人工知能は知覚の逆問題を解いたのか?

正直なところ、今の人工知能なんて驚異的な統計装置かもしれないけど所詮は生きた心とは似ていない…と最近は高をくくっていた。でも、次の記事を読んだときはマジかもしれないと思い始めた

NeRFの仕組みがどんなものかいまいち分からないのでまだ評価しがたいところもあるが、このような説明には納得できるところもある

テネンバウムは、このほどMITの助教授に就任したヴィンセント・シッツマンの研究を紹介する。シッツマンらのグループは、限られた数の2D画像を基にニューラルレンダリングの技法を用いて物体の3Dイメージを生成する発想を、19年に初めて披露した。
シッツマンらの研究のテーマは、本物そっくりの完璧な3Dイメージを作成することではなく、不完全な写真から物体のおおよその形状を推測するアルゴリズムをつくることだった。これは人間が習慣的にこなしていることだと、テネンバウムは言う。「例えば目の前にあるコーヒーカップを手に取ろうとするとき、手が近づいていくと同時に、人間の知覚システムは自然にカップの背面がどの辺りにあるかを推測しています」と彼は言う。

二次元の画像を「高精度な3Dイメージ」に変換するアルゴリズムが、AIの進化を加速させる | WIRED.jpより

この引用に出てくるテネンバウムは私の好きな学者の一人であり、私がベイズを勉強しようと思った最初のきっかけは彼の影響でもある。その彼による説明はそれなりに説得力を感じる

この紹介されている技術で基本となる「二次元を三次元への変換」は、視覚研究では最重要課題である。認知科学においても2Dイメージから3Dへの変換は重要であり、ギブソンによって(網膜上の二次元イメージとしては)否定された後にマーがあらためて持ち出したいわくつきでもある

大気中を通過する光の動きを利用したこのアルゴリズムは、3D空間の各データポイントの密度と色を計算するよう設計されている。これにより2D画像をどこから見てもリアルな3Dイメージに変換することが可能になったのだ。

二次元の画像を「高精度な3Dイメージ」に変換するアルゴリズムが、AIの進化を加速させる | WIRED.jpより

これを読むと、もしかしてNeRFはマーの夢を叶えた技術では?という期待は大きい

二次元の三次元への変換は私達が日々行っていることであり、当たり前のようである。しかし、二次元を三次元へと変えるのは「逆問題」(inverse problem)と呼ばれる難しい問題でもある

逆問題とは何か?

逆問題とは結果から原因を探る問題であり、原因から結果を導く順問題とは違って独自の困難を伴っている。すごく簡単な例を出すと、1と2を足し算すると3になるが、これは順問題である。逆に足すと3になる数の組み合わせは何か?を問うのが逆問題である。これは簡単な例だが、ほとんどの逆問題は一意に答えを導くことはできない。

例えば、サイコロの一面だけがこちらに見えていたときに、見えてないところを含めてそれを立方体として認識できるのは当たり前ではない。見えてない面が存在しなかったりもっと複雑な形だったり、といった複雑な可能性は日常的には排除されている。他にも世の中は逆問題にあふれている。例えば病気の診断とは、表れた症状からその原因となる病気を推測することだが、症状だけから病気を当てるのは実はとても難しい。推理小説の探偵は、犯罪が行われた後にその犯罪が誰がどのように行なったか?を当てるのだが、これも逆問題である

逆問題は、学校で出されるような問題とは違って、答えが一つに定まらない方が普通である。この逆問題の特徴は、設定不良(ill-posed;非適切)と呼ばれる。例えば、図形の一部が隠されていてもまとまった一つの図形として認識されるが、それは隠された部分もなめらかにつながっていると勝手に想定されているからだ。この場合は「なめらかなつながり」という前提の設定によって、始めて答えとしての図形を推測できるようになる

逆問題では、与えられたデータだけからは答えがうまく出せないので、前提となる知識を付け加えることで答えを導きやすくする。こうした逆問題の構造はベイズを用いたモデルによって表わすことができる。ベイズの説明は長くなるのでここではしないが、逆問題とベイズの共通点は生きた心の特徴にも応用できることでもある

ニューラルネットワークの欠点はどうなった?

