書評 クライヴ・ウィン「イヌは愛である」

イヌは愛である 「最良の友」の科学

犬の心について人との接触で育まれる愛情の視点から様々な科学的な研究から論じた著作、興味深い部分はあるが全体としてのまとまりは悪め

犬は人との触れ合いによって愛情を育んで社会的能力を発揮することを、様々な科学的な成果から論じていく作品。著者の本来の専門である動物心理学から論じた最初の数章は出来が良いが、より広い分野の研究に触れる残りの章は、テーマには沿っているがまとまりには欠ける

解説を書いてる人は、本書で紹介される実験をした研究者であるが、あくまで専門は生理学寄りでこの本の著者の専門の動物心理学とはズレる。そのせいで、解説というより本体とは独立した補足に近い。だいたい解説では著者の専門を犬の認知科学だとしてるが、本書を読んでいても認知科学っぽい話はあまり出てこない。ただしそう勘違いした理由は分かる。それは第一章でされる犬の社会的能力に関する論争に関係している

犬の家畜化を巡る論争

第一章は本書の中でもっともよくまとまりのある内容で、犬は家畜化によって進化的に人と接するための社会的能力を手に入れたとする説に対して、著者が反対する立場が説明されている。この家畜化説を主張する代表的な研究者がヘアである。私はヘアがトマセロと共著で書いた論文は知っていて、家畜化説が21世紀になってからの動物心理学を引っ張ったと思っていた

ここで皮肉なのが、犬の人との社会的能力の生得説をとるヘアに対して、人と接する経験を重視する著者という構図だ。これは、言語能力についてチョムスキーの生得説に反対するトマセロという構図と似ている。しかし、ヘアがトマセロの元から出た学者だと考えると、その構図が対照的なのに気づく

この辺りの事情から、著者が認知科学に関係してる…と思うのは分からなくもない。とはいえ、他でされてる愛着の研究を始め、本書で紹介される研究のほとんどは認知科学とは方向性が違う。いやそれどころか、どうも著者は認知科学についてあまりよく知らない印象が拭えない

著書の描く全体的な構図の一貫性のなさ

著者の描く構図には多少の混乱もあるが、基本的に著者が反対するのは能力が始めから身に付いてるとする生得説と、感情のない条件づけされる機械であるとする行動主義である。犬の訓練では長らく条件づけトレーニングが当たり前だったことを考えると、行動主義の影響は馬鹿にできない。しかし、特に本書で紹介される餌を与えられるより人に撫でられる方がその人に馴染みやすいとする研究は動物機械観には反してるようで印象的である

犬を人と接して生まれる愛情の視点から眺めるのは一貫してるが、本書全体ではその論じ方には問題がなくもない。例えば、あるところで感情の構成説で有名なリサ・バレットを参照しながら、別の箇所では犬の表情を分類する研究を当たり前に紹介してたりして、これ一貫性あるの?と疑問に思ったりした。他にも、犬をエピソードで理解するのは危険だと言っておきながら、(科学的研究でなく)あちこちで犬のエピソードが紹介されてたりと、時々矛盾を感じなくもない

しかし、もっとも疑問に感じるのは著者の行動主義との関係だ。一方で生得説に反対し、他方で行動主義に反対している。感情を否定する行動主義に著者が反対するのもちろんは分かるが、その一方で行動主義には条件づけ的な経験説の側面もある。本書では犬でない動物でも人と接することで社会性が身につくとしてるが、どうも読んでると―それこそ(社会的報酬による)条件づけで説明できるのでは?と疑問に感じる。条件づけで説明できることにわざわざ他の要因を持ち出す必要はない

犬を愛によって捉えよう!とする著者の方針は分かるのだが、それを理解するための枠組みはそれほど整理されていない。そのために、部分的には興味深いことが書いてあっても、全体としてはまとまりがない。そのせいで、決してつまらなくはないにしても素直にはお勧めしにくい本になってしまってる

まとめ

本のタイトルは原題通りだが、どっちにせよ意味が分かりにくい。翻訳の副題は原題とちょっとニュアンスが違う。翻訳の副題の「最良の友」だと、人にとっての友である犬を思わせる。原題の副題は「なぜどう飼い犬はあなたを愛するか?」となっており、犬を主語に置いた元の副題こそが本書の内容をもっとも表すものとなっている

この著書でないと読めない独自の内容もあり、読んで損することは必ずしもない。しかし、学者の書いた一般向け科学書によくあるように、著書自身の行なった研究の描写がもっとも活き活きしてて、著書の専門内の説明はまだ分かりやすいが、それを超えると読みにくくなる…という事態はよくある。これもその典型に入れざるをえない

