科学は泥沼が面白い?

今年に入ってから、予測処理論への本格的な批判が目立ちつつある。前に紹介したMiłkowskibらの論文("Unification by Fiat")や、既に軽く触れたDaniel Williamsの草稿1、まだここでは紹介してない暗い部屋問題を扱った文章での行動主義理論との比較も興味深い。マルコフブランケットを数理的に批判した論文も見かけた。予測誤差最小化で有名なJakob Hohwyでさえ、最終的には擁護するとはいえ、自由エネルギー原理に不可解で曖昧なところがあることを認めている google:Jakob Hohwy Self-supervision, normativity and the free energy principle

しかし、こうした批判が増えてきていることは予測処理論にとって不幸なことでなく、それだけ注目されてる証拠でもある。ここを乗り越えられれば、予測処理論は科学理論としてより広く認められるだろう。Daniel Williamsが最近の論文2で、ベイジアン精神医学の事を魅力的だが問題含みだと指摘してるが、これは予測処理論そのものにもそのまま当てはまる。

科学とは一般にイメージされるようなスマートなものでは必ずしもなく、論争が生じるような泥沼こそが科学の面白いところだ―と個人的には思う。リアルタイムでそれが起こりつつある予測処理論は今こそが旬かもしれない3


  1. 「Is the Brain an Organ for Prediction Error Minimization?」

  2. google:Daniel Williams Marcella Montagnese Bayesian Psychiatry and the Social Focus of Delusions] 。この論文はベイジアン精神医学に社会的視点を取り入れようとしている。そういえば、最近の社会的視点を扱った自由エネルギー原理の論文としては [google:Samuel P. L. Veissière Axel Constant Maxwell J. D. Ramstead Karl J. Friston Laurence J. Kirmayer Thinking Through Other Minds: A Variational Approach to Cognition and Cultureがあった。この論文にはゴフマンやブルデューなどの社会学の文献が参照されてて専門外への目配りに感心する一方、その雑な扱いには不満しか感じない。他にも色んな分野の文献が参照されてるが、全般的に扱いが表面的。こんなんが統一理論だと提唱してる一端かと思うと頭痛い。欠点が反表象主義と似てきてる懸念が拭えない。

  3. (認知科学に限らないかもしれないが)興味深い研究は他にも色々とあると思うが、議論が集中するほどに注目される研究が出てくることは多くない感じがする。特に現代は世界中から研究者も論文も大量発生に出てきていて、領域を限定しても追っていくのは相当に大変だ。ましてや、理論以前の問題として再現性や一般化も問題になっており、成果を共有すること自体に困難がある。

なぜお役立ち野郎が資本主義の敵なのか?(注つき)

最近、役に立たない科学はいらない!的な発言をする人を日本でもよく見かける。そういう奴を見かけるたびに、資本主義の本質を理解してない馬鹿な奴らだなぁ〜と軽蔑せざるを得ない。既成のお役立ちという閉じた価値観の中にいては、資本主義の中での発展はありえない。

以下には、私が独自にまとめた資本主義への理解を書きます。ちゃんとした理解をしたい人はちゃんとした学者から話を聞いてください。

資本主義の基本としての市場原理

今の政権は、一方で国民に自助を第一に勧めておきながら、他方で携帯電話料金の設定に介入しようとしていて、市場の力などちっとも信じていない。こんな政治家どもはもはや新自由主義(ネオリベ)ですらなく、私には軽蔑の対象でしかない(ハイエクぐらい読めば?)。

情報の分散的な処理としての市場

市場原理の優れたところは、その情報の分散的な処理による効率の良さにある。市場原理と対照的な中央集権では、全ての情報を中央に集めて最適化を目指す処理をする。しかし、こうした中央集権的な国家はすでに失敗している。それは旧ソ連だ。

