トランプ問題とプラットフォーム問題は分けなきゃ駄目でしょ!

以前、このブログで人工知能の偏り問題についての記事を書いたことがある。

そこではAIの偏りの原因を因果(回帰分析)とサンプリング(データセット)の二つに分けて論じた。最近、データセットの偏りによって生じるAIの問題を論じた記事があがっていた。

この前の人工知能ブームには、ブームに乗って適当なことを書くミーハーが沢山出てきたくせに、いざこういう問題が表面化するとマトモに語れる人が日本にはろくにいないのに気づかざるをえない。頭痛くなってくる!

トランプのアカウント停止問題を考える

実は似たことが、この前のトランプのtwitterアカウント停止問題の際にも起こっている。それは、トランプ問題とプラットフォーム問題が安易にごっちゃに語られていることである。

私はこのブログでも、プラットフォームにAI的なアルゴリズムが使われていることを示唆したことがある程度には知識がある。そして、前からネット上で謎のtwitterアカウントの停止問題は聞いていたので、二つの問題が一緒にされがちなのはマズいと思うようになった。

トランプのアカウント停止問題へのよくある勘違い

まず、トランプのアカウント停止問題についてよくある勘違いに触れておく。

表現の自由が問題なのか?

一つ目はこれは表現の自由の問題だという主張。表現の自由は政府による規制が本来の問題なので、今回の民間企業の決定とは分けて話すべきだ。

例えば、雑誌でどんな記事を載せるか?はその雑誌の編集の問題であって、特定の記事が載らないからと言ってある雑誌を非難するのはおかしい。なぜなら別の雑誌にその記事が掲載されればいいだけだからだ。

雑誌とプラットフォームは違うというかもしれないが、その違いを日本で明確に論じているのを私は見たことがない。そして、私がこれから論じたいのは、そのプラットフォームとは何か?の問題だ。

メルケルの発言はヨーロッパ的な発想

もう一つはトランプのアカウント停止問題へのメルケルの発言だ。これは表現の自由についてのアメリカとヨーロッパでの考え方の違いが分かっていないと誤解する。

ヨーロッパ方式とアメリカ方式の違いは、許される表現の基準が行政を介して決まるか?民間で決まるか?の違いにある。どちらが正しいとはそう簡単には言い難い。

アメリカ方式の問題は見えているので、ヨーロッパ方式だけを扱う。手短に批判すると、ヨーロッパ方式はナチス礼賛は駄目だけどイスラム批判は良い…といった恣意的な基準が設けられており、未だにたまにそこで揉める。ヨーロッパ方式は別に必ずしも褒められる方式ではない。

トランプ問題とプラットフォーム問題は分けよう

ここで主張したいことはただ一つ、アカウント停止のトランプ問題とプラットフォーム問題は分けて論ずるべきだ!ということだ。これら二つの問題はごっちゃにされがちだが、安易に一緒にすると問題の本質を見逃す。

私が愛読してるブログに、その辺りの問題を示唆してる、日本語で読める数少ない記事がある。

Twitter、Facebookが大統領を黙らせ、ユーザーを不安にさせる理由

ダートマス大学教授の ブレンダン・ナイアン氏も、トランプ氏への永久停止は正しい判断だとしても、プラットフォームが行使するパワーには不安を覚えるとし、ツイートでこう述べている。

「[https://kaztaira.wordpress.com/2021/01/12/twitter_facebook_locked_out_president/: title]」より

トランプ問題とプラットフォーム問題はどう違うのか?

まず大きな違いは、アカウント停止が意図的かつ人為的であるかどうか?だ。トランプのアカウント停止は意図的になされたもので、その責任の所在がはっきりしている。対して、プラットフォーム問題の場合は、そのアカウントの多くが(AI的な)アルゴリズム1で勝手に管理されるので、責任の所在がはっきりしない。

もう一つの違いは、トランプ問題はアカウントが停止された事情が人々の目に見えていることだ。トランプのアカウント停止の理由は問えば答えられるはずだし、そこに潜む問題も直接に議論することができる。しかし、プラットフォームで日常的に行われているアルゴリズム的なアカウント停止は、その理由はよく分からないし、プラットフォーマー側でさえ答えることも難しい。

たまに、政治的なつぶやきをしたからアカウント停止された?と疑われることもある。そのくせ、なんでヘイトを垂れ流すアカウントが停止されないのか?疑問だらけなこともよくある。背景が目に見えるトランプのアカウント停止なんて、こんな日々行われているアカウント停止に比べれば、全然かわいいものに思える。

プラットフォーム問題とは何か?