逆問題については前々から説明したいと思っていたが、今回やっと取り上げることはできた。しかし、逆問題の広がりと心の科学における重要性を説明し切ることはできない。とりあえずNeRFが逆問題を扱えたことの重大さだけは分かってもらいたい。ただ、NeRFがニューラルネットワークの欠点をどこまで克服できているか?は私にはまだよく分からない

ディープラーニング(階層の深いニューラルネットワーク)があまりに大量のデータを必要とするところが、生きた心とは似ていないことは前にも指摘した。今回の技術もここをどう解釈すればいいか?まだよく分からない。しかし、生きた心も三次元への変換を生まれてから一から全て学んでいる訳ではない気もするが、そもそも生き物が生まれてから三次元を認識できるまでにどんな知覚情報をどれくらい得ているか?もよく分からないので、解釈のしようは色々あるのかもしれない

前にも説明したが、ニューラルネットワークが得意なことを大雑把に分けると、(非線形な)回帰分析とパターン認識がある(もちろん別の分け方もありうる)。どちらも高度な相関的なパターンの学習から可能になっている。どちらにせよニューラルネットワークは、バイアスはそのまま反映されるし、ある種のノイズにも弱い

ニューラルネットワークは小さな相関をだんだんと組み合わせていってマクロなパターンを見つけ出してるので、相関を細かく錯乱させるノイズがマクロなパターンの判断に影響を与える。だが、これはマクロなパターンを細かなノイズとは独立に認識できる生きた心とは似ていない。しかし、これはパターン認識の点でニューラルネットワークが生きた心とはあまり似ていないというだけで、今回の技術への影響ははっきりしない

今回の、知覚の逆問題を解くニューラルネットワークはこれまでの回帰分析やパターン認識のような応用とは様子が違うと感じる。逆問題は生きた心の根底に関わる問題であり、これに取り組めたことの持つ応用可能性は計り知れない。現実世界を自由に動き回る人工知能ができるかもしれない…と懐疑心の強い自分でも期待したくはなる

おまけのおすすめPDF

ネットにある日本語の逆問題の記事はたいてい物理学や工学のモノが多く、お世辞にも読みやすくない。以下のpdfは、認知科学との関連に触れられてる手軽な読みものです→「逆問題と認識論

自由エネルギー原理とラカン理論を(マルクスを介して)比較する

そのうち自由エネルギー原理(または予測処理理論)について自分で説明したいとは思っていた。前々から、自由エネルギー原理とラカンの三界論(象徴界想像界現実界)には共通点があることには気づいていたので、それをテコにして説明しようと色々と調べてはいた。もはやこれで説明になるのか?よく分からなくなってきたが、とりあえず記事にはしてみた

自由エネルギー原理とラカン理論を比べてみる

この記事を書く準備として、自由エネルギー原理とラカン理論について調べていたら、次のような論文に当たった

John Dall’Aglio 「Sex And Prediction Error, Part 2 : Jouissance and The Free ENERGY PRINCIPLE IN NEUROPSYCHOANALYSIS」

まず、この論文にある自由エネルギー原理についての説明が簡潔なので、それを翻訳引用してみます

自由エネルギー原理によると、脳はベイズ推論マシンのように作動し、経験について確率的な「予測」を生み出す。それらの予測は感覚のフィードバックと比較されて、その結果である差異は「予測誤差」とか「驚き」とか「自由エネルギー」と呼ばれる。このモデルでは、脳は感覚印象の受動的な受け手ではなく、むしろ脳は「予測モデル」を作ることでその経験を積極的に説明する

John Dall’Aglio"Sex And Prediction Error, Part 2 : Jouissance and The Free ENERGY PRINCIPLE IN NEUROPSYCHOANALYSIS" p.717より

説明としてはだいたい合ってると思う。マクダウェル(またはセラーズ)の指摘するように、私たちの経験は単なる感覚からの受動ではなく、能動的な産物なのだ。私たちの中には世界についてのモデルを持っていて、無意識の内にそのモデルを(予測の形で)積極的に用いているのだ。モデルからの予測と感覚からのデータを比較して違いがある場合は、予測の元となるモデルをその違いに沿って修正することで、世界についてのより正確なモデルを作り続けることになる

