日本はネトウヨもリベラルも前提の少ない一般化できる議論ができない

私は日本に跋扈するいわゆるネトウヨなんて馬鹿にしてるし、ネットでたまに見かけるネトウヨ的な発言も私には簡単に反論を思いつくことが多い。今の日本は、以前よりはネトウヨに反抗しやすくなり、状況は少しは良くなると思っていた。しかし、思ったより状況が良くなってない気がする。最近、その原因は日本のリベラルな論者にあると考えるようになった。

日本では、ネトウヨ的な発言にリベラルな論者が反論するときに、リベラルな価値観を当たり前の前提としてそれを振りかざすだけなことが多いことに気づき始めた。ラジオのある有名パーソナリティーがリベラルな価値観を当たり前の前提として発言していることには前から違和感があったが、どうもその傾向は日本のリベラルな論者に多く見られる傾向じゃないか?と思い始めた。

もしリベラルな価値観を本気で広げたいなら、リベラルな価値観を共有しない異なる価値観の人たちにも通じるように発言すべきのはずだが、日本のリベラルな論者はそれを怠っていると考えるようになってきた。

日本でネトウヨが跋扈したもう一つの側面

2000年代の終盤に大学の授業で「二大政党制と多党制と、どちらがよいか」で議論をさせたんです。そのとき「いっぱい政党がある意味がわかんない。独裁で正しい意見を実行してくれればそれでいい」と発言する学生がいました。最初はウケ狙いで言っているのかな、と思いながら対応したのですが、話しているうちにどうも素でそう思っているらしいぞと、気づいて驚いたことがあります。

歴史のない社会でどう「公共」を教えるか?與那覇潤インタビュー - 教育図書」より

日本でネトウヨが跋扈するようになった源は、左翼的なものに対する反動的な運動にある。反動的な勢力は基本的に差別主義者ばかりで、その主張される根拠も事実を捻じ曲げたものも多く、第三者的には説得力はない。よって、ネトウヨの跋扈は感情的な理由のせいにされがち(美味しい思いをしてる奴らがいるという思い込み)だ。しかし、反動的な運動は日本でネトウヨが跋扈した原因の片面でしかないと思うようになってきた。

上の引用にあるような、独裁でも別にいいじゃん!みたいな発言の背景に潜む感覚は、今の日本に広がっていると感じる。つまり、特定の価値観を当たり前の前提とした話し方は、日本では通じなくなっている。日本でネトウヨが跋扈する背景には、なんでリベラルじゃないといけないの?という素朴な疑問にあるのだが、日本のリベラルな論者はそうした疑問に真正面から答えることができてないのでは?と感じる。

前提の少ない一般化できる議論ができない日本人

最近だと、普遍的人権に対して権利があるから守られるべきだ!というツイートをみた。これは自然権論を前提にした発言だが、そもそも日本に自然権を信じている人が大多数だとは思えない。私だったら、人権を普遍的に設定するのは権力による恣意的な基準を防ぐためだ!と主張するが、これだと余計な価値的な前提があまりない1

結論としては、日本ではネトウヨかリベラルかそれ以外でもかなり幅広く、できるだけ前提が少ない一般化できる議論を展開できる人がとてつもなく少ないことだ[^1]。なぜ独裁制じゃ駄目なんですか?と聞かれて、ちゃんと答えられるだけの能力の人が日本に増えない限り、日本の状況が良くなる気配さえやってこないと思う2


付録;なぜ独裁制じゃ駄目なの?に少し答える

なぜ独裁制じゃ駄目なの?という疑問に対しては、私だったら「独裁者が常に正しく自分たちのために働いてくれるとでも?それは独裁者の能力や良心に頼りすぎじゃない?甘すぎだわ!」と一蹴しておしまい。

これで終わりはあんまりなので、アルチュセールによるマキャヴェリの歴史の循環理論の説明が分かりやすいので、まるまる引用しておきます3

社会のはじまりにおいては、「偶然が人間のあいだに、ありとあらゆる種類の政体を誕生させた」。人間は最初、獣と同じように、あちこちに散らばっており、数も少なかった。「人類の数が増えだすと、結集して身を守る必要性を感じられるようになった。この最初の目的をよりうまく達成するために、最強の人間、もっとも勇敢な人間が選び出された」。これが「社会への結集の時代」である。すぐさま、人間のあいだに利害対立が生まれるようになる。「こうした害悪を予防するために、人間は法律を作ることに決めた」。これが法(正義)の起源であり、法(正義)は首長の選出を左右するようになった。「もはや最強の者にももっとも勇敢な者にも頼らず、もっとも賢く、もっとも正しい人間に頼るようになった。」これが最初の政体、君主制である(Ⅰ)。