プラットフォームは民間企業なので、どんなアカウント停止をしようが自由だ!という意見もなくもない。しかし、これは必ずしも間違ってはいないが、プラットフォーム問題を甘く見てる感は拭えない。

メディア問題としてのプラットフォーム

これは既に表現の自由問題で触れた、雑誌の例と比較すると分かりやすい。ある雑誌に自分の書いた記事が採用されなかったとしても、別の雑誌に応募したり、何なら自分で雑誌を作ってもいい。プラットフォームにこれと同じことが言えるのか?

雑誌と違って、プラットフォームがそんなに簡単に作れて乱立する訳がない。その点ではむしろ、雑誌を発行する出版社の方が近いかもしれない。雑誌がコンテンツの集まりだとしたら、出版社はそのコンテンツをメディアに載せて配る役割を果たす。こっちの方がプラットフォームのイメージにむしろ近い。

つまり、コンテンツの層とメディアの層はきちんと分けるべきなのだ2。コンテンツを配るメディアを司る装置として、以前なら新聞やテレビのようなマスメディアが優勢だったが、今やプラットフォームが多大な影響力を持っている。

おわり

多大な影響力を持ったプラットフォームが、責任の所在も曖昧なままに、偏りをも含みうるアルゴリズムで、理由も分からないままにアカウントを管理する…という状況をもっと本気で考えてほしい。

上にリンクしたのは、ケンブリッジアナリティカを告発したワイリーの本の書評だ。ケンブリッジアナリティカは意図的に情報を操作した3が、プラットフォーマーは意図せずに似た操作を行ないうるのだ。

トランプのアカウント停止という目に付きやすい分かりやすい問題に目を眩ませてはいけない。本当の深い問題はその奥にある。


  1. アルゴリズムがAI的かどうか?は二次的な問題で重要ではない。だいたい、あるアルゴリズムがAI的かどうか?の基準そのものが必ずしも明確な訳ではない。

  2. ただし、マスメディア時代はメディア管理とコンテンツ制作が結びついていて、その違いは明瞭ではなかった。たまに、(今と違って)昔のニュース番組は中立的で良かった!という人を見るが、昔は少数のマスメディアが多大な影響を握っていただけであり、それが中立的だったとするのは単なる幻想でしかない(ジャーナリスト論を勉強してね)。ただ、プラットフォームの中には特定のコンテンツと結びついてるのもあるので、そこはややこしい。コンテンツ層とメディア層の間にエディット層も加えた方がいいのかもしれない

  3. ただし、ケンブリッジアナリティカの選挙への影響力が過大評価されているという指摘もある。確かに、トランプの支持層を考えるとその指摘も分からなくもない。一部の過激化が目立ちやすいせいで、ネットの影響力が過大評価されてる気配がなくもない。でも逆に言えば、今でさえこれなのだから、この先どうなるのか?もう少し考えてほしい

最新のリバタリアニズム研究を紹介した記事を読む

ピーターさんがnoteに書いている、最新のリバタリアニズム研究を紹介する連続記事は、少し前からここで紹介したいと思っていた。

しかしだんだんと、これらはロールズノージックについてそれなりに知識ないと分からないのでは?と気づいてから、躊躇するようになってきた。このブログの読者に分析哲学が分かる人がどれくらいいるか?分からないが、日本の分析哲学の普及具合を考えると心許ない。

