なぜ認知バイアスで行動を説明したことにならないのか?

今回のコロナ禍で、政治家などの言動を批判するのに正常バイアスを持ち出すことが見られた。正常性バイアスは以前の記事で引用した説明があるので、それをこのまま引用しておきます。

正常性バイアス:災害やそのありうる帰結が起こりうる可能性を低く見積って、物事は通常通りに働いているはずと信じる傾向

google:Cognitive biases Section to be published in the Encyclopedia of Behavioral Neuroscience (Hans)Korteling Alexander Toetより

正常性バイアスに限らず、何かしらの認知バイアスを持ち出して他人の行動を批判することはよく見られる。以前に、認知バイアスは全ての人に当てはまるので批判理由に相応しくない(批判者自身も認知バイアスを逃れられない)…と書いた覚えがある。

しかし、今回は認知バイアスが行動の説明にはそもそもならない論理的な理由を提示します。そして、それが認知バイアス以外にもよく見られる論理的な誤りであることを示します。

睡眠成分がこの薬で睡眠できる理由?

私がこれまで本で何度も読んだある引用がある。それは確かモリエールの戯曲からの引用だと思ったが、記憶が曖昧なので引用は勘弁してもらうが、内容だけはよく覚えている。

それは確か、医者が患者になぜこの薬を飲むと眠れるのか?を説明している場面だったはずだ。そこで医者は、この薬には睡眠成分があるから眠れると説明したという。

一見もっともらしい理由であるが、これは理由として成立していない。つまり、睡眠成分によって睡眠できる…とするのは単なるトートロジーであって何の説明にもなっていない。これが許されるなら何でも後付で説明できる。その薬で何が起ころうと、それを起こしたのは薬にそうなる成分が入ってたからだと言えてしまう。

こうしたトートロジー(同じことの繰り返し)による説明は、私が読んだ本では笑い話として引用されていたが、実のところ、私たちはこれを笑い話で済ますことはできない。なぜなら、このような説明は身の回りに溢れているからだ。

認知バイアスは思考や判断を説明するか?

認知バイアスについては大雑把に説明すると、人の思考や推論において論理や確率に従っていない主要な傾向1である。

そこで認知バイアスを(思考による)判断傾向と言い換えられるので、認知バイアスによってある判断を行なった…とは、判断傾向によってある判断を行なった…と言い換えても意味は変わらない。これは睡眠成分と同じトートロジーにしか見えない。

つまり、認知バイアスとは思考による判断傾向という現象につけられた名前であって、それ自体が判断傾向を説明するものではない。

様々な学問分野に見られるトートロジーによる説明

Beckerが正しくも指摘するように、認知心理学者が、何らかの「認知的バイアス」の存在故に人々が統計問題に間違った回答を与える傾向があることを説明する場合に心理学的諸力を召喚するやいなや、Michael Ruse(1993)のような社会生物学者が、道徳的感情は生物学進化の帰結であると主張する場合に生物学的諸力を召喚するやいなや、社会学者が所与の集合的信念が社会化の産物であると主張する場合に文化的諸力を召喚するやいなや、理論は説得力のないものに思える。

google:レイモン・ブードン 合理的選択理論と合理性の一般理論p.62より

この引用から示唆されるのは、進化的適応や文化による説明にも認知バイアスと同じようなトートロジーによる説明に陥りやすいことを示している。

文化が人の言動を説明している…と信じられている。ここでも同じ論法が使える。文化とは特定の言動をする傾向である。 そして、集団的信念とは外面にあらわれる言動として観察されないと分からない。つまり、ある言動をする傾向から言動を説明するのと変わらないので、やはりトートロジーに陥っている。文化とは特定の言動という現象につけられた名前でしかない。

進化的適応は行動を説明するのか?

進化的適応の場合はもう少しややこしい。引用の道徳的感情は、感情は直接には観察できないので行動に置き換える。進化的適応のおかげで特定の行動が残る。そして、私達が説明したい行動は、今に残っている行動である。残っている行動は進化的適応であると説明したいが、そもそも進化的適応によって行動が残るのが元の定義(前提)である。

ここにあるのはトートロジーだが、そうでない振りをするために、後付のもっともらしいお話が付け加えられる。こうしたお話はキップリングの著作に従ってなぜなに物語(just-so story)とも呼ばれる2

日本は、いまさら進化心理学が正しいか?間違っているか?を議論している周回遅れのところだが、ブーム時の進化心理学がときになぜなに物語にハマっていたのは確かだ。前にも記事に書いたように、可能な行動の範囲を定めて数理的に生き残る行動を定める…という進化ゲームのような方法が正しい。

認知バイアスそのものが科学的に説明されるべきだ!