犬や心の科学に関心があるなら、試しに読んでみてもいいかもしれない。うまくハマれば面白いと感じるかもしれない…ただし私自身は部分的な面白さ以上の保証はしません

イヌは愛である 「最良の友」の科学

補足

この著作では、野良犬を集めた施設のシェルター犬をどう助けるか?は、著者が強い関心を持つもう一つの主題である。シェルター犬が人に馴染めるか?は引き取り手を探す上で重要である。本の中にシェルター犬の話はかなり出てくるが、書評の本文では流れ上で触れられなかった。その方面に興味があるなら、この本はもっと薦められるかもしれない

それから、著者の立場上で仕方ないかもしれないが、本書では家畜化の説明が少ない。解説ではそこを補って、家畜化の解説もされてる。なので解説はむしろ補足の側面が強い。犬については家畜化説が主流であるがゆえに、それに対抗するこの著作の立場は異色だ。その割に家畜化説を十分に論駁してるとも言い難い。この辺りの事情もこの本を素直にはお勧めしにくい理由かもしれない

後は完全に個人的な見解

犬の心理学実験をした成果から家畜化論が導かれたと考えると、シェルター犬をも対象にする著者の考え方は、WEIRD問題(心理学実験の被験者が豊かな西洋人に偏ってる問題)とも似ている

心理学実験の対象が人に飼われた豊かな犬に偏っているせいで、犬の人との社会的能力が過大視されてる可能性はある。そういえば、双子研究でも参加者が豊かな側に偏ってるのでは?という批判は聞いたことがある。被験者(被験犬?)が豊かな側に偏ることで、経験の持つ役割が過小評価されがちな可能性がある。経験される環境の差が小さければ、その分だけ相対的に生得性が高めに出るのはある意味で当たり前だ

書評 グレゴリー・バーンズ「イヌは何を考えているか」

イヌは何を考えているか 脳科学が明らかにする動物の気持ち

動物の神経科学について著者自身の研究エピソードを混じえながら語る科学エッセイ

動物の脳を研究する著者が、自身の研究の具体的なエピソードを混じえながら、動物の心について科学的に語る著作。動物の心についての科学書として質が高いのに、内容はエッセイ的で読みやすい稀有な作品。著者の経験や見解が反映された現在進行形の科学が描かれており読みやすい。お薦め

犬を生きたまま調べる脳イメージング研究やアシカやイルカの脳や既に絶滅したタスマニアンタイガーの残された脳をスキャンしたりと、著者自身が行なった動物の脳の研究について、成果の説明だけでなく、その研究する過程やきっかけと共に描かれている。その点では、単なる科学書というより科学エッセイに近く、活き活きした文章になっている

最後の章では動物倫理にも触れられているが、そこで分かるように著者は脳の研究を通して動物の心を生きたものとして理解したいと思っている。それはこの著者全体に反映している。著者の基本的な専門は動物の脳イメージング研究であり、生きた動物の脳を調べようとする意欲に溢れているのが読んでいて分かる。絶滅した動物の脳を解剖学的に調べている章でさえ、動物の生きた姿を想像しようとする努力が文章に表れている

全体的に文句のない出来であるが、少しだけだが著者の専門外のところでおかしなところがある。例えば、クオリアの話題では広い(一般的)意味と狭い(哲学的)意味が混じっているので、知識のある側から見るとなんの参考にもならない。三章で説明されてる心の科学の歴史的な概論も、大雑把には間違ってないと思うが、「脳が行動のためにある」のが後から分かったかのような誤解される書き方がされてる(始めからそれを否定する人はあまりいない)のが問題と感じた。とはいえ、この辺りは勘違いしてる学者はよくいるし、軽く触れられてる程度の記述なので目くじら立てるほどではないかな?とは思う

この作品は、概論的な説明になりがちなよくある一般向け科学書と違って、著者自身の研究経験に基づいて書かれている部分が多い。その上に文章力が高いので、科学的内容にも関わらず文学的なエッセイを読んでる気分にもなる。特に動物の主観や過去の描写が少し混じるタスマニアタイガーの章は、ある種の文学作品を読んでるかにも感じた

科学的な内容はレベルが高く、文章も読みやすくて魅力的なのに、なんでこの作品は高い評価を聞かないのか?私には全く分からない。脳研究を介して動物の心についてこんなに活き活きと語る著作なんて他にあるのだろうか?私としては、これはもっと広く読まれてほしい

イヌは何を考えているか 脳科学が明らかにする動物の気持ち


私は最近になってこの本を読んだが、出版されたのは一年ぐらい前である。こんなに面白い本なのに出版当時には話題に聞かなかったなぁ…と思ってネットで評判を調べたが、どうもうまくこの著作の魅力が伝わっていないと感じた。

