書評 ケイレブ・エヴェレット「数の発明」

数の発明――私たちは数をつくり、数につくられた

人の数的な認識を、(特に認知科学的な成果を中心に)様々な学問的な成果を紹介しながら考察していく、一般向けの読みやすい科学書。父親がピダハン論争で有名なダニエル・エヴェレットである、その息子ケイレブが著者。心ヘの文化の影響を重視するのはさすが親子で似ているだが、本の内容は慎重にバランスがとれている

人が物を数える能力を軸にして、(認知科学を中心に)幅広い視点から、分かりやすく科学的成果が丸々一冊の本にまとめられている。全体的に読みやすく書かれているが、特に心理学や人類学の成果を中心に解説する第二部から第三部前半にかけては出色の出来

あえて欠点を探すなら、少ないながらも部分によっては必ずしも読みやすくないところもあることだ。大風呂敷な話も個人的には読みにくかったが、図や写真をつけて説明すればもっと分かりやすかったのでは?と思わせる箇所もあった。この本全体に図や写真がほぼないので、ないものねだりかもしれない

ここ近年に出た日本語で読める一般向けの科学書としては、トップクラスでお薦め


この本がお薦めなのは、既に当たり前の前提として、あとは私が感じたことを書き連ねよう

父親ダニエルの生成文法批判について

私が始めにこの本を知ったときは、著者の父親があのピダハン研究による生成文法批判で有名な人…だと分かって心配してた。つまり、生成文法批判が強い論争的な著作ではないか?と懸念してた。だが、読んだらその心配は完全に払拭された。それどころか、こんなにバランスの取れたフェアに書かれた本は珍しい

父親ダニエルの(主流の)生成文法批判は、理論の核となる再帰性への批判として知られている。つまり、ピダハン語には再帰性がない!と主張された。これについては、ピダハン語には埋め込み(embedding)はないが、埋め込みは再帰性(recursion)の一種であるとはいえ、それが再帰性の全てではない…という言語学者の批判がもっともだと思う。そもそもピダハン語以前から埋め込みのない言語は知られていたとも指摘され、ダニエルの生成文法批判は完敗だな…が私の印象1

それを意識してか?は分からないが、息子の書いたこの本では、正面からの生成文法の話題は避けられている(注で軽く触れるだけ)。代わりに、言語の多様性を指摘することでこの共通性を弱める…という巧みな書かれ方がされている

認知言語学と心への文化の影響

父親ダニエルは、生成文法批判の後に、今度は認知言語学に接近し、(特に言語への)文化の影響を強調し始めた。息子はこの部分を受け継ぎ、この著作ではその側面があちこちで展開されている。例えば、過去や未来をどう手振りで表すか?には、文化によって多様性があることが指摘されている。これなど、まさに認知言語学的な成果だ

しかし興味深いことに、この著作は必ずしも認知言語学ベッタリに書かれていない。レイコフ的な数学観にサラッと触れて、安易だと否定されている。これは注だが、構文の重要性に言及した上でラテン語のような語順の自由な言語の存在に触れている。これなど、もし読者が構文文法を知っていれば、さり気なくその文法理論としての普遍性を否定してるようにも読める

こうした微妙な距離のせいか?は分からないが、この著作では認知言語学への直接の言及はない。著者が認知言語学を全く知らないとはとても思えないが、言語理論には一切踏み込まないことでバランスをとってるようにも見える

再現性問題への早めの対応

ここまでは、この本のバランス感覚の話だが、さらに再現性問題的な方向にもそれなりに対処した書かれ方がされている。この本の原本が出版されたのが2017年なことを考慮すると、ここ近年は出版されて何年かで再現性問題に直面してしまって問題視される著作さえある中、かなり早い対処となっている

と言っても、この著作での再現性問題は直接的な対応というより、もっと巧みな対処がなされている。作者にとって有利な対応としては、WEIRD問題への言及がある。これは心理学実験が西洋の豊かな人を対象に行われがちな問題だ。つまり、同じ実験が他文化では再現できないことであり、心への文化の影響を重視する作者にとっては、むしろ好都合な指摘となる

もう一つの対処は、以前の(主に実験)研究の欠点を指摘して、この欠点を直して改良された新たな研究をする…というサイクルを描くことだ。こうした研究のサイクルは私のような認知科学好きにはお馴染みで、認知科学的な研究の醍醐味でもある。この著作でも、そうした研究改良サイクルは描かれている。ピアジェの数量保存課題への批判とその改良実験は認知科学では比較的知られているが、それにも触れられている。研究改良のサイクルは元から書くに値する話題だが、結果として再現性問題への対処にもなっている