ここで、モデルを象徴界、予測誤差を現実界と考えると、自由エネルギー原理とラカンの三界論との類似性に気づく。現実界とは象徴界の失敗する地点として説明されることが多いからだ

実は、私が最初に二つの理論の類似性に気づいたのは、引用した論文には触れられていない想像界についてだ。予測処理理論によれば、現実の世界においては予測外のことが起こりうるが、想像の世界では予想外のことは起こりえない(意図した予想外は本当の予想外ではない)。もし現実の世界で全てが自分の予測通りのことしか起こらなかったら、もしかしたらこれは夢では?と疑うだろう。予測との関係は現実と想像を区別する有力な基準でもある

しかし、自由エネルギー原理とラカン理論との類似性はここまでであり、実際には決定的な違いがある

享楽は、予測能力を超えて生じる剰余または残余の予測誤差に関わりを持っている。それらの予測誤差は予測能力に対して特に目立った激しい特徴を持っている―それらはホメオスタシスに達するための予測モデルの失敗で生じる

John Dall’Aglio"Sex And Prediction Error, Part 2 : Jouissance and The Free ENERGY PRINCIPLE IN NEUROPSYCHOANALYSIS" p.724より

自由エネルギー原理(予測処理理論)では、予測誤差は内部モデルへと全てが回収される運命にある。しかし、ラカン理論では(享楽の源となる)現実界象徴界には回収されえない。ここが、自由エネルギー原理は科学理論だが、ラカン理論は科学理論ではない証だ。引用した論文では、自由エネルギー原理との類似性からラカン理論を科学的に捉える可能性を指摘しているが、私自身はむしろラカン理論が科学理論に抗する部分こそが重要だと考える

ラカン理論をマルクスから理解してみる

これから書くのは、一般的に理解されてるラカンマルクスを私なりに解釈して、かなり雑に合理的な再構成をしたものです。正確に理解したい人は専門家の説明を見てください

剰余価値と剰余享楽について

ラカンの剰余享楽を理解するために、アイデアの源となるマルクスにまで遡ってみたい

本稿で検討するラカンセミネールにおいて、マルクスの名が引用されるのは、彼の「剰余享楽(le plus-de-jouir)」という概念がマルクスの「剰余価値(la plus-value)」という概念から来ていることをラカン自身が明言するときである

番場寛「ラカンにおけるマルクスの遺産」p.51より

マルクスの言う剰余価値とは何か?それはこういうことだ。ある商品を売って得た金額の中には、その商品を作るのに費やした労働力の分の価値が含まれているはずである。しかし、資本家の側は労働力に対して払う金額を値切って、その分の浮いた金額を自分の懐に入れてしまえる。この浮いた差額が剰余価値と呼ばれる。ただし、マルクスは価値を実体化していて限界革命後の経済観には合わない所もあるが、それは資本家の側が商品で得られた金額の配分を決める(労働者への配分をケチる)とする現代的解釈にもできるが、その話はここではこれ以上しない

(本来の標準的な価値から)予測されるより以上に得られる価値が剰余価値なら、剰余享楽とは象徴界によって予測される以上の享楽を得られることだ。これを説明するのに都合のいい事例が陰謀論だ。陰謀論は事実に沿って論理的に判断すれば、正しい所はないに等しい。しかし、陰謀論を信じる人にとっては陰謀論が真実なのか?間違っているのか?は重要ではない。例えば、陰謀論を信じる他の人たちとのコミュニティとの一体感を味わえるのであれば、そこに真偽を超えた価値を感じる人はありえる。そこに剰余享楽が生まれる

ただし、この形で理解すると剰余価値剰余価値には奇妙なところが生じる。陰謀論を信じる瞬間は象徴界から外れてるので剰余が生じるが、陰謀論を信じ続けてる人にとってはその陰謀論はその人の想像の範囲内なので剰余はなくなるはずだ1剰余価値についても、マルクスのように労働の持つ本来の価値からの搾取の結果として見るか?他の市場価値との相対的な差異(労働者への賃金を他の競合する雇用者より低くする)として見るか?で意味合いはかなり異なる。ここには、象徴界想像界との違い(市場価値と搾取の関係)が関わっていると思うが、ここではそういう議論はしない

