最新のリバタリアニズム研究を紹介した記事を読む

ピーターさんがnoteに書いている、最新のリバタリアニズム研究を紹介する連続記事は、少し前からここで紹介したいと思っていた。

しかしだんだんと、これらはロールズノージックについてそれなりに知識ないと分からないのでは?と気づいてから、躊躇するようになってきた。このブログの読者に分析哲学が分かる人がどれくらいいるか?分からないが、日本の分析哲学の普及具合を考えると心許ない。

私がロールズの正義論の説明をしようか?とも考えたが、そんなのネットにも沢山あるだろうし、そもそもうまく説明できる自信がない。

しょうがないので、知識がなくとも理解できる部分を私が示して、それで面白いと思ったらがんばって読んでみてください…みたいな紹介にしたい。

快楽主義のパラドックスの引用でストレッチ

これからその部分を紹介するが、その前に本体の議論は知識がないと厳しいが、そこだけなら知識がなくとも読めるところを引用します。

快楽主義を例にしましょう。快楽の増大をあからさまに目的として行動すると、かえって快楽を得られなくなってしまうというパラドックスがあります。かなり単純な人がいたとして、もしその人がただ快楽を得ることを目的にした場合、その人にとってこの世のほとんどの活動(学問、芸術、スポーツなど)は快楽を得る手段であって、本質的には価値のある行為ではなくなるのですが、そうなることでむしろその人は快楽を得ることができなくなります。なぜなら、芸術やスポーツなどの活動というものは、まずその活動そのものを価値あるものとみなして打ち込まなければ最終的に快楽を得ることはできないのです。テニスを楽しむためには、まずテニスが単なる快楽を得る手段ではなくて、価値ある活動であると感じてテニスに入り込む必要があります。

このリバタリアニズム研究者を見よ(part3)」3 ロールズパラドックス より

引用部分は、分析哲学ってこういう議論の仕方をしますよ!というのを手軽に知るのに適切だが、残念ながら、これは本体の議論そのものではない。本文はこの後に、ロールズやパレートに触れているが、ロールズだけでなくパレートも知らないといけないので、私に手軽な説明は無理。

政府が作った制度を理由に自由を縛れるか?

これから紹介するのは、次にリンクする記事の 「2 "Legal convention"(法による慣習)に対する反論」にあたります。

ここでは、自分が所有するものは全部自分のものなので、そこから税金が取られるのは不当だ…と考えると野良リバタリアンの主張への(高尚)リベラルからの反論から始まります。

あるところに、「野良リバタリアン」がいたとします。彼は課税前の所得は自分の物であると主張しているようです。しかし、ネーゲルとマーフィーに言わせれば、課税前の所得は会計上のまやかしであって、課税後の所得が本来の正当な所得だそうです。なぜならば、現行の所得と財の保有パターンは政府とそれを支える税がないと成り立たないため、つまり社会制度のおかげで安全に稼げることができたのだから、所得にたいして自然権は発生しません。したがって、政府が金を勝手に取り上げていると野良リバタリアンが不満を呈しても、そもそも政府が存在しなければ経済活動を円滑に営めないのでそのお金は野良リバタリアンが独力で得たものではないことになるのです。したがって、個人が稼いだお金に対して課税することが正当化されます。

このリバタリアニズム研究者を見よ(part2)」 2 "Legal convention"(法による慣習)に対する反論 より

要するに、野良リバタリアンに対して、「お前の稼いだ財産は、政府が作った制度のおかげで稼げたのだから、政府を維持する政府に税金を払うべきだ」と反論できてしまう。

しかし、この形式の議論は財産権以外の他の権利にも簡単に広げることができる。noteの本文で出てくる例は身体についての権利だ。「お前の身体は、政府の作った制度によって安全に保たれてるのだから、(徴兵などによって)政府のために身体を差し出すべきだ」となる。

ここからは私的な展開も含む

noteではここまでの議論だが、この議論はいくらでも拡張できる。市民は政治に参加すべきだ!とする、シビックヒューマニズムを持ち出す強いタイプの共和主義者が喜ぶ結論も導けそうだ。それどころか、(社会秩序のために)人は政府に仕えるべきだという結論さえ導けうる。

つまり、自由を政府が作った制度を理由にして縛るタイプの議論は、どんな自由に対してもかなり当てはまってしまうので、最終的にはいかなる自由も失われてしまう。

したがって、高尚リベラルの主張する、財産権が真っ先に縛られるべきだ!とする議論は成り立たない。じゃあ、全ての自由が優先されるべきとする(極端な)リバタリアニズムが正しいのか?は、この後の議論となる。

おわりに

詳しくはnoteの記事を読んでもらうとして、結論だけ言うと、現在の政治哲学ではリベラルとリバタリアニズムの間を見出すのを目指しているようだ。もしかしたら、その有力な候補の一つがベーシックインカムなのかもしれない。

公正世界仮説という訳語を勝手に考察してみた

この前、YouTube社会心理学者が公正世界仮説を紹介しながら、コロナ禍の差別について語っていた。まあまあ面白かったので、興味のある人はどうぞ。

自分は公正世界仮説を知らなかったので、それなりに興味を持って聞けた。正直、終わりの方の話とか、もう社会心理学関係ないのでは?と思わなくもない。でも、社会心理学者が一般向けに語るのは少ない気がするので、ありがたい!