  1. ただし、これは主流の生成文法に問題がないことを意味するのではない。例えば、主流の生成文法では移動が必須であることへの批判がある。これはこの書評であとで触れる語順の自由な言語と関わりがある。ここでは個々の文法理論の是非についてはこれ以上は踏み込みません。私自身は文法理論についてそこまで詳しくはないので、ちゃんと知りたい人は自分で調べて下さい

書評「この本を盗む者は」

  • 当初はアマゾン向けのレビューとして書いたが、長い上に内容がこれなのでこっちに掲載に変更

この本を盗む者は

深緑野分のアイデアは素晴らしいけれど、それが小説としては十分に活かされていない勿体無い作品

「ベルリンは晴れているか」で一般に広く知られるようになった深緑野分が、その次に出した新作。ある街に巨大書庫を作った一族の子孫である主人公の少女が、その書庫から本を盗むと発動される防犯装置を巡る不思議な事件に巻き込まれる物語

この作品は既に多くの人に褒められてるので、そこは最小限に。才能のある作家である深緑野分の優れたアイデアと文章が活かされた小説であり、そこは否定しない。ただ、ちょっとばかり褒められすぎ感が私には拭えない

この作品への不満点

この小説は、小説の中で別の小説のテキストを引用するような、フィクション内フィクション(やメタフィクション)の技法が活かされた、セルバンテスからイタノ・カルヴィーノに続く系譜を感じさせる。そこはさすが本好きの作者だが、その視点から見ると中途半端感がなくもない

一番困ったのは、小説内の小説のテキストによるパスティーシュとも呼べるジャンル模倣の出来が章によって差があることだ。例えば、固ゆで玉子の章のテキストより寂しい街の章のテキストの方がよっぽどハードボイルドっぽいことだ。この時点でテキストのジャンル模倣がうまくいっていない

もう一つは蒸気の章で、あえてジャンル名をつけるならスチームパンクかもしれないが、もちろんそんなジャンルの小説はあまり一般的ではない。模倣先のジャンルがないといけない…とは思わないが、それまでの章がマジックリアリズムにハードボイルドと小説読みにはお馴染みのジャンルの模倣だったので、一貫性が突然になくなるのは少し違和感がある

文体のジャンル模倣がいまいちうまくいってないことで、小説読み的なテキストへの愛がうまく表現されてないことにつながり、この小説の「本についての本」という側面があまり活きてない結果になっている。しかし、本当に違和感が最大になるのは、これらの小説のテキストの作者が明らかになったときだ

ネタバレしないように最小限だけ書くと、これらの小説内小説を書いた作者は実は本を読まない人物だとされる。本を読まない人が物語を書くことはあっても、マジックリアリズムやハードボイルドのような高度なジャンル的な模倣をするのはいくらなんでも不自然。この設定は色んな意味で萎えた

最後にはメタフィクション的な要素も出てくるのだが、既にテキスト的な技法が物語の中でうまく活かせてないのが分かっているので、全くのれない。この作者は本好きの小説読みのはずではないのか?

メディアに注目して作品を読む

この作品を読んで思ったのは、深緑野分は本当は小説好きというより物語好きなのかもしれない…という疑惑だ。だが、それは私がそれまで読んできた深緑野分の作品から感じた印象とは違う。もし作者がむしろ物語好きなら、長大なファンタジーを素直に書く方が欲求を満たせるはずだ。にしては、この作品の構想は凝りすぎてる

この作品を読んで感じた最大の感想は、深緑野分という作者が本当は小説好きなのか?物語好きなのか?分からなくなったことだ。もちろん、小説好きと物語好きは両立しうるが、その場合は書く作品はもっとシンプルなエンターテインメントになりそうだが、深緑野分はそうではない

小説好きはテキストというメディアをめでるが、物語好きはテキストであれ映像であれメディアに依存せずに物語をめでる。映画好きも映像そのものをめでる点で、小説好きと同じくメディアそのものを愛する

メディアへの態度の違いは私にとっては重要であり、深緑野分がどっちなのか?私は個人的には知りたい

どの研究成果に再現性がないのか?なんてよく分からんわ

心理学で実験的な研究が再現できない問題が話題になってから何年も経つ。私は現在の事情は把握しきれてないが、どうも教科書をかなり書き換えないといけない?と思わせるほどの、激しい動きになってるようだ1。最近草稿が出た再現性問題を扱った論文は、こんな書き出しで始まっている。

The 2010s were considered psychology’s decade of “crisis” (Giner-Sorolla, 2019;Hughes, 2018), “revolution” (Spellman, 2015; Vazire, 2018), or “renaissance” (Nelson et al., 2018) depending on one’s perspective.