-「哲学・政治著作集〈2〉」p.701-2より

…中略…

ということで、私たちは君主制の誕生に立ち会った。そして、この君主制専制に堕していくことになる。君主の後継者たちは君主がもっていた徳を失い、贅沢におぼれ、軟弱になる。そして、臣下たちに憎しみが生じる。王はこの憎しみを恐れ、恐怖によってそれに応える。専制と横暴である。

マキャヴェリによると、それに続く無秩序は、民衆からでなく、諸侯たちから出てくるという。

諸侯たちが王に対して反乱を起こし、民衆は彼らに続き、王を倒す。そのとき権利を握るのは諸侯たちである。これが貴族制(Ⅱ)であり、貴族制もまた堕落して、寡頭制になる。寡頭制もまた専制的である。君主制と同じプロセスをたどって、権力を握った最初の貴族たちのあとに続く貴族たちが、政体の堕落を引き起こすわけである。彼らは父親たちの徳を忘れ、民衆の憎しみを引き起こして、民衆に対し僭主となる。

民衆はまたしても、新しい主人たちに対して反乱を起こす。万策尽きた結果、残るは「民主制(Ⅲ)」だけである。するとまた、同じプロセスが現れる。初代政府のあとに続く者たちは、先人たちの徳を失い、やりすぎあるいは無策によって、民衆の憎しみを爆発させる。民主制は「放縦」へと堕落する。民衆は反乱を起こし、新しい主人を探す。その彼が王となるだろう。円環が閉じられる。

-「哲学・政治著作集〈2〉」p.702-3より

ちなみに、この後は循環理論に代わる説が提示されている。アルチュセールなんてどうせマルクス主義者でしょ!という偏見をなくして、アルチュセールの思想史を直接に読むと実はとても面白い(巷のアルチュセール論は読んじゃ駄目。アルチュセールのいわゆる主著もお勧めしない)。

あと、こんなのを引用するのを見れば分かるように、私は民主制を素朴に擁護する気はない。そもそも最新の政治理論(哲学)では、エピストクラシーやロトクラシーのように、従来の民主制とは異なる政治制度について真面目に論じられている。


  1. ただし、人権における普遍性とは何か?の疑問がさらに出てきうる。特に、最近流行りの動物の権利論は人権の普遍性を突き崩す危険なものだと思うが、それは応用編なのでこれ以上は扱わない

  2. ただし、私はネトウヨ(やリベラル)を直接説得できるとはあまり思っていない。そうではなく、その議論を見ている第三者が物事を考え直すきっかけになることの方が大事。てか、ちょっと相手が黙ったぐらいで論破!と叫んで騒ぐような馬鹿なネトウヨ(および論破なんて意味ないと断言するだけの高慢なリベラル)をどうすれば説得できるか?こっちが教えてほしい

  3. もちろん、以下の引用での説明は歴史的な事実とは関係がない。こういう説明は、合理的再構成とか歴史的再構成とかと呼ばれるものであり、文字通りに正しいことを意味していない。こうした再構成は議論や教育の上で役立つのであり、事実と違う!という理由で否定するのは違うと思う

愚痴の後で書きたい記事のアイデアだけを書く

以下はただの愚痴なので読み飛ばせ

私がこのブログで書くことはだいたい早すぎて、その時点ではあまり理解されない。

俗流クオリア論批判もその流行りのまっただ中で書いたが、当時は学者も含めて誰も批判する人がいないことに呆れていた。ピンカーやマッド・リドレーなどによる合理的楽観主義についてもかなり早くここで指摘した覚えがあるが、ファクトフルネスが出版されることで最近になってやっと認識され始めた感じがする。ニューラルネットワークを統計として論ずるのも日本でもよく見るようになったが、それをここで指摘したのもそれなりに早い。

早い段階で(知識や議論として)正しいことを指摘しても誰も褒めてくれないし、それどころか場合によっては不条理な攻撃に合う。私はこのブログを書いても一銭も儲からないし1、承認欲求もそんなにないので知的欲求のある人だけが分かれば十分だと思ってる。それでも、世間の状況やこのブログの読まれなさにかなりめげてきてる。