ただし、チャットの書き込みを見ていた印象では、公正世界仮説がどこまで理解されているか?疑問に感じた。私の印象ではもう少し丁寧に説明してもらっても良かったかな?と思った。

詳しい説明は動画を見てほしいが、公正世界信念とは因果応報を信じることであり、動画でもそう説明されている。ただ、すぐに差別の話に入ってしまい、要点が理解されているのかがウヤムヤなままに進んでしまった気もする。

公正世界仮説という訳語

公正世界仮説はjust-world hypothesisの訳だが、どうも分かりにくい。むしろ因果応報仮説と意訳する方が理解の点でマシだと思うが、学術用語だから無理なんだろうね。

just-worldを公正世界と訳すことの問題は、fairと混同してしまうところだ。私はロールズを知っているので、「公正としての正義」を思い出すが、これはjustice as fairnessの訳だ。ここではfairnessが公正と訳されている。そして、justの名詞化のjusticeが正義と訳されている。ややこしい!

以下は私の個人的な語感を述べるので、正確には各自で調べてください。

fairは条件を同じにするの含意。ロールズのような貧しい人に金銭を分配するとかアファーマティブアクションのような入学条件の優遇とかのように、与えられた悪い条件を後から良くして条件を揃える感じがする。フェアな競争とは、参加者全ての条件を同じにすることである。

justはピッタリとか正しいとかと訳せる。justiceはその名詞化だが、悪いことをした奴には罰を与える…という神や裁判官の判定を思わせる。それこそ意味的には因果応報に近いかもしれないが、因果応報の場合は判定を下す主体が含意されてない感じがする。共通するのは、悪には悪を!善には善を!というバランス感覚がそこにあることだ。

just-world hypothesisの訳語を勝手に考える

こう考えると、「公正」はむしろfairを思わせがちで、公正世界仮説という訳語は誤解を招きやすい。そこで、どうせ採用されないことを分かった上で、勝手にjust-world hypothesisの訳語を考えてみたい。

まず直訳に近い方が学術用語として好まれやすいことを考慮した訳語から。まあ「正しい世界仮説」の方が「公正世界仮説」よりも、悪い奴には悪いことが起こるという意味を含みやすそう。ただ問題は「正しい」は多義的なので、本当にこれで分かりやすいのか?私には確信できない。

因果応報仮説」という意訳は既に指摘したので、直訳と意訳の中間を考えてみる。それで思いついたのが「正義が下される世界仮説」だ。つまり、病気になった人にはそうなるに相応しい原因があったと考えると傾向だ。1

あらためて「正義が下される世界仮説」を考える

新型コロナに罹った理由には偶然の要素も強いので、本来ならその原因を知り尽くすことはできない。そこで科学では確率(統計)を使うのだが、人は確率を扱うのが苦手だ。実は統計における誤りについては、動画の中でも触れられているので、それを聞いてください。

もう一つ重要なのは、動画では触れられていないが、このブログでは既に触れたことのある帰属理論だ。「正義が下される世界仮説」はその点では、病気の原因を探す帰属理論の一種とも言える。病気の原因を罹病者の中に見出すことで溜飲を下げているのだ。

更に指摘しておきたいのは、人は誰もが物事の原因を知りたがる素人科学者でもある!と言うことだ。たとえ、それが本物の科学者のように実際の証拠に基づいていない結論であろうと、それは関係ない。その人にとって納得できる理由なら何でもいいのだ。

なぜその理由が選ばれるのか?は時代や文化によっても違いうる。神話には納得する理由を与える素朴理論(folk theory)としての側面もあるが、私達はそれを不合理なものとして笑うことなどできない。なぜなら、神話は私達の中で形を変えて生きているも同然だからだ。


  1. 「正義が下される世界仮説」がキリスト教的な言い方なら、「因果応報仮説」は仏教的な言い方だな。でも、ヨブ記とかを知ってれば、キリスト教はそんな単純じゃねぇよ!とも言えるし、そもそも因果応報だってどこまで本当に仏教的なのか?怪しい。ここでこれ以上に深い宗教論をするつもりはないが、いろいろ詮索したくなる所がある。