ここでした説明は、私がかなり強引に合理的に整理したものだ。正確には各自で関連文献を読んで確認してくださ

ラカン理論の側から自由エネルギー原理を眺める

ここまでの議論は何を意味しているのか?ここで最初に引用した論文の著者は、剰余享楽に相当する神経メカニズムの発見に期待している気配があるが、私はそれは無理があると思う。ならば、ラカン理論は所詮は非科学的なお話だと捨て去るべきなのだろうか

自由エネルギー原理(予測処理理論)については、著名な研究者がこれは心の統一理論だとか万物理論だとかと称している。このブログでは、それが誇大宣伝ではないか?との疑いを示す記事は既にあげている。自由エネルギー原理(予測処理理論)で現時点で説明できそうにない現象は色々と挙げられているが、認知的なバイアスはその典型例であると思われる

(自由エネルギー原理を含む)予測処理理論については、表象主義のように世界についての正しい表象の追求と見るのであれ、反表象主義のように世界への適応性の追求と見るのであれ、学習によって内部モデルを修正する部分は共通点である。しかし、陰謀論信者のように、特定の信念は絶対に手放すことなく、その核となる信念に都合のいいように他の信念や証拠を信じるようになることもある。ここには内部モデルへの柔軟な学習や修正はあまりない2

内部モデルの修正を超えたところにあるのが、ラカン理論が扱おうとしている享楽や欲望の領域であり、そこをわざわざ科学に譲るべき必然性はないかもしれない3

おわりに

動機や欲望のような心の核にある動因は、認知科学にとっては直接の研究対象ではない^4し、他の科学領域でも単なる記述や分類を超えているとは思えない。自由エネルギー原理(予測処理理論)も例外ではないと思う。そういう科学では扱うのが難しい部分について、ラカン理論に限らず4そこを指摘し続けることは私は重要だと感じる


  1. もっと卑猥な例を挙げてみよう。始めてのある変態行為によってそれまでにない激しい性的興奮を覚えたとして、その興奮を忘れられずにその同じ変態行為を繰り返しても、最初ほどの性的興奮は感じられないかもしれない。その同じ変態行為にしか性的興奮を感じられない人がいても、それはもはや条件付けされた興奮でしかない可能性が高い。そうなると、元と同じぐらいの興奮を得るためにはその変態行為はどんどん過激になっていくだろう。しかし、その過激さはただの量的な増大であって、質的な剰余ではない。経済で例を挙げると、なんでも目新しいものが安易にイノベーション(革新)と呼ばれがちなのは罠だ。本当のイノベーションとは(例えば)これまでなかった需要を喚起する商品であって、小手先の工夫で市場で売り抜ける行為とは異なる。剰余は求めて得られるのものではなく、むしろ求めれば求めるほどますます得られなくなる

  2. もちろん陰謀論者は内部モデルの壊れた精神的な病を患ってるとすれば、辻褄は合う。ただし、この方向をとるなら精神的病であると認定するための明確な基準を設けないと、自分が異常だと思える事例にいくらでもご都合主義的な判断をくだせてしまう。当然ながら、ここでは精神病理的な判断基準について議論する気などない

  3. 正確には内部モデルの修正にも量的と質的の違いがありうる。単にモデルにある既存のパラメータの値を変えるだけの量的な修正と、パラメータの構成そのものを見直してモデルの構造自体を変える質的な修正は全く違う。アルゴリズムで書けるのは基本的に量的な修正だけである。質的な修正は人の行なうアブダクションによる発見と関わりがある(ただしアブダクションにも量的[選択]と質的[創造]の違いがある)。内部モデルにニューラルネットワークを使うこともできる。前にも指摘したが、ニューラルネットワークはあくまでデータから相関的なパターンを学んでいるだけであって、データの元となる世界の構造を学んでいる訳ではない。ポール・チャーチランドやヒントンはニューラルネットワークによってデータから世界の構造をも学べることを夢見てるはずだが、それが可能か?は今の所よく分からない