ネットのレビューを見ると、「イヌは何を考えているか」 のタイトルで、それが分からないことに怒ってる人もいるが、それは見当外れ。そんなの分かる訳ない!と突っ込むまでもなく、そもそも原題と違う。原題はトマス・ナーゲルの有名な哲学エッセイ「コウモリであるのはどんなことか?」を、コウモリを犬に変えてもじったもの。動物の脳を研究すれば、動物の心がどんなものかは分かる!という著者の主張が反映されている。だいたい副題を見れば、動物の脳科学の本だと分かるはずなのに、世の中にはそんなことで怒る人が増えたのだなぁ〜と思わざるを得ない

私自身は読み終えてこの作品は読みやすいので誰でも理解できると思っていた。だが、ネットのレビューを見ていて感じたのは、どうもこの作品の面白さは心の科学についてその大変さや地道さを知らないと実は分かりにくいのでは?と思うようになってきた

脳イメージングの色とりどりの画像を見せられただけで科学的だと思いこんでしまう人は今でも多い。そういうカラフルな脳画像は脳イメージングがブームだった2000年代の段階で、既にクリスマスツリーと揶揄されていた。脳画像を見るだけで何を考えているか分かる…と勘違いしてる人もいるのかもしれない。この著作を読むと、認知神経科学はそういう安易なものじゃないと分かるはずだ

科学が単なる完成された知識ではなく、常に進行形である活動中の科学こそが知られてほしい。その点でも、この作品はおすすめ

正統派の進化心理学を知れる最近でた日本語の論文をお薦めする

私にとって進化心理学とは〜1990年代に勃興し、2000年代に広く流行り、2010年代になると批判が出てきて分野として落ち着く〜という経過をたどった学問分野で、今でも興味はなくはないか今さら論争するほどではない…と思っている。だが、これは欧米での事情であって、日本ではそうではなかったことは早くから分かってはいた

最近になって、日本で進化心理学についての論争をネットで目にすることがあって、正直な感想は「いまさら」だが、同時に相変わらず進化心理学の定義が曖昧なままに話が進むことにあきれる。とはいえ、これは日本の論者が特にひどいのではなく、当の欧米でも流行り時には(学者も含めて)進化心理学の意味合いが曖昧に広がっていた事情もあるので、仕方がない部分もある

意味合いが曖昧に広がりがちな進化心理学という言葉

これから、源となるトゥービー&コスミデスの伝統を受け継いだ正統派の進化心理学を知れる日本語の論文を紹介するが、その前によくある勘違いを確認しておく

進化心理学を心への進化論的アプローチそのものと同一視する人がたまにいるがこれは間違っている進化心理学は心への進化論的アプローチを広めるのに重要な役割を果たしたのは確かだが、これらは同じではない。心への進化論アプローチをする学者の全てが進化心理学に賛同してる訳ではない(例えばトマセロ)。

それから、文化進化を進化心理学の一種としたり、社会環境への適応をも進化心理学と呼んだりする学者もいる1。ただそれだと、文化を受け継ぐ学習が進化心理学に含まれてしまう。これでは、進化心理学の勃興時に起こった相対主義構築主義への批判とぶつかってしまう。たとえ文化進化のselection(淘汰)の側面とのアナロジーに注目しても、後で触れる行動生態学進化心理学の違いを無視してる点で問題がある

進化心理学の定義が勝手に曖昧に広がっているのは、議論する上で不都合が多いと個人的にはしょっちゅう思う。そこで、ここではトゥービー&コスミデスを受け継いだ正統派の進化心理学について、ここ最近出された日本語の論文を紹介しながら確認してみたい2

小田亮『「おせっかいなサル」の行動進化学』

まず始めに紹介するのは、小田亮『「おせっかいなサル」の行動進化学』です。これは講演を元にした読みやすい論文なので、ネットですぐ手に入るので直接に読むのをお勧めします。ここでは、この論文から進化心理学について説明してる前半だけに触れます。後半は利他性の研究について論じていて面白いので、こちらについては是非じかに論文を読んでください

この論文の何が優れているか?というと、ともかく進化心理学についての説明が的確で分かりやすいことだ。しかも、その説明される進化心理学がトゥービー&コスミデスを受け継いだ正統派のものであることが素晴らしい。残念ながら、進化心理学を研究してるはずの学者でも必ずしも正統派の方の説明をしてくれる訳ではない

進化心理学が心を進化から説明しようとする分野であることは前提として、その特徴がどこにあるか?の論文での説明を箇条書きしてみます

この違いに注目した著者は目の付け所が素晴らしいと思う。ちなみに行動生態学とは、社会生物学と呼ばれていた研究領域とかなり重なると思っていいと思う

この2つは何が違うかというと,非常に簡単に言ってしまうと,人間行動生態学では子どもの数を数えます。一方,進化心理学では子どもの数を数えません
小田亮「おせっかいなサル」の行動進化学 p.104より