旧ソ連の計画経済を実施していたが、結局は失敗した。歴史的な分析は専門的な書籍を読んでもらいたいが、その失敗の原因は中央集権的な手法の効率の悪さにある。わざわざ情報を一箇所に集めて処理するという方法は、時間的にも空間的にもまどろっこしいものでとても効率が悪い。各個人が欲しい商品を見つけ値段を比べるという、市場による情報の分散的処理の方が明らかに効率が良い。

分散的な処理が効率的な他の事例

東日本大震災のときに、自治体や組織ごとにお金を集めて活動すれば良い…とする議論に対して、それではお金の行き渡り方に不平等が生じるから国が一括でお金を集めて分配すべきだ!との意見が出た。それは時間に余裕があるなら構わないが、緊急時にそんなことしてたら効率悪いわ!と思った。まぁ、実際に国が集めたお金が必要な人に届くのに多くの時間がかかった。分散的な処理の優位性を理解できてないことは恐ろしいことだ…と思った覚えがある。

もちろん、市場は完璧なシステムではない。全ての人を満足させる均衡状態に向かうには様々な試行錯誤が必要だ。しかし、分散的な処理の持つその中央集権的な手法に対する優位性は理解しておくべきだ。

なぜ資本主義には市場の他に外部が必要か?

しかし、市場だけでは資本主義の発展はありえない。市場は数理的には均衡システムに喩えられる。市場は既存の情報に沿って物事を最適に向かって整理してるに過ぎない。資本主義には、エネルギーや物質をやり取りする環境や、これまでにないアイデアや商品を生み出す革新(イノベーション)、といった外部が必要である。

部屋のお片付けとしての市場とその外部

ここにグチャグチャに散らかった部屋があるとする。市場原理とは、この散らかった部屋を片付けて使える空間を空けることである。だが、あくまで部屋の中の物をあっちにやったりこっちに持ってきたりして整頓してるだけだ。空く空間には限界がある。もちろん部屋を広げることもできる(海外への市場の開拓)が、それが唯一の方法ではない。

例えば、部屋からいらないゴミが溜まってきたらどうしようか?もちろんゴミは部屋の外に出して捨ててしまえば良い。ただ調子に乗ってそれをやりすぎると、部屋の外がゴミだらけになる(エコロジー問題)。もし部屋の外に人が住んでいれば揉めることになるが、それも人のいない文句を言ってこないところに捨ててしまえば済む(市場の外部性)。

市場を活性化させる外部を必要とする資本主義

ここまでは、部屋の中の物を比喩として語ってきたが、物をアイデアを変えても同じことである。物であれアイデアであれ市場でやり取りされれば同じく商品価値を持つ。しかし、前半でした市場の説明は新しい商品が生み出されない、閉じた均衡システムを想定していた。だが、閉じた部屋の片付けはいつか終わるように、閉じたシステムは均衡状態に陥ったらそこで終わりだ。

市場を再び活性化させるには、商品価値のある新しい製品やアイテムが必要だ。その際に、既にある既存の価値観の中に閉じていては、新しい価値は生まれない。むしろ、誰もが思っても見なかった新しさこそが市場を活性化させる。しかし、新しさのためには試行錯誤が必要であり、試行錯誤の過程で多くの無駄が出るのは避けることはできない。

お役立ち野郎が資本主義の敵である理由

役に立たないとされてきた科学研究が、後に商品化された例は挙げると切りがない。役に立たないの典型とされた数論でさえ、今や暗号理論として役立っている。画期的な発明がされた時に、泥縄で一から研究を始めてたら明らかに手遅れ。それを理解してないお役立ち野郎は日本を世界で貧しい国にしたいとんでもない奴でしかない。

外から叩かず内から叩く戦法の勧め

科学が推奨され表向きの理由は、世界の真実の探求である。そこからお役立ち野郎を批判することもできるが、そもそもの前提を共有してないので、それではろくにダメージを与えられない。

むしろここは、彼らでさえ共有できる目的から叩く方が効果的だ。彼らが資本主義さえ否定するなら、お前のお役立ち思想ってなんの意味があるの?と問い返してみましょう。新自由主義としてさえ一貫できない御都合主義は葬ってあげよう。