  4. というか、学者や臨床家に限る必要もない。本文ではラカン理論に甘く書いたが、動機や欲望を扱うのが学問である必要はない。というか、そんなことは当のラカン自身が暗にほのめかしている。でも、ラカン精神分析家という臨床家に対してはまだ甘い

認知科学における計算主義を方法論的な視点から擁護してみる

自分は二十数年前の学生時代に(科学としての)認知科学に魅了されて今に至るのだが、その中で認知科学への無理解な批判には何度も会っている。認知科学を一時の流行とか過去の遺物とか言ってた奴らは、欧米の事情を知らないただの無知なので付き合うだけ時間の無駄でしかない。それよりも頻繁に聞いた典型的な批判がある

人間など生物を、機械的な情報システムとして分析するだけでは不十分なのだ。だが、AIばかりかバイオ技術の関係者も同じ罠に陥り、データ至上主義にたどりつく。

西垣通「巻頭言 人間が神になる未来を阻止しよう」 より

これは、この前の第三次人工知能ブームの頃の西垣通の言葉だ。しかし、心は計算できないだの、脳は情報処理装置ではない、といった認知科学批判は耳にタコができるほど聞いた。こうした(主に人文学者が繰り返した)批判は、私からすると科学というものを理解してない見当外れな批判にしか聞こえなかった

ただし、正確には認知科学の中にはH・ドレイファスのような主流の認知科学への批判も一部に含まれているので、事情はもう少しややこしい。最近だと反表象主義の例がある。しかし、日本ではそもそも認知科学の主流である計算主義なり情報処理アプローチなりの科学としての意義が理解されていないことにはうんざりされ続けている1

最近はこの前の人工知能ブームの影響で、認知科学とは無関係に心への計算主義的な研究をする人は増えてきたが、その人たちも流れに乗った感が強く計算主義の科学的意義を理解して参入したようには見えない。日本はただ流行に乗る奴らばっかりで、背景や本質を理解しようとする人は少ないのにはゲンナリする2

認知科学における計算主義については、日本だけでなく海外でも見当外れな批判は多いが、欧米でも上手い擁護が定まっている訳ではない。なので、以下では少しだけ論文の参照もするが、大枠は私のオリジナルな議論になってしまうことは勘弁してしてください

自然主義存在論的と方法論的に分けて理解する

クワイン以降から現在に至る分析哲学の流れは、自然主義によって特徴づけられる。日本では、自然主義を旧態依然とした物質への還元主義と同じとされてしまうことも多いが、それは見方が雑にすぎる

現在は自然主義を、存在論的なものと方法論的なものとに分けるのが標準的な理解である。これからそれらを説明するが、ある程度は丁寧に説明するが、この記事の目的は自然主義の説明ではないのでそれなりの説明しかしません

存在論的な自然主義とは?

存在論的な自然主義とは「存在するのは自然なものだけである」と簡単に定義はできる。もちろん、自然とは何か?という疑問は残るが、一般的な理解はこのようなものだろう

存在論的(または形而上学的)な自然主義とは、何が存在するのか?についての主張である。[…略…] つまり、存在論的な自然主義は、知れる知れないに関わらず宇宙(universe)の外側の何か―超越的な非物質的な世界や超自然的な対象や過程が含まれる―の存在を否定する

Johann Weichselbaum"Does Methodological Naturalism Lead One to Accept Ontological Naturalism?" p.8より

存在論的な自然主義の典型としては、(物理的なものしか存在しないとする)物理主義がある。物理主義も本気で定義しようとするとややこしい(最も形而上学的な定義は哲学的アトムや究極の物理学理論を持ち出すことだが、そんなの知りようがない。現在の物理学で定義すると、まだ知らない物質の扱いに困る)。また、この引用の説明だと可能世界が含まれないという問題もあるが、それはここでは度外視する。大事なのは、超自然なものを持ち出さないことだ

世間で自然主義と言われているのは、たいていがこの存在論的な自然主義のことだ。私自身が元々は還元主義嫌いなので、存在論的な自然主義が嫌がられるのは気持ちとしては分かる。これについては、多重実現可能性やスペシャルサイエンス(特殊な科学?)の議論を持ち出して、全てを物理法則に還元するタイプの強い還元主義(理論間還元)とは異なる弱い還元主義(ある心的状態の複雑な物理的状態の選言への付随関係)なら恐れるに足らない…のだが、長くなるのでここで止める

方法論的な自然主義とは?

