、反表象主義者や思弁的実在論者によって異なる。
反表象主義はその身体化(4e認知)の出自から分かるように、身体に答えを求める。特にHuttoとMyinは、(言語的)内容をも社会文化的に説明する道を探っている(ただし認知科学の文献を参照するようエヴァン・トンプソンに注意されてるが)3。
思弁的実在論の場合は、論者によって答えが大きく異なる。
一体、どんな権利を持った認識者であれば自体存在にアクセスし、その存在を確証すること可能なのだろうか。例えば、メイヤスーが主張するように、数学がその可能性を開くのだろうか。しかし、数学の客観性の確証はどこでどのように行なわれるのかという疑問も湧いてくる。あるいは、ハーマンのような思弁的実在論者が自体存在にアクセスすることは不可能であると結論するにしても、不可能であるという妥当それ自体は意識においてなされていると現象学的には考えられる。
google:岩内章太郎 思弁的実在論の誤謬—フッサール現象学は信仰主義か?— p.14より
メイヤスーは思考=言語でなく数学によって世界との直接的な接触が可能になると主張し、ハーマンはそれをも否定している。メイヤスーのように思弁的実在論が案外、科学主義的な側面を持っていることは、日本ではあまり強調されない。
反表象主義を理解しようとした果てに
私がここ(後編)で論じた反表象主義の説明は全く標準的なものではない。むしろ反表象主義の標準的なはずの説明は、前編で触れた方向性だが、これだと科学に無知な哲学者が偉そうに何か言ってるよ!程度の結論にしか、私にはたどり着けない。反表象主義を好意的に理解しようとしてたどり着いたのが、ここで論じた思弁的実在論との比較だ。
とはいえ、私は身体化論にもそれなりに好意的なつもりだが、やはり基本は計算主義者だ4。今どき論理的形式しか認めない古典的計算主義者はほぼいない。反表象主義は藁人形を叩いてるようにしか私には見えない。
私は他にもいろいろと考えるべきことがあるので、反表象主義の件はさっさと片付けてしまいたい。これはそのための試みであるが、さっさと行けてるのかはよく分からない5。