確率が分からなくても予測符号化を説明できる?

この前、YouTube人工知能学者の新井紀子が出演してる動画を見た。それは面白かったが、気になったのは、日経新聞を購読してる人でも「率」のつく言葉が苦手との話だ。

予測処理論や予想符号化については既にここでは何度も触れてきたが、まともな説明をまだしてなっかたなぁ〜と思っていた。ネットで見れるような説明はだいたい数式が並んでいるので、私としてはアイデアが分かればいい程度の数式なしの説明を書きたい。

たぶんそれはできなくはないと思うが、問題は確率に一切触れずに書けるのか自信がない。いくら数式なしでも、予測処理論の源はベイズ推論にあるので、確率が分からなくても理解できるようにできるかよく分からない。さすがに確率から説明する気はない(それは学校や入門書でやってくれ)。

日本語で読める予測処理論の説明は、自由エネルギー原理からいきなり入ったりすることが多い。しかし、私に言わせれば、予測符号化に遡って理解する方がかえって近道。私的には、予測符号化を階層化する辺り(予測処理論の入り口)でやめておくのか説明として穏当だと思う。その先1は泥沼の戦場なのでお勧めできない。

それから、予測符号化を運動制御に限定して小脳研究から説明した記事がネットで手に入るので、それにリンクしておきます。すごく分かりやすいか?と問われると唸ってしまうが、数式なしで簡潔に説明している日本語の記事は貴重なので、贅沢いわないように…


  1. アクティブインファレンスとかマルコフブランケットとか。統一理論としての予測処理論に本格的に入ることになるが、前にも少し触れたように怪しいところも多い。

アメリカの最高裁判事と司法審査制について少しだけ書いてみた

ラジオを聞いてたら、最近のニュースであるアメリカの最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグが亡くなったという話題について語っていた。

それを私の聞いた印象では、リベラル寄りの論者ばかりが出演していて、亡くなった判事は素晴らしかったけど、今度から保守派の判事が多数派になるので心配…みたいな話だった。なんか偏ってるなぁ〜と思うと同時に、この話題で司法審査制をろくに知らない人ばかりだと、意義のある話は期待できないなぁと思った。

極端な論をぶつ日本では有名な国際政治評論家

アメリカの司法審査については、以前に憲法理論に興味を持ったことがあって、そのときに勉強した知識でそれなりには知っている。その私でさえ、次のネット記事を読んだときは、こいつ何言ってるんだろう?と眉をひそめた。

結論だけ言わせてもらえば、RBGの死により、トランプ氏再選の可能性が高まるかもしれない、ということだ。彼女の死でトランプは保守系の女性判事を最高裁に送り出す。これで保守対リベラルの比率は6対3となり、仮に、バイデン候補が勝って上院が民主党多数になっても、最高裁民主党案件をすべて潰すことも可能となる。

最高裁判事死去でトランプ再選? | NEXT MEDIA "Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]」より

これを書いた人はテレビやラジオによく出ている国際政治の評論家で、私も一時期までは専門家として信用していた。しかし、ある時からこの人言ってることが極端だな?と思うようになってあまり信用しなくなった。私がこの記事を読んだのはRSSリーダーに登録してたサイトに出てたからでしかない。

この記事もあまり筋が通っていない。まず、「RBGの死により、トランプ氏再選の可能性が高まるかもしれない」という理由がよく分からない(たまたま今死亡した件のどこにトランプが貢献?)。ましてや、「バイデン候補が勝って上院が民主党多数になっても、最高裁民主党案件をすべて潰すことも可能となる」となると、アメリカの司法審査制を理解しているとはどうも思えない。

最高裁判事と司法審査

確かに、アメリカの最高裁判事は保守派が多数派になって共和党に有利になるにはなる。しかし、その結果として「最高裁民主党案件をすべて潰すことも可能となる」とするのは、あまりに極端な想定だ。正確には、憲法解釈に関わる重要な法案は潰されるかもしれないが、「すべて潰す」は普通に考えてありえないし、(非難覚悟で)あるにしても極端に可能性が低すぎて指摘するに値しない。