方法論的な自然主義の最も簡潔な定義は、このようなものだろう

存在論的な自然主義とは対照的に、方法論的な自然主義は、何が存在するか?には関与せずに、科学を行なう適切な方法の大枠だけに関わる

Johann Weichselbaum"Does Methodological Naturalism Lead One to Accept Ontological Naturalism?" p.9より

そもそも、適切な科学的な方法とは何か?が分からないが、これを定義し始めると泥沼にはまる。たまに見かけるのが、因果的な閉包性が成り立つかのように行なう方法と説明されることだ。因果的な閉包とは、超越的な神や超能力を原因とするような互いに因果的に閉じた世界の外からの世界への影響を否定することだ3。この定義は後でする計算主義の話との相性が悪いから取りたくない理由もあるが、そもそも因果的な閉包性は認めるが存在には関与しない…というのかどんな事態なのか?よく分からないのが大きな問題だ4

これも本気で議論すると大変な目にあうので、関連した部分だけを説明する。因果的な閉包性とは、世界全てが因果的に閉じているとする世界全体に及ぶグローバルな想定だ。しかし、科学で行われる経験的な方法では、この実験やあの調査の対象がどのような因果を持っているのか?を調べている。これは世界全体を閉じさせるグローバルな因果の想定ではなく、具体的な場面におけるローカルな因果だけを想定している。実験で見出された因果を一般化すると法則へと昇華される。方法論的な自然主義は、実験や調査のような方法に焦点があるのであり、法則への一般化まで含む必然性はない。むしろ、特定の因果の法則への一般化とは、形而上学的な前提(例えば斉一性)が含まれていて存在論的な自然主義との差異が怪しくなる

研究プログラムの視点から方法論的な自然主義を評価する

方法論的な自然主義が、超自然的なものを安易に想定しないのは単に科学的な方法を進める上の基準である。つまり安易な超自然的な想定は科学的な探求を止めることにしかつながらないからでしかない

ここで欧米の議論では神の例がよく持ち出されるが、日本ではそれは馴染みにくいので、ここでは超能力の例を出す

もし存在論的な自然主義ならば、超能力という存在自体が禁止されるだろう。なぜなら、それは世界の外から世界に影響を与える怪しい能力(因果的な閉包性を破る存在)だからだ。それに対して、方法論的な自然主義では、まず超能力とされる現象そのものは経験的に発見されるべき対象でしかない5。その上で、その超能力とされる現象が本当に(通常の因果性を破る)超能力かどうか?も、経験的な探求によって確かめるしかない。その場合、超能力を前提とするよりも、超能力ではないことを前提とする方が、実験や調査による経験的な探求を推し進めやすい。ラカトシュ的に言えば、超能力を前提にしない方が研究プログラムとして前進的なのだ。超能力を前提にするとそこで説明が終わるので研究プログラムとしては後退的でしかない

ここまでの議論をまとめる(あくまでここでの定義)

  • 存在論的な自然主義とは、何が存在するか?を問題とする、(可能世界を含む)世界全体に関わるグローバルな主張をする立場である
  • 方法論的な自然主義とは、何が経験的に検証できるのか?が焦点であり、検証可能な因果にのみに関わるローカルな主張をする立場である

計算主義を存在論的なものと方法論的なものに分けてみる

計算主義の主となる仮定は、神経システムはコンピュータであることであり、認知は神経システムの計算によって説明できる

Marcin Miłkowski"From Computer Metaphor to Computational Modeling:The Evolution of Computationalism" p.526より

世間でよく聞く計算主義批判は、心は計算などしていない!といった批判である。なぜその人が心は計算できないと知っているのか?その直観をまずは疑うべきだ!と思うが、ここではそのルートはとらない。むしろ、「心は計算できない」という主張には「心はコンピュータ(計算機)ではない」という想定がある。ここに根本の勘違いがある