私がロールズの正義論の説明をしようか?とも考えたが、そんなのネットにも沢山あるだろうし、そもそもうまく説明できる自信がない。

しょうがないので、知識がなくとも理解できる部分を私が示して、それで面白いと思ったらがんばって読んでみてください…みたいな紹介にしたい。

快楽主義のパラドックスの引用でストレッチ

これからその部分を紹介するが、その前に本体の議論は知識がないと厳しいが、そこだけなら知識がなくとも読めるところを引用します。

快楽主義を例にしましょう。快楽の増大をあからさまに目的として行動すると、かえって快楽を得られなくなってしまうというパラドックスがあります。かなり単純な人がいたとして、もしその人がただ快楽を得ることを目的にした場合、その人にとってこの世のほとんどの活動(学問、芸術、スポーツなど)は快楽を得る手段であって、本質的には価値のある行為ではなくなるのですが、そうなることでむしろその人は快楽を得ることができなくなります。なぜなら、芸術やスポーツなどの活動というものは、まずその活動そのものを価値あるものとみなして打ち込まなければ最終的に快楽を得ることはできないのです。テニスを楽しむためには、まずテニスが単なる快楽を得る手段ではなくて、価値ある活動であると感じてテニスに入り込む必要があります。

このリバタリアニズム研究者を見よ(part3)」3 ロールズパラドックス より

引用部分は、分析哲学ってこういう議論の仕方をしますよ!というのを手軽に知るのに適切だが、残念ながら、これは本体の議論そのものではない。本文はこの後に、ロールズやパレートに触れているが、ロールズだけでなくパレートも知らないといけないので、私に手軽な説明は無理。

政府が作った制度を理由に自由を縛れるか?

これから紹介するのは、次にリンクする記事の 「2 "Legal convention"(法による慣習)に対する反論」にあたります。

ここでは、自分が所有するものは全部自分のものなので、そこから税金が取られるのは不当だ…と考えると野良リバタリアンの主張への(高尚)リベラルからの反論から始まります。

あるところに、「野良リバタリアン」がいたとします。彼は課税前の所得は自分の物であると主張しているようです。しかし、ネーゲルとマーフィーに言わせれば、課税前の所得は会計上のまやかしであって、課税後の所得が本来の正当な所得だそうです。なぜならば、現行の所得と財の保有パターンは政府とそれを支える税がないと成り立たないため、つまり社会制度のおかげで安全に稼げることができたのだから、所得にたいして自然権は発生しません。したがって、政府が金を勝手に取り上げていると野良リバタリアンが不満を呈しても、そもそも政府が存在しなければ経済活動を円滑に営めないのでそのお金は野良リバタリアンが独力で得たものではないことになるのです。したがって、個人が稼いだお金に対して課税することが正当化されます。

このリバタリアニズム研究者を見よ(part2)」 2 "Legal convention"(法による慣習)に対する反論 より

要するに、野良リバタリアンに対して、「お前の稼いだ財産は、政府が作った制度のおかげで稼げたのだから、政府を維持する政府に税金を払うべきだ」と反論できてしまう。

しかし、この形式の議論は財産権以外の他の権利にも簡単に広げることができる。noteの本文で出てくる例は身体についての権利だ。「お前の身体は、政府の作った制度によって安全に保たれてるのだから、(徴兵などによって)政府のために身体を差し出すべきだ」となる。

ここからは私的な展開も含む

noteではここまでの議論だが、この議論はいくらでも拡張できる。市民は政治に参加すべきだ!とする、シビックヒューマニズムを持ち出す強いタイプの共和主義者が喜ぶ結論も導けそうだ。それどころか、(社会秩序のために)人は政府に仕えるべきだという結論さえ導けうる。

つまり、自由を政府が作った制度を理由にして縛るタイプの議論は、どんな自由に対してもかなり当てはまってしまうので、最終的にはいかなる自由も失われてしまう。

したがって、高尚リベラルの主張する、財産権が真っ先に縛られるべきだ!とする議論は成り立たない。じゃあ、全ての自由が優先されるべきとする(極端な)リバタリアニズムが正しいのか?は、この後の議論となる。

おわりに

詳しくはnoteの記事を読んでもらうとして、結論だけ言うと、現在の政治哲学ではリベラルとリバタリアニズムの間を見出すのを目指しているようだ。もしかしたら、その有力な候補の一つがベーシックインカムなのかもしれない。

公正世界仮説という訳語を勝手に考察してみた

この前、YouTube社会心理学者が公正世界仮説を紹介しながら、コロナ禍の差別について語っていた。まあまあ面白かったので、興味のある人はどうぞ。

自分は公正世界仮説を知らなかったので、それなりに興味を持って聞けた。正直、終わりの方の話とか、もう社会心理学関係ないのでは?と思わなくもない。でも、社会心理学者が一般向けに語るのは少ない気がするので、ありがたい!