それから一応指摘しておくが、この記事は資本主義の擁護が目的ではありません(その辺りの皮肉は察してください)。それからここでの議論が人文学には当てはまらない…とする懸念に対しては、人文学的教養の行く末という別のアイデアもあるので、気が向いたら記事を書きます。

お薦め

市場の均衡システムについては、経済学の文献を探せば書かれているものは多いので、ここでは特にお薦めはしないでおきます。ただ個人的には、ハイエクの経済思想ぐらいは知ってほしいが、適切な文献を思いつかないので省略。


斎藤幸平はマルクスの「資本論」からエコロジー思想を読み取った研究で世界的に知られるようになった。記事では軽くしか言及しなかったその辺りのことはそちらで読んでほしい。


人間社会の外部環境とのエネルギーのやり取りを、エントロピーの視点から説明した論文。これに限らず、システム的な考え方はもっと広がってほしいと願う。


これは今、私が最も楽しみにして読んでいるネット連載。資本主義に抵抗したはずのカウンターカルチャーによって作られた外部でさえ、資本主義に回収されてしまう悪夢を資本主義リアリズムとして指摘したマーク・フィッシャーを軸にして、カウンターカルチャーのあり得た未来を探る連載。単独で読んでも面白そうなところにリンクした。

なぜ認知バイアスで行動を説明したことにならないのか?

今回のコロナ禍で、政治家などの言動を批判するのに正常バイアスを持ち出すことが見られた。正常性バイアスは以前の記事で引用した説明があるので、それをこのまま引用しておきます。

正常性バイアス:災害やそのありうる帰結が起こりうる可能性を低く見積って、物事は通常通りに働いているはずと信じる傾向

google:Cognitive biases Section to be published in the Encyclopedia of Behavioral Neuroscience (Hans)Korteling Alexander Toetより

正常性バイアスに限らず、何かしらの認知バイアスを持ち出して他人の行動を批判することはよく見られる。以前に、認知バイアスは全ての人に当てはまるので批判理由に相応しくない(批判者自身も認知バイアスを逃れられない)…と書いた覚えがある。

しかし、今回は認知バイアスが行動の説明にはそもそもならない論理的な理由を提示します。そして、それが認知バイアス以外にもよく見られる論理的な誤りであることを示します。

睡眠成分がこの薬で睡眠できる理由?

私がこれまで本で何度も読んだある引用がある。それは確かモリエールの戯曲からの引用だと思ったが、記憶が曖昧なので引用は勘弁してもらうが、内容だけはよく覚えている。

それは確か、医者が患者になぜこの薬を飲むと眠れるのか?を説明している場面だったはずだ。そこで医者は、この薬には睡眠成分があるから眠れると説明したという。

一見もっともらしい理由であるが、これは理由として成立していない。つまり、睡眠成分によって睡眠できる…とするのは単なるトートロジーであって何の説明にもなっていない。これが許されるなら何でも後付で説明できる。その薬で何が起ころうと、それを起こしたのは薬にそうなる成分が入ってたからだと言えてしまう。

こうしたトートロジー(同じことの繰り返し)による説明は、私が読んだ本では笑い話として引用されていたが、実のところ、私たちはこれを笑い話で済ますことはできない。なぜなら、このような説明は身の回りに溢れているからだ。

認知バイアスは思考や判断を説明するか?