元の話題に戻ると、認知バイアスはそれ自体が説明されるべき対象である。実際に、認知科学関連の領域ではそもそもの認知バイアスを説明しようとする試みが出てきている。

例えば、ベイズによる認知モデルで有名なグリフィスらの研究グループはリソースの点から認知バイアスを説明しようとしている3。自由エネルギー原理によって認知バイアスを説明できるとする研究者もおり、もし統一理論を称するならそれは避けられないだろう。既に引用した論文は合理的選択理論の論文だが、ここでも単純な合理性では説明できない認知バイアスのような不合理な選択を、なんとか説明しようと努力している。

つまり、最近の心の科学の流れとして、認知バイアスはそれ自体が説明されるべきなのであって、それをただの説明理由におさめることには満足しなくなっている。


  1. 「Cognitive biases are systematic cognitive dispositions or inclinations in human thinking and reasoning that often do not comply with the tenets of logic, probability reasoning, and plausibility.」 google:Cognitive biases Section to be published in the Encyclopedia of Behavioral Neuroscience (Hans)Korteling Alexander ToetのAbstractより

  2. 少し前に進化心理学を応用した政治学の書籍が出ていて、(おそらく本人による)その紹介を読んだ。その説明の中に楽観バイアスが取り上げられていた。前の記事にも触れたが、楽観バイアスが人類に普遍的か?は異文化比較の実験によって少なくとも怪しいので、取り上げるに相応しくない。それでも楽観バイアスにもっともらしい説明は与えられているが、そもそもが事実に反している。楽観バイアスは未だに広く信じられているので仕方ないが、進化的適応による説明なんてその程度のものも多いことは知っておいたほうが良い

  3. google:Falk Lieder Thomas Griffiths Resource-rational analysis: Understanding human cognition as the optimal use of limited computational resourcesを参照

確率が分からなくても予測符号化を説明できる?

この前、YouTube人工知能学者の新井紀子が出演してる動画を見た。それは面白かったが、気になったのは、日経新聞を購読してる人でも「率」のつく言葉が苦手との話だ。

予測処理論や予想符号化については既にここでは何度も触れてきたが、まともな説明をまだしてなっかたなぁ〜と思っていた。ネットで見れるような説明はだいたい数式が並んでいるので、私としてはアイデアが分かればいい程度の数式なしの説明を書きたい。

たぶんそれはできなくはないと思うが、問題は確率に一切触れずに書けるのか自信がない。いくら数式なしでも、予測処理論の源はベイズ推論にあるので、確率が分からなくても理解できるようにできるかよく分からない。さすがに確率から説明する気はない(それは学校や入門書でやってくれ)。

日本語で読める予測処理論の説明は、自由エネルギー原理からいきなり入ったりすることが多い。しかし、私に言わせれば、予測符号化に遡って理解する方がかえって近道。私的には、予測符号化を階層化する辺り(予測処理論の入り口)でやめておくのか説明として穏当だと思う。その先1は泥沼の戦場なのでお勧めできない。

それから、予測符号化を運動制御に限定して小脳研究から説明した記事がネットで手に入るので、それにリンクしておきます。すごく分かりやすいか?と問われると唸ってしまうが、数式なしで簡潔に説明している日本語の記事は貴重なので、贅沢いわないように…


  1. アクティブインファレンスとかマルコフブランケットとか。統一理論としての予測処理論に本格的に入ることになるが、前にも少し触れたように怪しいところも多い。

アメリカの最高裁判事と司法審査制について少しだけ書いてみた

ラジオを聞いてたら、最近のニュースであるアメリカの最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグが亡くなったという話題について語っていた。

それを私の聞いた印象では、リベラル寄りの論者ばかりが出演していて、亡くなった判事は素晴らしかったけど、今度から保守派の判事が多数派になるので心配…みたいな話だった。なんか偏ってるなぁ〜と思うと同時に、この話題で司法審査制をろくに知らない人ばかりだと、意義のある話は期待できないなぁと思った。

極端な論をぶつ日本では有名な国際政治評論家

アメリカの司法審査については、以前に憲法理論に興味を持ったことがあって、そのときに勉強した知識でそれなりには知っている。その私でさえ、次のネット記事を読んだときは、こいつ何言ってるんだろう?と眉をひそめた。

結論だけ言わせてもらえば、RBGの死により、トランプ氏再選の可能性が高まるかもしれない、ということだ。彼女の死でトランプは保守系の女性判事を最高裁に送り出す。これで保守対リベラルの比率は6対3となり、仮に、バイデン候補が勝って上院が民主党多数になっても、最高裁民主党案件をすべて潰すことも可能となる。

最高裁判事死去でトランプ再選? | NEXT MEDIA "Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]」より