認知科学についても、私は早い段階で身体化の影響を受けていて2 ここでも早くから何度か紹介したことがある。最近の認知科学の哲学は、日本ではおそらく研究者がほぼいない3と思うので、ここでの最近の議論の紹介は今の日本では貴重だと自認してるが、まぁ別に誰にも感謝されないよね。

21世紀に入ってから認知科学に関連するブームはさんざん起こってたのに、認知科学なんて時代遅れ!とか認知科学…それ食べれるの?的な態度には何度もあっている。結局は時代になんとかついていけてるのは私の方なのに、その場その場の流行りに乗ってるだけの奴からの嫌な目にばかり合う。

このブログをどうするかな

ここまでは全部どうでもいい愚痴4なのだけれど、それを書きたかった訳ではない。困ってるのは、このブログに何を書くべきか?迷っている件だ。一見私の好き勝手に書いてるようにも見えるかもしれないが、だいたいその時点のブームや話題にかなり合わせている。私だって、自分が持ってたニューラルネットワークの知識が役立つ時代が来るとは全く予想してなかった。

でも、21世紀に入ってから断続的ながら起こっていた認知科学関連のブームはほぼ終わっている。人工知能ブームについてもここでも色々書いてきたけど、まぁこんなもんだよね(シンギュラリティとか仕事が奪われるとかどこいった?)。

少しだけ世間でも流行る気配がありえるのは、(去年英語圏で一般書が出たらしい)利他性の科学的研究くらいだけど、本当に流行るのか?は分からない。ただこれも確実に言えるのは、ゲーム理論的な実験をしても理論通りほどには利己的でないこと…ぐらいで、あまり人が利他的であることを強調するのは(利己的だと強調するのと同じぐらい)どうかと思う。

認知科学関連のブームがほぼ終わってるところに、心理学の再現性問題が重なり、世間的に目新しい研究は出づらい状況になっている。世間的な注目や学問的な流行りの点で、ここに書くのを見つけるのは面倒になっている。じゃあ書きたいものがないか?いうとそうでもなくて、個人的に興味を持ってるものやまだ学問的に広まるか分からないものなら、いくつかある。

書きたい記事のアイデだけ書く

いくつかあるアイデアを順不同で軽く書く。単なるアイデアなので結論も何もありません。続きは自分で勝手に考えてもらって構いません。関連論文はキーワードで検索すれば見つかると思います。

情報熱力学から心の進化を考える

統一理論としての予測処理理論は(理由はここでも紹介したが)私には見込みのないものに思えてきて、学者による議論や研究の進展を待つ待機状態に入るつもりだ。と同時に、前々から感じていた生命へのエントロピー論の適用も疑いがより深くなった。しかし、少し前にこの疑問に答えてくれるかのような新しい物理学の成果の紹介を見つけた。それは情報熱力学だ。つまり、生命の情報処理はそれによって得られるエネルギーとの関係で進化してきたのではないか?これなら、進化心理学のような「なぜなぜ物語」にはまらずに心の進化を論じられるのではないか?

心は脳にだけでなく身体に分散してる

ネットで見つけた「環境を友とする制御法」の論文を面白く読んだ。ロゴス中心主義批判の派生のような反表象主義は下らないと思うが、その源となった力学系アプローチは馬鹿にできないと感じる。「環境を友とする制御法」はその力学系アプローチの工学的な継承者である。力学系アプローチから取り入れるべきなのは、(古典的計算主義批判でしかない)反表象主義なんかではなく、脳中心主義への批判なのだと思う。つまり、心は身体に分散しているのであって、脳だけを心の座とするのは狭い考え方では?と考えるようになった。

心はサンプリング装置なのか?

google: 寺前順之介 脳と知能の物理学 は、脳はサンプリング装置でもあることを指摘した面白い論文だが、心をサンプリングとして理解する論文は実は既に読んだことがあった。遡ればいくつか論文があるが、ここでは比較的新しい論文として google: The Sampling Brain by Jian-Qiao Zhu を紹介する。認知のベイズ理論が発展する中で、それはマーの言う計算論レベルでしかない…という批判があった。それに対して、アルゴリズムレベルとしてサンプリングに注目する研究が現れた。ただ、アルゴリズムレベルとしては変分ベイズも候補としてあり、最近はこれの勉強で手一杯かな。まぁ、私はどちらかというとサンプリング派かな(排他的な選択肢では必ずしもないが)。

