自由エネルギー原理にとりあえずの見切りをつけるために考えてみた

自由エネルギー原理には前々からしっくり来るところがなかった。私自身は予測符号化について勉強することから始めたので、自由エネルギー原理には後から接したことになる。自分は予測符号化には好意的だ。 しかし、自由エネルギー原理の源には予測符号化があるはずなのに、自分は自由エネルギー原理にはどうも馴染めなかった

自由エネルギー原理は現在流行っている最中で、認知科学オタクの私としては無視しきることはしがたい。とはいえ、予測符号化の拡張としての予測処理には個人的に興味が持てるのだか、自由エネルギー原理と予測処理との関係にははっきりしないところがあって、ずっとモヤモヤが拭えなかった

Daniel Williams "Is the brain an organ for free energy minimisation?"を読む?

そこで見つけたのが、つい最近出たばかりの次の論文 Daniel Williams「脳は自由エネルギー最小化のための器官なのか?」だ

Daniel Williamsは、私が前に2010年代のベスト3論文に選んだ著者の一人でもある。彼のいいところは他の学者が臆して書かないことを率先して書いてしまうことだ。前にベスト3に選んだ論文でも予測処理に群がるenactivismをくさしていたのが爽快だった。この論文もまだ他の学者が臆しがちな自由エネルギー原理への批判的論評をまるまる一本の論文で行なっている

同じく自由エネルギー原理でも、マルコフブランケットの使用を批判した論文は既にこのブログでも紹介したことがあるが、その後も(マルコフ一元論を含めて)同じテーマについての批判的論文が幾つも書かれている。だが、自由エネルギー原理の本丸である自由エネルギー最小化については、なかなか扱われにくかった

Daniel Williamsの論文にざっと目を通した後に、ブログ記事を書いて考えを整理して自由エネルギー原理に対して区切りをつけよう(わざわざ追うのはやめて様子見に移行しよう)とした。そこでこの記事を書くために改めて論文を読み直してみると、納得しがたいところが目につくようになった。論文の内容にそのまま沿って記事を書くのはどうもマズそうになってきた

自由エネルギー原理の基本を確認する

自由エネルギー原理について本気で説明しだすと大変なことになるので、最小限の説明を引用で済まします

自由エネルギー原理(FEP)を巡る現在の関心と論争の多くは、二つの特徴的な主張から起こっている:(1)それ(FEP)は自己組織化するシステムが存在する可能性の条件を定める、つまり「自由エネルギーを最小化しない自己組織化するシステムは存在できない」。(2)そこ(FEP)には、どのように脳が働くかを我々が理解するための重要な含意があり、「脳の統一理論」(Friston)や「認知科学と生物学のための大統一原理」(Hohwy)が提示されている
Daniel Williams "Is the brain an organ for free energy minimisation?" p.2より

ここで扱うのは主に一つ目の自己組織化システムの主張であり、二つ目の統一理論の主張はせいぜい副次的にしか問題としない。

次に、ここで大きな問題となるのが、自由エネルギー原理と予測処理論との関係だ。これについては以下の引用が参考になる

生物学的なシステムの適応的行動についての自由エネルギー手法(FEA)の見方には、驚き最小化が予測処理論で示されるような階層的モデルによって実行されるべきと要求する何かがあるわけではない…と気づく価値はある。とはいえ、他の予測処理論の文献では自由エネルギー手法と予測処理論の間にはきっちりした関連があるとする論者がいる…と分かっておくのも重要だ
María Jimena Clavel Vázquez "A match made in heaven: predictive approaches to (an unorthodox) sensorimotor enactivism" p.664の注13より

自由エネルギー原理と予測処理論は安易に一緒に語られがちだが、その関係は必ずしも明確なわけではない。上の引用で指摘されていることは、各種の数理モデルを比較した論文からの次の引用が明示している通りだ