「心はコンピュータである」というのは、存在論的な強い主張であって、計算主義的な全ての研究者が必ずしも取るべき立場ではない。もちろん、「心はコンピュータである」と信じている科学者がいても構わないが、それ自体が直接に証明されるわけ訳ではない。ある物理法則が検証されたからと言って、世界を計算する神(のコンピュータ)の存在が証明されたことにはならない

「心はコンピュータである」という存在論的な計算主義にコミットしなくとも、心が計算してるかのように想定して研究しよう!という方法論的な計算主義の立場だけでも問題はない6。表象や情報についても同じで、それらが存在するか?の疑問は不毛でしかない。そんな証明不能な問題に関わるよりも、科学的な研究を推し進めることの方が重要である

計算は科学的な探求のための手段でしかない…と気づいてしまえば、心は計算できるできないの議論にも、それは経験的な探求によって確かめればいいことだ!と言えば済む。でも計算できなかったじゃん!という事態に対しても、それはその計算モデルが間違っていたからでしかない。計算主義は間違っていて不毛だ…と思うのは自由だが、経験とは無関係に(アプリオリに)その結論を出すことはできない

古典的計算主義が衰えたのも、それが経験的な事実を思ってたよりも上手く説明や予測ができなかったからであり、経験による淘汰は科学にとっては喜ばしいことである。むしろ、経験によって検証を受けない信念をいつまでも持っている方がよほど不健全である。そして、人とはそのような経験的に不健全な信念をいっぱい持っている生き物なのだ

とりあえずの結論

もしあなたが本気で心は計算できないと思っているなら、計算主義を恐れる必要はない。なぜなら、計算主義を中心に据えた研究プログラム(または計算主義という研究伝統)7は経験的な探求にどうせ耐えられないはずだからだ。叩くべきは「心はコンピュータである」とする存在論的な主張だけであり、方法論的な計算主義の試みはどうせうまく行かないよ!と冷めた目で見てればいいのだ

でも、残念ながらこれは現実ではない。実際には、計算主義でうまく行ってる所もあればそうでない所もあるだけだ。科学とはそのようにモデルや法則が上手く行く適用領域を探り続ける試みであるとも言える


  1. 私は学生時代は心理学専攻だったが、日本の心理学でも認知心理学は他の心理学の分野と並ぶ一つ程度にしか思われていないのは当時から大きな不満だった(今も事情はあまり変わっていない)。(認知心理学も含まれる)認知科学は科学のパラダイムを変える科学革命を起こしたと思っているが、それはこんな注でついでに語れる話題ではない

  2. この前の第三次人工知能ブームはまさにその典型だった。あの時にシンギュラリティで騒いでた人たちはどこに行ってしまったのだろうか?自分はこの前のシンギュラリティのブームは冷たい目で始めから見てたのは前に書いたが、ちゃんと知識があれば誇大宣伝なのは分かることだった。日本は、科学に限らず思想も政治もその場の空気で騒いで、流行りが収まっても何も反省しないので同じ過ちを繰り返すだけだ

  3. ちなみに、可能世界は互いに因果的な関係がないので、方法論的な自然主義からは可能世界はあってもなくても構わない

  4. 物理主義を取れば、因果的な閉包性は自動的に成り立つ。物理主義においては、この世界にあって互いに因果関係にあるもの(物理的なもの)しか認めないのが基本だからだ

  5. 一応注意しておくと、ここで言う経験は人の経験に限定された古典的な経験主義を意味している訳ではない。道具や技術による検出などを含んだ広い意味での経験だ。ちなみに、この辺りの背景には人間中心主義批判が関わりを持っている。人間中心主義をする主体が所詮は人間である…という皮肉に気づかない議論には私は批判的にならざるを得ない。人間中心主義を端的に脱せられる―という想定はあまりにナイーブで付き合ってられない

  6. ちなみに、存在論的な計算主義とか方法論的な計算主義といった用語は(私の知る限り)使われていません。私が勝手に使ってるだけです。

  7. 詳しくはすでに引用したMarcin Miłkowskiの論文を参照。ちなみに、私自身は計算主義を神経システムとして定義するのは狭いと思う。計算主義は身体化や拡張した心にも適用可能な形で定義する方が生産的だと思う