2010年代は、人によっては「危機」とか「革命」とか「ルネサンス」とも称される、心理学の十年となった。

"Replicability, Robustness, and Reproducibility in Psychological Science"p.4より

革命とかルネサンスと呼ばれるには、心理学の先が明るいとは必ずしも言えない気がするが、言いたいことはなんとなく分かる。

それにしても、こうした再現性危機のせいで、いささかこのブログの記事も書きにくい2。最近もツイッターで、ある心理学研究が再現性がないのにある企業で採用されてるのに怒っているツイートを見た。私も事情を知らなかったのでそれを見て驚いた。だが、日本の有名な心理学雑誌のサイトでもその研究が紹介されてるのにも怒っていたので、必ずしも私が無知という訳でもないらしい。

追試が失敗した研究でも引用され続けてる

次に引用する最近の論文は、心理学だけでなく経済学やNature/Scienceも含めた学術誌に載った研究の再現性を確かめた追試がされた成果について調べた論文だ。

RESULTS Nonreplicable publications are cited more even after the replication study is published

結果 再現性を調べた研究が出版された後でも、再現性のない研究は多く引用され続けている

Marta Serra-Garcia and Uri Gneezy "Nonreplicable publications are cited more than replicable ones"p.1of7より

具体的な内容は論文を読んでもらうとして、再現性のない研究が参照され続けるのは、別に日本だけの問題でもないのだ。ちなみに、否定的な引用のせいで引用数が増えてるのではないことは、この論文の中で触れられている。

再現性のない論文が引用され続ける理由

Why are papers that failed to replicate cited more? A possible answer is that the review team may face a trade-off. Although they expect some results to be less robust than others, as shown in the predictions of experts, they are willing to accept this lower expected reliability of the results in some cases. As a result, when the paper is more interesting, the review team may apply lower standards regarding its reproducibility.

なぜ再現性に失敗した論文が引用され続けるのか?ありそうな答えは、レビュアーたちが取引すべき交換条件に面している可能性だ。レビュアーは(専門家の予測に見られるように)他の研究よりも確かでない結果だと思ってるにしても、レビュアーは時には確かさが低いと思われる結果でも受け入れようとすることがある。つまり、その論文が他より興味深くて面白いのなら、レビュアーは再現性について低い基準を採用することもあるのだ。

Marta Serra-Garcia and Uri Gneezy "Nonreplicable publications are cited more than replicable ones"p.4of7より

まぁ、確かだけどつまらない研究と不確実だけど面白い研究があったら、面白い方を取りたくなる気持ちは分からなくもない。

ただし、採用そのものでなく引用を調べてるのだから、レビュアーの心性でなく著者の心性を見るべきでは?という突っ込みはしたくなる。レビュアーが引用先の確かさをわざわざ確認してる…とはあまり思えない。むしろ、単に著者が追試の存在を知らないだけの可能性も高い気がする。

フェイクニュースについての研究でも、フェイクニュースそのものの広がりやすさに比べて、訂正記事はなかなか読まれないという成果を聞いたことがある。これはフェイクニュースの面白さ(訂正記事のつまらなさ)に由来するのだろうが、おそらく学術的な研究でも似たことは起こりやすいのだと思う。そうした辺りを調べるメタサイエンス(科学についての科学)…みたいのが本格的に必要とされてるのかもしれない。

  • 追記(2021/06/10) ここで取り上げた論文の紹介がされてます

  1. 最近は、(特に社会心理学の)古典的研究までかなり疑われるようになっている。ただ、例えば疑われているスタンフォード監獄実験なんてそもそもの再現自体が不可能だったのだから、単なる再現性問題の域を既に超えている。もとから心理学には神話が多かった(例えば狼に育てられた少年)のに、それが更に厳しく刈り取られることになりそうだ。私は心理学の目的そのものを書き換えた方がいいと思うが、その話は別の機会にする

  2. とはいえ、もともとこのブログは実験や調査を行なったオリジナル論文を紹介することはあまりない。現実には、私自身はレビュー論文を読むことの方が明らかに多い。その理由は簡単で、オリジナル論文を読んでもその領域の知識がないと内容を評価できない、と思ってるからだ。例えば支持政党が違うと脳の働きが違う…みたいな論文を読まされてそれをどう評価しろと?これは00年代にありがちだった極端な例だが、どっちみち単独の研究を簡単に一般化できる訳ない…とは個人的には前から思っていた。なので、再現性問題は私には比較的に受け入れやすかったのだが、それがここまで大ごとになるとは流石に思っていなかった。