ここで司法審査制の詳しい説明は省く1。要するに、もしその法案が合衆国憲法に違反してると判断できるなら、最高裁で法案を却下することはできる。しかし、別に最高裁判事だって憲法を好き勝手に解釈できるわけではないので、「すべて潰す」はいくらなんでも言い過ぎ。

アメリカの憲法解釈については、原意主義だの生きる憲法論だのいろいろ議論はあるが、それも省略。ともかく重要なのは、いくら最高裁判事でも好き勝手に憲法を解釈できるわけではない。今度選ばれる最高裁判事がトランプほどの無茶苦茶な訳ないし、もしだったとしても他の保守派の最高裁判事がそんな無茶な判断は止めるはず。

とはいえ、重要な法案が保守派の最高裁判事の手に握られつつあるのは事実。対象となるだろう論争の的になる法案はいくつもありえる。特に民主党が提示する注目すべき重要な法案が、これからは実施しにくくなるのは避けられないだろう。

本当はもっと詳しく書きたかった憲法理論の話

憲法理論についてはいろいろと勉強してあって、例えば司法審査制と憲法裁判所を比較するとか、憲法解釈に関する哲学的な議論(ドゥオーキンみたいなやつ)とか、前々から書きたかったことはある。でも今回は緊急で書いたので、それは飛ばした。

権力分立と憲法解釈権

それから、日本では司法消極主義・司法積極主義とかと呼ばれる司法の影響力の議論もある。アメリカは司法審査制で法案を拒否できうるように、司法の影響はそれなりに強い。対して、日本は司法の影響が無闇矢鱈に弱い(行政裁判も訴える側が勝つ事はほぼないし、違憲立法審査権が通ることもほぼない。たとえあっても実質的な影響はないに等しい)。

これに関してもどっちが正しいという訳でもない。政治家が権利(憲法)を無視して好き勝手な法案を通すのも困るが、国民に選ばれた訳ではない最高裁判事が選挙で選ばれた政治家による政策を(憲法違反と)判断するのが正しいのか?という問題もある。

この点では、日本はとてもバランスが悪い(司法が弱すぎ)けど、この辺りを議論できる日本の学者を(懸命に探したつもりだけど)見た覚えがない。個人的にはあまり好きこんでオリジナルな議論はしたくないのだけれど、この辺りの問題はそれを避けられない。それが、これまでこのテーマで記事を書いてこなかった原因ではある。

アメリカの司法審査制については、日本にいる詳しい専門家がいるはずなので、そのうちに記事や解説が出るだろうと期待する。しかし、日本の問題については放っておくと、原理的な議論はいつまで経ってもろくに出てきそうにないのは困ったものだ。

とりあえず思いついた参考文献

緊急で書いた記事なので、文献参照ができなかった。でも、それだと単に信用されないだけなので、手持ちのキンドルに入っているお気に入り論文がネットで手に入れたものなので、それだけ紹介しておく。

google:大林啓吾 ディパートメンタリズムと司法優先主義

日本のような権力分立に関心がないバカな政府や国民と違って、アメリカには憲法解釈の最終決定権がどこにあるのか?について真剣な議論がある。これを読むと、その一端が分かる。

追記(2020/9/28)

最高裁判事と司法審査のつながりに軽く触れた記事があった


  1. 憲法裁判所と違って、司法審査制では特定の裁判の判決と違憲審査が分かれていないのが特徴。その点では日本はアメリカに近いが、司法の影響力の点では全く違う。アメリカでは司法へのアカデミズム(学者)の影響力があるが、日本ではほぼないところ(たとえあっても裁判官の気まぐれ)も全然違う。

反表象主義を思弁的実在論の視点から説明してみる〈後編〉

前編からの続き

反表象主義の主張をあらためて確認する

まずは、反表象主義の中心的な主張である「内容の難しい問題」(hard problem of content)を説明した、前回に翻訳した部分をもう一度引用します。

心は本質的に内容を持つ訳ではない、なぜなら内容を伴う心の哲学的な説明はHPC(内容の難しい問題)の餌食に陥るからだ…とHuttoとMyinは論じている。HPCの議論は次のように再構成できる:

(T1) 認知科学での存在論的な責務として、説明上の自然主義を尊重すべきである
(T2) 言語的な活動は、基礎的な心の範囲外である
(T3) 内容を持つとは、なにがしらの状況に当てはまることを含意し、(もし存在するなら)内包と外延が決まる
(T4) 基礎的な心に内容を帰属するような、内容に関するいかなるありうる理論でも、(T1)か(T2)か(T3)のどれかを満たしえない
(T5) 内容を持つことは表象であることから成り立つ

(T1)から(T5) を組み合わせると、表象主義―認知は本質的に表象を含むとする見方―は間違っている。これは(T4)と(T5)が真であることから直接的に導かれる。これが本当なら、認知科学にとって決定的な重要性があるだろう。

google:Tomasz Korbak"Unsupervised Learning and the Natural Origins of Content"p.2より翻訳

要となるのは、引用中ではあえて直訳した「内容」(content)が何を意味しているのかを理解することだ。

思弁的実在論が批判する相関主義とはなにか?

とりあえず、相関主義を簡潔に説明した論文から引用してみます。

何かが現実的に存在するという事態は、その何かを考える認識主体から切り離すことはできない。両者は常にセットになっているのであって、思考と存在の相関性へのアクセスにのみ自身を制限することは―素朴な実在論に陥らないためには―哲学にとって不可避なものであるという主張、この哲学的主張をメイヤスーは相関主義と呼んでいる。

google:岩内章太郎 思弁的実在論の誤謬—フッサール現象学は信仰主義か?— p.3より

これは相関主義の標準的な説明で、どこを見ても似たりよったりの説明が多い。しかし、ここで想定されている(「思弁」と対比された)「思考」とは何なのか?が理解できないと、何を主張しているのか分かっていると言えない。

こうした思弁的実在論を説明するのが語用論的矛盾とされる。「私は考えていない」と発言することは、そう発言することで考えているので矛盾している。語用論的矛盾を解消する様々な戦略を提示するのが思弁的実在論と理解できるらしい。

しかし、思弁的実在論の言う「思考」が言語的思考なのだと気づいてしまえば、こんなややこしく考えなくとも、これは意味論を主題にしてると気づくのは難しくない。

言語と世界の関連を見る意味論を哲学の中心から追い出す

分析哲学では言語と世界1の関係を問う領域を意味論と呼ぶが、思弁的実在論の言う「思考と存在の相関性へのアクセス」とは、まさに意味論そのものである。

そう思って既に引用した内容の難しい問題の説明を見直すと、「(T3) 内容を持つとは、なにがしらの状況に当てはまることを含意し、(もし存在するなら)内包と外延が決まる」 とあり、これは意味論の説明そのものだ。反表象主義者の言う「内容」とは、言語の意味的な内容のことなのだ。

ここから分かるのは、思弁的実在論や反表象主義に共通する問題意識は、意味論や相関主義の枠内にある論理=言語=思考を哲学(認知科学)の中心から追い出すこと2にあるのだ。

言語=思考中心主義を歴史を遡って批判する

思弁的実在論と反表象主義の共通する問題意識を、もう少し別の視点から確認しよう。

反表象主義の言う「(T2) 言語的な活動は、基礎的な心の範囲外である」とは、なにを根拠に主張しているのだろう?HuttoとMyinはこの文脈でドレツキやミリカンに触れてることから、進化的に分枝してきた人間と他の動物に共通の基礎的な心からは、人間に独自の言語能力は外すべきだ…という主張だと思われる。

これに似た対応する主張を思弁的実在論もしている。

第一に、相関主義は、メイヤスーが「祖先以前的(ancestral)」(Meillassoux 2006: 25)と呼ぶ事象について説明することを論理的に不可能にする。祖先以前的であることは、知られうるかぎり地球上のあらゆる生命の出現に先立つ現実を意味している。

google:岩内章太郎 思弁的実在論の誤謬—フッサール現象学は信仰主義か?— p.3より

言語発生以前と祖先以前とで注目される時期は違うが、言語=思考以前的なところへの問題意識には似たところを感じる。

しかし、似た問題意識を感じられるのはここまでで、その解決には違いがある。しかもその違いは、反表象主義と思弁的実在論の間だけでなく、思弁的実在論うしの間でも生じている。

どうやって言語=思考中心主義から逃れられるのか?