文化右翼としてのオルタナ右翼

あと認知科学からは外れるのも一つ。ネットでネトウヨについての話を見てたら、ネトウヨ民族派右翼と違って口だけで行動しないから嫌い!という過激な見解が耳に入ってきた5。そこから、あれ?ローティの批判する文化左翼とは、行動しない口だけのポストモダン左翼のことだが、だとするとネトウヨ(オルタナ右翼)ってのは文化右翼じゃん!と思いついた。ただし、文化から社会を変えるは有名なマルクス主義グラムシのアイデアだが、それに実地に実行したのはむしろオルタナ右翼なのだ。まあ、自分は文化左翼も文化右翼もどっちも(話が非論理的で非科学的だから)嫌いなんだけどね。

私は学生時代に大好きだった認知科学ブルーナー(故人)6と同じで、アイデアを撒き散らしがちで、あまり深める気力ないんだよね。私が今の時代に学者だったとしても、全く大成しなかったろうな。


  1. アフィリエイトを始めて、駄目になったブログはいくつも見た

  2. 20年以上前の学生時代に、既にレイコフらの「レトリックと人生」を読んでいたし、デネットの本だけで噂に聞いてた「身体化された心」が翻訳された時は狂喜乱舞した。その私でも(身体化論から派生した)近年の反表象主義にはガッカリしかしてない。私はどちらかというと、古典的計算主義でも反表象主義でもなくて、イメージ-命題論争におけるイメージ派に共感的なのだけれど、海外でさえこの立場はマイナーなので、ここでこの話をしていいのか?よく分からない

  3. 認知科学の哲学は、科学と哲学が共に分からないとできないので、文理の断絶の激しい日本では研究者が出てきにくい。それでも、最近は日本でも科学哲学の優秀な学者が出てきているが、その専門はたいてい生物学の哲学の方で、認知科学の方には来ない。その原因の一つは、そもそも近年の日本の認知科学そのものがドメスティックになってしまって、海外の事情とのリンクが薄いせいでもある

  4. 私からすると、これでも抑えたつもり

  5. まあ、私も過激なこと平気でつぶやくけどね。でも、単に議論上の思考実験として過激なことをいうだけで、価値的な正しさにはあまり興味がない。だから、日本にはやたらと学者が多い倫理学にはあまり興味が持てない。なんで日本の分析哲学の人には倫理学の人が多いのか?不可解。日本にももっとゴリゴリの分析哲学者ふえてくれよ

  6. ジェロームブルーナーの名前を出したのは、ここでは始めてじゃないかな。私にとって、ブルーナーは(波多野誼余夫と共に)学生時代からの知的なヒーローだったんだけどね。こんなこと書いても誰にも共感されないからずっと書かないでいた。今の私にはそんなに知的ヒーローはいないけど、海外の若手の面白い研究者(2010年台のトップ3論文で挙げた人)を知っているので、そんなに不快ではない

科学において理論は再現性問題に貢献できるのか?

同じような実験結果が再現できるか?を問う再現性問題を論ずる心理学者は日本でも増えてきて、私もよくそれらを興味深く読むことがある。

ただ、心理学者の語る再現性問題を読んでいて時々気になるのが、心理学は理論を発展させれば再現性問題は解けるかのような言説を何度も見かけたことだ。残念ながら、この言説は少なくともそのままの形では正しくない。遠回りすれば、理論の発展は再現性問題に貢献できるかもしれないが、それをきちんと論じているのを見たことがない。

本当は、私のオリジナルな話はあまりここに書きたくない。一応、英語の関連文献もある程度読んでみたが、直接にこれを論じてるのはなかなか見かけなかった1。私が考える理論の発展と再現性問題の関係は比較的に論理的にシンプルに語ることができるので、それを直接に書いてしまおうと思った。

理論の発展は再現性問題に直接には貢献しない

再現性問題とは、ある仮説を検証する実験の結果を再現できない問題である2

仮説検証についての哲学的な議論はしだすと切りがないので、ここではシンプルに、ある仮説が正しいなら、それを検証する同じような実験は同じような結果を出す…という単純な帰納的な関係を想定する(経験的一般化)。