自由エネルギー原理(FEP)は正確には何を予測し何を予測しないのか?この話題について語るのは易しくない、なぜなら自由エネルギー原理の適用の基盤に横たわる仮定は従順に変わりうるからだ(異なる適用によって異なる生成モデルや異なるアルゴリズム的な近似や異なる神経的な実装となる)
Samuel J. Gershman "What does the free energy principle tell us about the brain?" p.1

自由エネルギー原理と予測処理論に直接のつながりがある訳ではないことを、Daniel Williamsは「予測処理への高架道はない」("There is no high road to predictive processing")と表現している。Daniel Williamsはそれを示すために、自由エネルギー原理(FEP)を説明的FEPと記述的FEPの二つの可能な解釈に分けて説明している

自由エネルギー原理についての超越論的議論

実はDaniel Williamsの論文は、ここからが肝であると同時に罠だらけでもある。説明的FEPと記述的FEPについて議論する上で、超越論的議論(transcendental argument)にかなり頼ることになる。だが困ったことに、論文中に超越論的議論についてはあまり説明されていない

超越論的議論とは、カントを源としストローソンやストラウドが定式化した議論であり、ある物事が成立するための条件(前提)を問う形の議論だ。ものすごく単純化した分かりやすい例を挙げると…なぜ私達は因果を理解できるのか?それは私達には因果を理解できる能力があるからだ…となる1

では、自由エネルギー原理についての超越論的議論とはどんなものだろうか?

つまり、生きたシステムは驚きを最小化するはずだという主張は、自由エネルギー原理(FEP)そのものと置き換えられる。「非均衡安定状態を達成する全ての『もの』は、基礎的なベイズ推論(要するに自由エネルギー最小化)を成し遂げるかのように説明できる」
Daniel Williams "Is the brain an organ for free energy minimisation?" p.6より

要するに、自由エネルギー原理を前提にすると生きたシステムを上手く理解できます…ということだ。この超越論的議論を軸にして説明的FEPと記述的FEPについて論ずることになる

説明的FEPと記述的FEPを論ずる

説明的FEPと記述的FEPの違いは、自由エネルギー原理をどう解釈するか?にある。簡単に説明すると、自由エネルギー原理がメカニズムを表しているとするのが説明的FEPであり、自由エネルギー原理は説明ではなく現象の再記述だとするのが記述的FEP

ただ問題は、ここからのDaniel Williamsの説明的FEPと記述的FEPついての議論は興味深いが納得しがたい微妙さもあることだ。なので、ここからは私自身の見解を大きく交えることとなる

説明的FEPを吟味する

説明的FEPについては、超越論的議論を持ち出して話がややこしくはなっている。簡単に言えば、自由エネルギー原理はメカニズムを特定しないので説明的FEPには問題があるとなっているだけだ2。どうもDaniel Williamsの議論に切れを感じれない

個人的には、自由エネルギー原理はもともと予測符号化を源にしてるが、予測符号化以外のメカニズムも含みうるのにそれが特定化されていない…という状況が奇妙でしかない。私からすると説明的FEPは間違っているというより、正しいメカニズムがまだ分かってないのに、自由エネルギー原理が前もってメカニズムに限定を与えてるのが余計なお世話にしか見えない

正直、説明的FEPが正しいのかどうか?私には判断しきれないけれど、現時点において研究プログラムとして有効とはあまり思えない。メカニズムの研究は自由エネルギー原理とは独立にやればいいのであって、自由エネルギー原理からのメカニズムへの一方的な制約に意義があるとはどうも思えない

記述的FEPを吟味する

記述的FEPとは、(メカニズムによる説明というよりも)生き物の行動を「自由エネルギーの最小化を含んで再記述できる」(Daniel Williams 2021,p.12)とする解釈だ3