認知バイアスについては大雑把に説明すると、人の思考や推論において論理や確率に従っていない主要な傾向1である。

そこで認知バイアスを(思考による)判断傾向と言い換えられるので、認知バイアスによってある判断を行なった…とは、判断傾向によってある判断を行なった…と言い換えても意味は変わらない。これは睡眠成分と同じトートロジーにしか見えない。

つまり、認知バイアスとは思考による判断傾向という現象につけられた名前であって、それ自体が判断傾向を説明するものではない。

様々な学問分野に見られるトートロジーによる説明

Beckerが正しくも指摘するように、認知心理学者が、何らかの「認知的バイアス」の存在故に人々が統計問題に間違った回答を与える傾向があることを説明する場合に心理学的諸力を召喚するやいなや、Michael Ruse(1993)のような社会生物学者が、道徳的感情は生物学進化の帰結であると主張する場合に生物学的諸力を召喚するやいなや、社会学者が所与の集合的信念が社会化の産物であると主張する場合に文化的諸力を召喚するやいなや、理論は説得力のないものに思える。

google:レイモン・ブードン 合理的選択理論と合理性の一般理論p.62より

この引用から示唆されるのは、進化的適応や文化による説明にも認知バイアスと同じようなトートロジーによる説明に陥りやすいことを示している。

文化が人の言動を説明している…と信じられている。ここでも同じ論法が使える。文化とは特定の言動をする傾向である。 そして、集団的信念とは外面にあらわれる言動として観察されないと分からない。つまり、ある言動をする傾向から言動を説明するのと変わらないので、やはりトートロジーに陥っている。文化とは特定の言動という現象につけられた名前でしかない。

進化的適応は行動を説明するのか?

進化的適応の場合はもう少しややこしい。引用の道徳的感情は、感情は直接には観察できないので行動に置き換える。進化的適応のおかげで特定の行動が残る。そして、私達が説明したい行動は、今に残っている行動である。残っている行動は進化的適応であると説明したいが、そもそも進化的適応によって行動が残るのが元の定義(前提)である。

ここにあるのはトートロジーだが、そうでない振りをするために、後付のもっともらしいお話が付け加えられる。こうしたお話はキップリングの著作に従ってなぜなに物語(just-so story)とも呼ばれる2

日本は、いまさら進化心理学が正しいか?間違っているか?を議論している周回遅れのところだが、ブーム時の進化心理学がときになぜなに物語にハマっていたのは確かだ。前にも記事に書いたように、可能な行動の範囲を定めて数理的に生き残る行動を定める…という進化ゲームのような方法が正しい。

認知バイアスそのものが科学的に説明されるべきだ!

元の話題に戻ると、認知バイアスはそれ自体が説明されるべき対象である。実際に、認知科学関連の領域ではそもそもの認知バイアスを説明しようとする試みが出てきている。

例えば、ベイズによる認知モデルで有名なグリフィスらの研究グループはリソースの点から認知バイアスを説明しようとしている3。自由エネルギー原理によって認知バイアスを説明できるとする研究者もおり、もし統一理論を称するならそれは避けられないだろう。既に引用した論文は合理的選択理論の論文だが、ここでも単純な合理性では説明できない認知バイアスのような不合理な選択を、なんとか説明しようと努力している。

つまり、最近の心の科学の流れとして、認知バイアスはそれ自体が説明されるべきなのであって、それをただの説明理由におさめることには満足しなくなっている。


  1. 「Cognitive biases are systematic cognitive dispositions or inclinations in human thinking and reasoning that often do not comply with the tenets of logic, probability reasoning, and plausibility.」 google:Cognitive biases Section to be published in the Encyclopedia of Behavioral Neuroscience (Hans)Korteling Alexander ToetのAbstractより

  2. 少し前に進化心理学を応用した政治学の書籍が出ていて、(おそらく本人による)その紹介を読んだ。その説明の中に楽観バイアスが取り上げられていた。前の記事にも触れたが、楽観バイアスが人類に普遍的か?は異文化比較の実験によって少なくとも怪しいので、取り上げるに相応しくない。それでも楽観バイアスにもっともらしい説明は与えられているが、そもそもが事実に反している。楽観バイアスは未だに広く信じられているので仕方ないが、進化的適応による説明なんてその程度のものも多いことは知っておいたほうが良い

  3. google:Falk Lieder Thomas Griffiths Resource-rational analysis: Understanding human cognition as the optimal use of limited computational resourcesを参照