言語=思考を介した世界との間接的な関係を脱して、世界との直接的な接触は可能なのだろうか?この答えは、反表象主義者や思弁的実在論者によって異なる。

反表象主義はその身体化(4e認知)の出自から分かるように、身体に答えを求める。特にHuttoとMyinは、(言語的)内容をも社会文化的に説明する道を探っている(ただし認知科学の文献を参照するようエヴァン・トンプソンに注意されてるが)3

思弁的実在論の場合は、論者によって答えが大きく異なる。

一体、どんな権利を持った認識者であれば自体存在にアクセスし、その存在を確証すること可能なのだろうか。例えば、メイヤスーが主張するように、数学がその可能性を開くのだろうか。しかし、数学の客観性の確証はどこでどのように行なわれるのかという疑問も湧いてくる。あるいは、ハーマンのような思弁的実在論者が自体存在にアクセスすることは不可能であると結論するにしても、不可能であるという妥当それ自体は意識においてなされていると現象学的には考えられる。

google:岩内章太郎 思弁的実在論の誤謬—フッサール現象学は信仰主義か?— p.14より

メイヤスーは思考=言語でなく数学によって世界との直接的な接触が可能になると主張し、ハーマンはそれをも否定している。メイヤスーのように思弁的実在論が案外、科学主義的な側面を持っていることは、日本ではあまり強調されない。

反表象主義を理解しようとした果てに

私がここ(後編)で論じた反表象主義の説明は全く標準的なものではない。むしろ反表象主義の標準的なはずの説明は、前編で触れた方向性だが、これだと科学に無知な哲学者が偉そうに何か言ってるよ!程度の結論にしか、私にはたどり着けない。反表象主義を好意的に理解しようとしてたどり着いたのが、ここで論じた思弁的実在論との比較だ。

とはいえ、私は身体化論にもそれなりに好意的なつもりだが、やはり基本は計算主義者だ4。今どき論理的形式しか認めない古典的計算主義者はほぼいない。反表象主義は藁人形を叩いてるようにしか私には見えない。

私は他にもいろいろと考えるべきことがあるので、反表象主義の件はさっさと片付けてしまいたい。これはそのための試みであるが、さっさと行けてるのかはよく分からない5


  1. マルクス・ガブリエルなら、世界と世界の中の物は違うと言うだろうが、ここでは区別をつけない。ちなみに、思弁的実在論の主張が反意味論だとしたら、マルクス・ガブリエルのなんでも存在論の主張は過剰意味論に見える。

  2. 記事を書いてから気づいたけど、これって要するにロゴス中心主義への批判を思わせる。でも、デリダ脱構築統語論的な批判なのに対して、思弁的実在論は意味論的な批判だとも言える。ただし、反表象主義には悪いが、現在の認知科学がロゴス中心主義に陥ってるようには見えない。むしろ、その(数学的な)計算主義はメイヤスーの側にくみせるはずだ。

  3. 奇妙なことに、認知科学を僭称する反表象主義は反計算主義をも主張している。それなら、ニューラルネットワークや予測処理理論を始めとする心の計算モデルをどう扱うか?は必ずしもはっきりしない。同じような方向性なら、科学を僭称しないブランダムの哲学の方がすがすがしい。

  4. 認知科学の計算主義については、たまにただのコンピュータ・メタファーとごっちゃにする人もいたりして、一体どこから話を始めれば誤解がなくなるのかもう分からない。なんだか、いつまで経っても私と話の合う人は日本にはなかなか出てこない。

  5. 反表象主義については、もっと本格的に批判した論文をお気に入りとして持っているが、今回の記事では一切使わなかった。個人的には反表象主義なんていい加減に無視すれば良いと思うのだが、この前紹介したフリストンが共著者の論文のように反表象主義への目配せもあるので、なかなか手を切ることができない。