これについては、論文でも挙げられている合理的選択理論や進化生物学で行われているゲーム理論(進化ゲーム)による理論を想定すると分かりやすい。ゲーム理論(進化ゲーム)による説明は、行動のあり方のマクロな動きを説明してるだけで、個々の行動主体の行動決定のメカニズムを特定することはない。同じように、自由エネルギー原理も行動のマクロな描写を数理的にしているだけなのだ。

説明的FEPより記述的FEPの方がまだ説得力がある…とは感じる。ただ問題は、メカニズムと関係ない自由エネルギー原理がどう(メカニズムを扱う)認知科学にとっての統一理論たりうるのか?よく分からなくなることだ。少なくとも、予測処理論への通路は明示な形ではなくなってしまう。結果として、元々の源であった(メカニズムとしての)予測符号化との関係もよく見えなくなる。思ったよりも失うものが多そうだ

これは個人的に気づいたことだが、ゲーム理論とのアナロジー4を見てたら、自由エネルギー原理が本当に非均衡システムなのか?疑いが生じた。もちろんゲーム理論はたいてい均衡システムなのだが、自由エネルギー原理も均衡点がありうる気がする

例えば自由エネルギー原理でも論じられる真っ暗闇問題(dark room problem)とは、刺激がなければ驚き(予測誤差)も起こらないので動く必要がなくなる問題だ。ということは、自由エネルギー原理での振る舞いの複雑さは環境の複雑さを反映してるだけであり、環境が単調なら均衡点が存在しうるはずだ。もしかしたら自由エネルギー原理は偽装した均衡システムかもしれないが、だとしてもそれは予測処理論にも当てはまるのでここではこれ以上は議論しない5

おわりに

ここまで自由エネルギー原理の解釈をいろいろ論じてきたが、正直なところ自由エネルギー原理に見込みがあるのか?は私にはよく分からない。たとえ自由エネルギー原理が間違っているとしても、科学的な研究プログラムとしては(批判も含めて)様々な研究を生み出す点で生産的である可能性もあるので、安易に否定しさることはできない

それより問題は、自由エネルギー原理の解釈が曖昧なことで混乱も起こりうることだ。例えば、自由エネルギー原理にはenactivistも多く関わっている。その中にはラディカルな反表象主義者もいるが、それも自由エネルギー原理が力学的アプローチと友好的に見える解釈をも許してしまう曖昧さに原因がある。自由エネルギー原理は計算主義との関係を明確にするべきだ!と個人的には思う

何が正しいのであれ、どっちにせよ明晰な議論は必要であり、Daniel Williamsはそれを求めてこの論文を書いたのだ。そして、それは私の望むことでもある


  1. これはトートロジーでは?という批判は受け付けない。文句のある奴は自分で勉強しろ!超越論的議論についての説明はここでの主眼ではない

  2. ワットガバナーや境界を持った人工知能を挙げて、それらが変分ベイズが実装されてる訳ではない…とする説明もあるが、そもそもそれらは自己組織化システムとして相応しい事例なの?と疑問しかない

  3. 記述的FEPにとって、必要なデータが行動だけなのか?例えば脳の物理的状態のデータは必要ないのか?いろいろ疑問が湧かなくもないが、話がややこしくなりそうなのでここでは問わない

  4. 自由エネルギー原理でよく見る四対の図が社会学パーソンズAGIL理論と似ていることも均衡システムを思わせたきっかけだが、私は社会システム理論にそこまで詳しくない上に話がややこしくなるので、本文では省略した

  5. 物理学的な均衡とゲーム理論における均衡は違うよ!と言う人はいるかもしれないが、そもそも自由エネルギー原理が物理的レベルの話なのか?情報的レベルの話なのか?(ここまでの議論を見ても)よく分からない。物理的には非均衡システムだが情報的には均衡システムだ…というのは、もしかしたらあり得るのかもしれないが、ならば曖昧にごまかさずにちゃんとそういう議論もしろ!…としか言えない

今、ポーランドの認知科学の哲学が熱い!

今、ポーランド認知科学の哲学が熱い!