それでは、そもそも科学における理論とは何なのだろう。もし理論が検証と無関係なら、科学に限らずそのような理論はいくらでもある。それなら、オカルトだって理論を持ちうる。現在の科学は(必ずしも還元主義を伴わない)方法的自然主義が基調にある。もっともらしい説明を生み出すだけの理論は科学的な理論ではない。

ここでは、再現性問題の視点から理論を定義する。理論とは、検証可能な複数の仮説を一貫した形で生み出す整合的な装置である。できれば、理論の整合性は数理によって成り立っていればより適切である。ここでは仮説を生み出す形で理論を定義したが、逆に複数の仮説を整合的に結びつけた一かたまりが理論であるとしても同じである。

〈理論->仮説->実験〉の流れを見たときに、理論は検証すべき仮説を生み出すだけで、再現されるべき実験とは直接の関係はない。その仮説がどの理論から導かれたのか?は、その仮説の実験的な再現性とは独立である。逆に、〈実験->仮説->理論〉の流れで見たとき、ある仮説は任意の理論に組み込めるので、たとえその仮説が再現可能な実験に基づいていても、その仮説と結びつくどの理論が正しいのか?は明らかではない。この場合、理論はどの仮説の組み合わせなら許されるか?は導けるが、それぞれの仮説の再現性はそれとは別の問題だ。

理論はどのように再現性問題に貢献できるか?

理論と再現性の間の論理的な関係は既に述べた。しかし、実のところ理論の発展が再現性に結びつかない例は簡単に挙げられる。それは精神分析だ。精神分析は理論的に高度に発展したが、今となってはそれは科学的な検証によって再現できることは疑われている。精神分析を未だに信じているのは、科学に疎い人たちばかりなのが現状だ。

それでは、理論は再現性問題に全く貢献しないのか?確かに直接的な貢献ができるとはとても言えそうにないが、間接的な貢献は可能だ。

再現性問題の根底には、どんな荒唐無稽な仮説でも有意な結果が出れば、研究として認められないといけない…という前提があった。この前提のせいで、無理矢理に有意差を出した研究が放置され続けたとも言える。

しかし逆に、超能力のような常識に反する仮説は検証されるに値しないとする考え方は、検証すべき仮説を勝手に狭めているだけなので、これも許されるべきではない3常識も素朴な理論(の生み出す仮説)の一種であり、それ自体が検証されるべき対象である

ここで重要なのは、理論は再現可能性に直接に関係しているのではなく、理論は検証されるべき仮説を選び出す装置でしかないことだ。つまり、科学における仮説は山のようにあって、その全ての再現可能性を調べることは現実的に不可能だ4大量にある仮説の中から、そもそもの再現可能性を調べるに値する仮説に研究者を注目させるのが理論の役割である

結論

(科学における)理論とは、整合的に関連付けられた複数の仮説の集まりであるので、理論は個々の仮説の検証の再現性と直接には結びついていない。ただし、理論は再現性を調べるべき仮説に目を向けやすくする点で、再現性問題に間接的に貢献できる。


  1. 見つけた数少ない例外が、google:Klaus Oberauer & Stephan Lewandowsky Addressing the theory crisis in psychology だ。これから論ずる議論の基本的な図式(理論と仮説の関係)はこの論文と似ている。ただし、それでも私が元々考えていたのとはズレがあるので、この記事の本文では直接にはこの論文を参照していない。

  2. ここでは実験だけを例にして論じるが、これは簡単にアンケート的な調査にも拡張できる。ちなみにここでは詳しく論じないが、質的研究で再現性問題を解決できるかのように語る人もたまにいるが、これも端的に間違っている。質的調査はそもそも再現性を目的にしてないので、再現性問題に特別な貢献はしない。もしそれが再現性そのものがいらないという主張だとしたら、そもそも問題を正しく理解してない。量的研究と質的研究は補完関係にある(相手にできないことが自分にはできる)のであって、どちらか一方が正しい訳ではない。

  3. 全ての命題は疑われうるとするのは、クワインやセラーズ以降の現代的な全体論の基本的な考え方でもある。ただし、これが単なる相対主義にならないのは、全ての命題を同時に疑うことはできないとする保守主義とセットだからだ。懐疑主義保守主義の間でどうバランスとるのか?が、基礎付け主義批判を経た現代の課題だ

  4. 哲学的には、帰納問題によって再現性を完全に調べることはそもそも不可能だが、それは脇に置く。ここでは帰納ではなくて、ありうる仮説の膨大な数に注目して不可能性を導いている。