ただし、リバースエンジニアリング認知科学から特徴を受け継いでいる。進化心理学は、子供の数を数えない代わりにリバースエンジニアリングをする、と考えればいい

  • 人の心が進化的に適応した環境を過去に設定する

つまり、人の心の進化的な適応は現在の環境への適応ではない。これは進化のタイムスパンを考えれば、そんなに奇妙な主張ではない

人の心が適応してきた環境のことを「進化的適応環境」というふうに言ったりしますけど,進化的適応環境というのは恐らく,現代とは違う
小田亮「おせっかいなサル」の行動進化学 p.105より

特に、行動生態学との違いと適応環境の設定とは進化心理学が登場した当時を理解する上では重要だ。それまで人の心を進化論的に説明しようとした社会生物学(行動生態学)が叩かれがちだったのに代わって、人の心をより適切に科学的に研究できる分野として進化心理学が出てきたことを反映してる3。どのように人の心を科学的に研究するようになったのか?を論じているのが、次に紹介する論文だ

小林佳世子「4枚カード問題からわかること―裏切り者検知・予防措置・利他者検知―」

進化心理学というと一番に有名なのは、心理学実験である4枚カード問題に対する裏切り者検出装置としての解釈であり、これは私も知った時は衝撃を受けた記憶がある4

4枚カード問題をめぐる進化心理学的な研究については、詳しくは紹介した論文を読んでください(ネットですぐ手に入って読みやすいのでお勧め)。以前の実験や仮説の問題を突いて、そこを改良した実験を行なう…という研究改良サイクルが概略的に描かれています。私も裏切り者検出装置のその後の展開についてそれほど詳しくなかったので、とても勉強になった

この論文でも、トゥービー&コスミデスから受け継いだ正統派の進化心理学の特徴に触れられているので、そこだけ箇条書きしておきます

  • 領域特殊なモジュールの集まりなアーミーナイフとしての心

またヒトの心は,適応上重要であった個々の問題の解決に特化したモジュール群から構成されるという,心の領域特殊性(domain specificity)という考え方が近年主張されるようになっている。その中で,4枚カード問題からみえてきたこれらの力は,領域一般的なものというよりは,進化の中で培った個別領域的な推論能力であることを議論してきた
小林佳世子 「4枚カード問題からわかること―裏切り者検知・予防措置・利他者検知―」p.331

論文中ではアーミーナイフには触れられていないが、進化心理学では領域特殊なモジュール5の集まりのことを、アーミーナイフ(個々が特定の役割を果たす道具の集まり)に例えるのはよく知られている。領域特殊とは裏切り者検知のような特定の役割を果たすことであり、何にでも使える一般知能とは対照的とされる


  1. 例えば「それぞれの自然環境や社会環境において適応的に生きていくのに適した行動傾向や心理的特徴が各文化の中で発達し、受け継がれていくという進化心理学的説明について述べている」google:外山みどり 社会心理学における文化研究の成果と課題のp.176より。ただし、文化進化で著名な研究者自身が文化進化を進化心理学の一種であるかのような発言をしているので、仕方のない勘違いとも言える

  2. 他にも、生得性の点で一緒に語られやすい進化心理学と行動遺伝学との違いも気になるが、ここでの話題とはあまり関係ないのでそこには触れない。これは一般化すると、個性(特性)や病気には進化的な適応性はあるのか?の問題となり、これも進化心理学と呼ばれることがある。これが正しいのか?は私にはいまいち確定できない。どっちせよ、本文で説明するのが正統派の進化心理学であり、こっちは良く見積もればそこからの派生としてなら認められるが、下手するとそもそも進化心理学と呼ぶのに無理がある。どっちが妥当か?私にはよく分からない

  3. ただし、行動生態学の子供を数えるという特徴は、淘汰単位が個体であることを意味しない。淘汰単位は遺伝子であるが、その話はこのブログでも前に触れた「社会生物学が還元主義的でないことを進化ゲームから理解する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

  4. 正直いうと、この衝撃に値する成果が進化心理学にどれほどあったか?個人的には疑問を感じなくもない。とはいえ、少なくともここで紹介する4枚カード問題の研究は真の意味で科学的に素晴らしい成果だと思うし、Just-so story(もっともらしいだけのお話)に陥らない進化心理学はこうであるべき!だと思う。私が進化心理学に批判的だとしても、それは証拠に基づかない安易さへの批判であって、この記事に挙げた論文に紹介されてる科学的な進化心理学の研究はむしろ歓迎

  5. ただし、進化心理学のモジュールがフォーダーのいうモジュールと同じとはあまり思えない。例えば、言語能力に進化的な適応性があることを認めたとしても、それが領域特殊だとするのは厳しいところがある。しかも、モジュール論の根拠の一つでもある脳の機能局在性も近年は疑われることがよくあり、現在のモジュール論の位置づけは私にはよく分からない