今の時代、様々な論文がプレプリントやオープンアクセスの形でインターネットで公開されている。認知科学関連の論文もネットで検索すると、英語で書かれた最新の論文がしょっちゅう見つかるので手に入れて読むことが多い。英語で書かれた論文は(日本語での論文に比べれば1)全般的に質は高めとはいえ、世界中の様々な学者によって書かれているので玉石混交なのは致し方がない。

最近も、ネットで手に入れた有象無象の(英語の)論文をよく読んでいた。最近の認知科学はコロナ禍と再現性問題が相まってややこしい状態にはあるが、自分はもともと(主に実験に基づく)オリジナル論文よりもレビュー論文や理論的(哲学的)論文を読むことが多いので、読みたい論文は減っていない。その中で、今年出たばかりのある予測処理理論の最近の展開を概観する論文を見つけて強く感心した。

それは上にリンクした Michał Piekarski"Understanding Predictive Processing. A Review" という論文だ。これは、予測処理理論の概略的な説明・ベイス脳としての議論・予測処理としての議論の順にまとめられているが、その構成がとても見事だ。理論の説明は、数式を一切使わずにキーワードで上手くまとめられていて分かりやすい。予測処理としての議論も、ここのブログで去年今年に取り上げた論文(「専制による統一」論文やフリストンブランケット論文)も参照されており、文字通りに最新の議論が手際よくまとめられている。予測処理理論は現在流行の最中で、(特に哲学者によって)乱雑に論文がたくさん作成されがちだが、その中でもこの論文は哲学的な概論としてとても優れている。今から予測処理理論に入るなら、まずはこれを勧めてもいい2

論文の質の高さに感心した後で、あらためて著者を確認してみるとポーランドの学者であることが分かった。納得!そうなのだ。近年、ポーランド認知科学の哲学は、圧倒的にレベルが高くなっているのには気づいていたが、こうして、また新しい学者による素晴らしい仕事が出てきたには驚いた。

自分が最初にポーランドの学者に気づいたのは、前にこのブログの2010年代のベスト論文にも選んだ Paweł Gładziejewski"EXPLAINING COGNITIVE PHENOMENA WITH INTERNAL REPRESENTATIONS: A MECHANISTIC PERSPECTIVE" がきっかけだ。これはネットでたまたま見つけた論文だが、始めて読んだときは〜認知科学にはまだこんな可能性があるのか!…と本当に感激した。予測処理理論の表象主義の議論ではこの学者の名前はよく出てくるのだが、参照されるのは別の論文であることが多く、この論文があまり知られていないのはとても残念だと感じる。

それからポーランドの学者という視点で眺めてみたら、もっと著名な学者が実はポーランドの人だと気づいた。それはMarcin Miłkowskiで、代表作は"Explaining the computational mind"という計算主義についての著作だ。この著作は私は読んでいないが、同じ学者によって書かれた"Objections to computationalism : A survey"という、計算主義批判を集めてそれにバッサリ反論した論文を読んだことがあり、個人的にとてもお気に入りになっている。最近はこの人は意味論的情報(Semantic Information)についての論文を幾つか書いており、個人的にはそれにも注目してるが、既にここで触れた重要な論文の共著者も実はこの人だったりする。

それは、Piotr Litwin&Marcin Miłkowski"Unification by Fiat: Arrested Development of Predictive Processing" 統一理論としての予測処理理論を批判した「専制による統一」論文だ。最近は、統一理論や万能理論としての予測処理理論(や自由エネルギー原理)を批判する論文は増えつつあるが、やはりこの論文が早くかつ質が高い。

他にもポーランドの学者はいなくはないが、今のところめぼしい活動をしているのはこの辺りだろうか。なぜポーランド認知科学が盛んなのか?私にはよく分からないが、共通に見られる独自の特徴はある。それはポーランドの学者が計算主義に好意的なところだ。近年は反表象主義の影響で計算主義に悪意を抱く哲学者も多い中で、これは注目すべき特徴だ。20世紀後半にオーストラリアでアームストロングを代表とする唯物論哲学が盛んになったことがあるが、もしかしたら21世紀のポーランドは計算主義的な哲学の場として将来は知られるようになるのかもしれない。