これを書いた人はテレビやラジオによく出ている国際政治の評論家で、私も一時期までは専門家として信用していた。しかし、ある時からこの人言ってることが極端だな?と思うようになってあまり信用しなくなった。私がこの記事を読んだのはRSSリーダーに登録してたサイトに出てたからでしかない。

この記事もあまり筋が通っていない。まず、「RBGの死により、トランプ氏再選の可能性が高まるかもしれない」という理由がよく分からない(たまたま今死亡した件のどこにトランプが貢献?)。ましてや、「バイデン候補が勝って上院が民主党多数になっても、最高裁民主党案件をすべて潰すことも可能となる」となると、アメリカの司法審査制を理解しているとはどうも思えない。

最高裁判事と司法審査

確かに、アメリカの最高裁判事は保守派が多数派になって共和党に有利になるにはなる。しかし、その結果として「最高裁民主党案件をすべて潰すことも可能となる」とするのは、あまりに極端な想定だ。正確には、憲法解釈に関わる重要な法案は潰されるかもしれないが、「すべて潰す」は普通に考えてありえないし、(非難覚悟で)あるにしても極端に可能性が低すぎて指摘するに値しない。

ここで司法審査制の詳しい説明は省く1。要するに、もしその法案が合衆国憲法に違反してると判断できるなら、最高裁で法案を却下することはできる。しかし、別に最高裁判事だって憲法を好き勝手に解釈できるわけではないので、「すべて潰す」はいくらなんでも言い過ぎ。

アメリカの憲法解釈については、原意主義だの生きる憲法論だのいろいろ議論はあるが、それも省略。ともかく重要なのは、いくら最高裁判事でも好き勝手に憲法を解釈できるわけではない。今度選ばれる最高裁判事がトランプほどの無茶苦茶な訳ないし、もしだったとしても他の保守派の最高裁判事がそんな無茶な判断は止めるはず。

とはいえ、重要な法案が保守派の最高裁判事の手に握られつつあるのは事実。対象となるだろう論争の的になる法案はいくつもありえる。特に民主党が提示する注目すべき重要な法案が、これからは実施しにくくなるのは避けられないだろう。

本当はもっと詳しく書きたかった憲法理論の話

憲法理論についてはいろいろと勉強してあって、例えば司法審査制と憲法裁判所を比較するとか、憲法解釈に関する哲学的な議論(ドゥオーキンみたいなやつ)とか、前々から書きたかったことはある。でも今回は緊急で書いたので、それは飛ばした。

権力分立と憲法解釈権

それから、日本では司法消極主義・司法積極主義とかと呼ばれる司法の影響力の議論もある。アメリカは司法審査制で法案を拒否できうるように、司法の影響はそれなりに強い。対して、日本は司法の影響が無闇矢鱈に弱い(行政裁判も訴える側が勝つ事はほぼないし、違憲立法審査権が通ることもほぼない。たとえあっても実質的な影響はないに等しい)。

これに関してもどっちが正しいという訳でもない。政治家が権利(憲法)を無視して好き勝手な法案を通すのも困るが、国民に選ばれた訳ではない最高裁判事が選挙で選ばれた政治家による政策を(憲法違反と)判断するのが正しいのか?という問題もある。

この点では、日本はとてもバランスが悪い(司法が弱すぎ)けど、この辺りを議論できる日本の学者を(懸命に探したつもりだけど)見た覚えがない。個人的にはあまり好きこんでオリジナルな議論はしたくないのだけれど、この辺りの問題はそれを避けられない。それが、これまでこのテーマで記事を書いてこなかった原因ではある。

アメリカの司法審査制については、日本にいる詳しい専門家がいるはずなので、そのうちに記事や解説が出るだろうと期待する。しかし、日本の問題については放っておくと、原理的な議論はいつまで経ってもろくに出てきそうにないのは困ったものだ。

とりあえず思いついた参考文献

緊急で書いた記事なので、文献参照ができなかった。でも、それだと単に信用されないだけなので、手持ちのキンドルに入っているお気に入り論文がネットで手に入れたものなので、それだけ紹介しておく。

google:大林啓吾 ディパートメンタリズムと司法優先主義

日本のような権力分立に関心がないバカな政府や国民と違って、アメリカには憲法解釈の最終決定権がどこにあるのか?について真剣な議論がある。これを読むと、その一端が分かる。

追記(2020/9/28)

最高裁判事と司法審査のつながりに軽く触れた記事があった


  1. 憲法裁判所と違って、司法審査制では特定の裁判の判決と違憲審査が分かれていないのが特徴。その点では日本はアメリカに近いが、司法の影響力の点では全く違う。アメリカでは司法へのアカデミズム(学者)の影響力があるが、日本ではほぼないところ(たとえあっても裁判官の気まぐれ)も全然違う。