去年の雑な振り返りと、書きそうな記事の予告

去年の認知科学関連、私的な概振り返り

最近の認知科学関連については、特に二十一世紀に入ってから次々と続いていた関連したブーム1がだいたい落ち着いてきた2。認知科科学にブームとして残っているのは、もう(自由エネルギー原理を含んだ)予測処理理論ぐらいかもしれない。

去年の認知科学関連で、私から見て最も目立ったのは、統一理論としての予測処理理論への本格的な批判が始まったことかな?このブログで紹介した論文「統一による専制」はその代表だが、他にも草稿やレターにも面白いものがあった。この動きは今年もまだしばらく続いて、その中で予測処理理論の学問的な評価や位置づけがだんだん定まっていくと思う。

科学というのはこうした過程が面白いと思うから、こういう議論はできるだけ紹介したい。世間的な、科学は成果しか見ないという傾向は良くないと感じる。実際に今回の新型コロナ騒ぎでは「科学は成果しか見ない」傾向が悪い影響を与えているように見える。科学は過程こそが大事はこのブログで伝えたいことだ。

心理学研究の再現性への私的見解

心理学研究の再現性問題(同じ実験をしても同じ結果が出ない問題)は、日本でも学者が本格的に動いてるので、私のような門外漢はあまり口は出さないつもりだ。ただ外から見てると幾つか懸念もある。

例えば、実験の手法やデータを全て形式化して公開しようという提案がある。確かにそうすれば、同じ実験の再現や同じデータの分析はしやすくなる。しかし、これを実現する上での一番の懸念は、研究を形式化する事務仕事ばかりが増えてしまうことだ。

(学者同士で)コミュニケーションをすれば済む話を、形式的に事務化するのはブルジットジョブ(クソ仕事 ; グレーバー)を増やす原因にしかならない可能性が高い。私は形式化を目的にするよりも、必要な情報を得られるやり取りをしやすくする仕組みを整える方が、研究者の為になると考える。事務化(官僚化)は一度進むと直しづらいので、安易な形式化は採用しないでほしい(どうせ全ての形式化なんて不可能)。

(特に社会)心理学におけるオリジナリティへのこだわりが、再現性へのこだわりに入れ替わるだけ、みたいな不毛な事態には絶対になってほしくない。言いたかないが、再現可能な成果が心理学の研究範囲内にそんなに多いとは思えない。むしろ統計や数理モデルをもっと取り入れる方が良いと思うが、こっちにも罠がありそう。それを考えるのはこれからの課題。

最近思いついた記事のアイデアだけ書く

最近は本屋に行くと、哲学の入門書をよく見かけたりする。それらはだいたい哲学者の名前を並べた哲学史みたいな本ばかりと感じる。特定のテーマを直接議論するタイプの哲学の本が日本では少ないことには懸念を感じる。日本では哲学は単なる思想としてばかり扱われていて、論証としてはあまり扱われていない3。ここから、泥沼に入らない程度に「哲学とは何か?」を雑に論じたい。

この前ラジオを聞いてたら、最近は共通前提としてのエビデンスが崩されてる…みたいな話がされてて???となった。エビデンスに注目が集まったのは比較的最近の話で、共通前提と言えるほどの歴史はまだない。たぶん論理実証主義あたりとごっちゃになってるのかもしれないが、はっきり言ってかなり違う。最近はエビデンスという言葉が安易に使われている。そこでエビデンス重視の歴史や背景を雑に書きたい[^3]。


  1. 世間的に目立ったものだと、進化心理学、脳イメージング、道徳心理学、人工知能とかかな。学問的なブームも入れると、大小含めてもっといろいろあると思うが、私もその全てを追えてた訳ではない。

  2. そういえば、日本でも最近になって潜在的偏見の研究が本格的に紹介され始めたが、これはアメリカではもっと早くから一般向けに紹介されて注目されていた。このブログでもかなり前に関連の一般向けの翻訳書を紹介した覚えがある。これはBLM(ブラックライブズマター)が元は去年に始まった運動ではない(もっと早い)のと関係がある。

  3. ここまで書いてて思ったけど、エビデンスの話というとは、結局は科学観の変化の話に帰着する。昔はマルクス主義が科学的か?が大真面目に論じられていたが、今やそんな議論に価値はない。人文学者には今でも精神分析を信じている人も多いが、マトモな科学者は精神分析が科学的に擁護できるとはとっくに思っていない(一部は反証済みで多くはそもそも反駁不可)。私にとっては、精神分析はあくまで思想史の対象であって、もはや科学の範囲にはない。そういえば、just-so story(もっともらしいだけのなぜなぜ物語)という点では、精神分析に取って代わるように出てきた進化心理学は同じ穴の狢だ。根拠なくてもいいからもっとらしい話を欲する欲望が人には備わってるのだろうか?