  1. ここで日本の認知科学ガラケー並のガラパゴス振りを語っても良いが、詳しくは別の機会にする。軽く説明すると、日本の認知科学は20世紀までは世界的水準の学者が普通にいたのに、21世紀に入ってから段々とガラパゴス化が進んでいった。ガラパゴス化は独創的な成果を生み出す可能性もあるので一概に悪いとは言えないが、20世紀までの状態との差があまりに激しくて、私のような認知科学オタクはかえって引いてしまうところがある。なぜそうなったのか?の個人的な見解はあるが、それをするともはや壮大な(?)日本社会論になってしまうのでこんな注では済まない

  2. あえて文句を言うなら、予測処理理論の歴史を語る上で、先駆的な研究者としてヘルムホルツやナイサーには触れられてるが、より直接的な先駆者である伊藤正男や川人光男には触れられていないは不満。ただし、この傾向はこの論文だけでなく、近年の予測処理理論の論文に全般的に見られる傾向である。当時までの文献をかなり網羅してたRick Grushの有名な予測符号化のレビュー論文ぐらい読んどけよ!…と個人的には思う

書評 クライヴ・ウィン「イヌは愛である」

イヌは愛である 「最良の友」の科学

犬の心について人との接触で育まれる愛情の視点から様々な科学的な研究から論じた著作、興味深い部分はあるが全体としてのまとまりは悪め

犬は人との触れ合いによって愛情を育んで社会的能力を発揮することを、様々な科学的な成果から論じていく作品。著者の本来の専門である動物心理学から論じた最初の数章は出来が良いが、より広い分野の研究に触れる残りの章は、テーマには沿っているがまとまりには欠ける

解説を書いてる人は、本書で紹介される実験をした研究者であるが、あくまで専門は生理学寄りでこの本の著者の専門の動物心理学とはズレる。そのせいで、解説というより本体とは独立した補足に近い。だいたい解説では著者の専門を犬の認知科学だとしてるが、本書を読んでいても認知科学っぽい話はあまり出てこない。ただしそう勘違いした理由は分かる。それは第一章でされる犬の社会的能力に関する論争に関係している

犬の家畜化を巡る論争

第一章は本書の中でもっともよくまとまりのある内容で、犬は家畜化によって進化的に人と接するための社会的能力を手に入れたとする説に対して、著者が反対する立場が説明されている。この家畜化説を主張する代表的な研究者がヘアである。私はヘアがトマセロと共著で書いた論文は知っていて、家畜化説が21世紀になってからの動物心理学を引っ張ったと思っていた

ここで皮肉なのが、犬の人との社会的能力の生得説をとるヘアに対して、人と接する経験を重視する著者という構図だ。これは、言語能力についてチョムスキーの生得説に反対するトマセロという構図と似ている。しかし、ヘアがトマセロの元から出た学者だと考えると、その構図が対照的なのに気づく

この辺りの事情から、著者が認知科学に関係してる…と思うのは分からなくもない。とはいえ、他でされてる愛着の研究を始め、本書で紹介される研究のほとんどは認知科学とは方向性が違う。いやそれどころか、どうも著者は認知科学についてあまりよく知らない印象が拭えない

著書の描く全体的な構図の一貫性のなさ

著者の描く構図には多少の混乱もあるが、基本的に著者が反対するのは能力が始めから身に付いてるとする生得説と、感情のない条件づけされる機械であるとする行動主義である。犬の訓練では長らく条件づけトレーニングが当たり前だったことを考えると、行動主義の影響は馬鹿にできない。しかし、特に本書で紹介される餌を与えられるより人に撫でられる方がその人に馴染みやすいとする研究は動物機械観には反してるようで印象的である