ただし、チャットの書き込みを見ていた印象では、公正世界仮説がどこまで理解されているか?疑問に感じた。私の印象ではもう少し丁寧に説明してもらっても良かったかな?と思った。

詳しい説明は動画を見てほしいが、公正世界信念とは因果応報を信じることであり、動画でもそう説明されている。ただ、すぐに差別の話に入ってしまい、要点が理解されているのかがウヤムヤなままに進んでしまった気もする。

公正世界仮説という訳語

公正世界仮説はjust-world hypothesisの訳だが、どうも分かりにくい。むしろ因果応報仮説と意訳する方が理解の点でマシだと思うが、学術用語だから無理なんだろうね。

just-worldを公正世界と訳すことの問題は、fairと混同してしまうところだ。私はロールズを知っているので、「公正としての正義」を思い出すが、これはjustice as fairnessの訳だ。ここではfairnessが公正と訳されている。そして、justの名詞化のjusticeが正義と訳されている。ややこしい!

以下は私の個人的な語感を述べるので、正確には各自で調べてください。

fairは条件を同じにするの含意。ロールズのような貧しい人に金銭を分配するとかアファーマティブアクションのような入学条件の優遇とかのように、与えられた悪い条件を後から良くして条件を揃える感じがする。フェアな競争とは、参加者全ての条件を同じにすることである。

justはピッタリとか正しいとかと訳せる。justiceはその名詞化だが、悪いことをした奴には罰を与える…という神や裁判官の判定を思わせる。それこそ意味的には因果応報に近いかもしれないが、因果応報の場合は判定を下す主体が含意されてない感じがする。共通するのは、悪には悪を!善には善を!というバランス感覚がそこにあることだ。

just-world hypothesisの訳語を勝手に考える

こう考えると、「公正」はむしろfairを思わせがちで、公正世界仮説という訳語は誤解を招きやすい。そこで、どうせ採用されないことを分かった上で、勝手にjust-world hypothesisの訳語を考えてみたい。

まず直訳に近い方が学術用語として好まれやすいことを考慮した訳語から。まあ「正しい世界仮説」の方が「公正世界仮説」よりも、悪い奴には悪いことが起こるという意味を含みやすそう。ただ問題は「正しい」は多義的なので、本当にこれで分かりやすいのか?私には確信できない。

因果応報仮説」という意訳は既に指摘したので、直訳と意訳の中間を考えてみる。それで思いついたのが「正義が下される世界仮説」だ。つまり、病気になった人にはそうなるに相応しい原因があったと考えると傾向だ。1

あらためて「正義が下される世界仮説」を考える

新型コロナに罹った理由には偶然の要素も強いので、本来ならその原因を知り尽くすことはできない。そこで科学では確率(統計)を使うのだが、人は確率を扱うのが苦手だ。実は統計における誤りについては、動画の中でも触れられているので、それを聞いてください。

もう一つ重要なのは、動画では触れられていないが、このブログでは既に触れたことのある帰属理論だ。「正義が下される世界仮説」はその点では、病気の原因を探す帰属理論の一種とも言える。病気の原因を罹病者の中に見出すことで溜飲を下げているのだ。

更に指摘しておきたいのは、人は誰もが物事の原因を知りたがる素人科学者でもある!と言うことだ。たとえ、それが本物の科学者のように実際の証拠に基づいていない結論であろうと、それは関係ない。その人にとって納得できる理由なら何でもいいのだ。

なぜその理由が選ばれるのか?は時代や文化によっても違いうる。神話には納得する理由を与える素朴理論(folk theory)としての側面もあるが、私達はそれを不合理なものとして笑うことなどできない。なぜなら、神話は私達の中で形を変えて生きているも同然だからだ。


  1. 「正義が下される世界仮説」がキリスト教的な言い方なら、「因果応報仮説」は仏教的な言い方だな。でも、ヨブ記とかを知ってれば、キリスト教はそんな単純じゃねぇよ!とも言えるし、そもそも因果応報だってどこまで本当に仏教的なのか?怪しい。ここでこれ以上に深い宗教論をするつもりはないが、いろいろ詮索したくなる所がある。