犬を人と接して生まれる愛情の視点から眺めるのは一貫してるが、本書全体ではその論じ方には問題がなくもない。例えば、あるところで感情の構成説で有名なリサ・バレットを参照しながら、別の箇所では犬の表情を分類する研究を当たり前に紹介してたりして、これ一貫性あるの?と疑問に思ったりした。他にも、犬をエピソードで理解するのは危険だと言っておきながら、(科学的研究でなく)あちこちで犬のエピソードが紹介されてたりと、時々矛盾を感じなくもない

しかし、もっとも疑問に感じるのは著者の行動主義との関係だ。一方で生得説に反対し、他方で行動主義に反対している。感情を否定する行動主義に著者が反対するのもちろんは分かるが、その一方で行動主義には条件づけ的な経験説の側面もある。本書では犬でない動物でも人と接することで社会性が身につくとしてるが、どうも読んでると―それこそ(社会的報酬による)条件づけで説明できるのでは?と疑問に感じる。条件づけで説明できることにわざわざ他の要因を持ち出す必要はない

犬を愛によって捉えよう!とする著者の方針は分かるのだが、それを理解するための枠組みはそれほど整理されていない。そのために、部分的には興味深いことが書いてあっても、全体としてはまとまりがない。そのせいで、決してつまらなくはないにしても素直にはお勧めしにくい本になってしまってる

まとめ

本のタイトルは原題通りだが、どっちにせよ意味が分かりにくい。翻訳の副題は原題とちょっとニュアンスが違う。翻訳の副題の「最良の友」だと、人にとっての友である犬を思わせる。原題の副題は「なぜどう飼い犬はあなたを愛するか?」となっており、犬を主語に置いた元の副題こそが本書の内容をもっとも表すものとなっている

この著書でないと読めない独自の内容もあり、読んで損することは必ずしもない。しかし、学者の書いた一般向け科学書によくあるように、著書自身の行なった研究の描写がもっとも活き活きしてて、著書の専門内の説明はまだ分かりやすいが、それを超えると読みにくくなる…という事態はよくある。これもその典型に入れざるをえない

犬や心の科学に関心があるなら、試しに読んでみてもいいかもしれない。うまくハマれば面白いと感じるかもしれない…ただし私自身は部分的な面白さ以上の保証はしません

イヌは愛である 「最良の友」の科学

補足

この著作では、野良犬を集めた施設のシェルター犬をどう助けるか?は、著者が強い関心を持つもう一つの主題である。シェルター犬が人に馴染めるか?は引き取り手を探す上で重要である。本の中にシェルター犬の話はかなり出てくるが、書評の本文では流れ上で触れられなかった。その方面に興味があるなら、この本はもっと薦められるかもしれない

それから、著者の立場上で仕方ないかもしれないが、本書では家畜化の説明が少ない。解説ではそこを補って、家畜化の解説もされてる。なので解説はむしろ補足の側面が強い。犬については家畜化説が主流であるがゆえに、それに対抗するこの著作の立場は異色だ。その割に家畜化説を十分に論駁してるとも言い難い。この辺りの事情もこの本を素直にはお勧めしにくい理由かもしれない

後は完全に個人的な見解

犬の心理学実験をした成果から家畜化論が導かれたと考えると、シェルター犬をも対象にする著者の考え方は、WEIRD問題(心理学実験の被験者が豊かな西洋人に偏ってる問題)とも似ている

心理学実験の対象が人に飼われた豊かな犬に偏っているせいで、犬の人との社会的能力が過大視されてる可能性はある。そういえば、双子研究でも参加者が豊かな側に偏ってるのでは?という批判は聞いたことがある。被験者(被験犬?)が豊かな側に偏ることで、経験の持つ役割が過小評価されがちな可能性がある。経験される環境の差が小さければ、その分だけ相対的に生得性が高めに出るのはある意味で当たり前だ