ベイズ脳は認知バイアスを説明できるのか?

認知科学でもここずっと話題となり続けている自由エネルギー原理(予測処理)1は、自らを脳や心のための統一理論であると称している。これまでの理論と比べての扱える適用範囲の広さを考えると、こういう主張をしたくなる気持ちも分からなくもない。

統一理論を目指す予測処理は認知バイアスを説明できるのか?

ただ、前々から疑問に感じていたのは、予測処理は知覚や運動のような低次認知の説明が得意なのに比して、言語や思考のような高次認知の説明はあまりうまく行っていないことだ。統一を主張する人たちがよく出す説明の成功例は、知覚に知識(予期)が影響を与えるトップダウン効果なのだが、これはせいぜい低次認知と高次認知の境界であって、高次認知の本丸には入れていない。(主に能動的推論によって)説明できる範囲を広げようとする試みは現在進行系で進められてはいるが、統一を可能と感じられるはっきりとした目処があるとは言いがたい。

予測処理(自由エネルギー原理)が扱うのに困りそうなところとしてすぐに思いつきやすいのは、認知バイアスである。大雑把に説明すると、認知バイアスとは規範的な論理や確率に従わない傾向を指す。予測処理の特徴はそのベイズ確率の採用にあるが、認知バイアスはその確率に従わない認知傾向であり、明らかに矛盾があって扱いに困るはずだ。これは統一理論と称するには障害のはずだと前々から思っていたので、どうするのだろう?とずっと不思議に感じていた。

論文「なぜベイズ脳は明示な確率推論問題をうまく扱えないのか?」

そこで見つけたのが、次の論文(おそらくプレプリント)だ。

https://www.researchgate.net/publication/358688709_Why_Bayesian_brains_perform_poorly_on_explicit_probabilistic_reasoning_problems

著者たちは、自由エネルギー原理で有名なフリストンとも共著論文も多い人たちだ。この論文では、ベイズ脳が規範的な確率に従わない認知バイアスをどうやって説明できるか?を論じている。ベイズ脳とは、脳がベイズ計算をしているとする説であり、予測処理はその典型となる理論である。

これから論ずるように、ベイズ脳仮説と判断や意思決定の研究で報告されている体系的な推論の偏り(reasoning biases)の間にある緊張を解けると主張する様々な反応がある。

"Why Bayesian brains perform poorly on explicit probabilistic reasoning problems"preprint p.4より

この後、二重過程説による説明をした後に

だが、どのように明示な推論(reasoning)過程を完全なベイズ脳によって理解できるのか?、要するになぜこの過程がこのような貧しい直観と既に見た不健全な推論(inference)の例のような顕在的な反応を生み出すことになるのか?、という興味深いが探求されざる疑問は残っている。

"Why Bayesian brains perform poorly on explicit probabilistic reasoning problems"preprint p.5より

ここで困るのが、reasoningとinferenceの訳し分けだ。ここではどっちも推論と訳したが、どっちも前提(入力)から過程を経て結果(出力)を導く所は同じだが、reasoningは主に意識的な(つまりexplicitな)判断の過程なのに対して、inferenceはより一般的な意味であり、無意識的な過程も含みうるところが違う。ここでは、間違ったinferenceをしてしまうreasoningをベイズ脳はどう説明できるのか?が問題になっている。正直、どう訳し分けるべきか?私には分からないので、原語を添えながら説明していきます。

論文ではこの後に、これまでの有力な説明としてサンプリング説などを挙げているが、ここではひとまずそこは飛ばして、後半の著者たち自身による説明を見てみよう。

この論文の著者たちはバイアスをどう説明するか?

まずはいきなり本人たちによる説明を引用してみよう。

私達の議論で最初に取り上げるのは、推論の過程(process of inference)と推論された内容(content being inferred)との違いの重要性である。例えばベイズ知覚では、脳はその感覚の異なる可能な隠れた原因の事後確率を推論する(infer)。
…中略…
この場合(バイアスをもたらす問題)では、個人は確率そのものを報告するように求められる。言い換えると、確率は推論された内容である。 つまり、知覚において脳は隠れ状態を通して(over hidden states)確率を推論(infer)しているが、明示な確率推論(reasoning)の問題には、確率について隠れ状態としての(as hidden states)推論(inference)を行なう個人が必要となる。

"Why Bayesian brains perform poorly on explicit probabilistic reasoning problems"preprint p.7より

正直なところ、知覚の説明は理解できるが、バイアスをもたらす判断(reasoning)の説明はよく分からない。この後で「状態や観察として確率を扱う生成モデルをベイズ脳が持っているべきだとする理由はない」(Figure 1.の注釈より)とも説明されているが、これでは説明というよりもバイアスを扱えない言い訳にしか聞こえない。論文では、さらに能動的推論との比較もされてるが、あまり内容は変わらない。

この論文、最後はバイアスをもたらす判断はベイズ脳の脅威ではない…と言い張っているようにしか見えなくて、正直ガッカリしかない。もう、統一理論だと言い張るのはやめた方がいいと思う。

ここまで読んできて、なんでこんなガッカリの論文を紹介したの?と思う人はいるかもしれない。しかし、この記事の本番はまだこれからだ。途中で省略した他の説明であるサンプリング説をここからは取り上げていく。ここまでに取り上げてきた論文中の説明が物足りないので、元の論文に遡って読んだら、こっちの方がよっぽど面白かった。それを紹介していきます。

### ベイズ脳でバイアスを説明するためのサンプリング説

これから主に参照する論文は次のものになります。

これは一部に実験も含まれた詳しい論文だが、もっと簡潔にサンプリング説を説明した論文としては次のようなものもある。

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/0963721420954801

ベイズを用いた式は、複雑になると直接に解くのは困難であることが知られている。そこで、現在ではMCMCに代表されるサンプリングによる計算法がよく用いられる。実際に解を導くためには何度もの多数回のサンプリングが行なわれている。もしサンプリングの回数が少ないと、初期値や偶然による偏りが出やすくなる。この考え方がサンプリング説の基本となるアイデアとなる。

サンプリング説によって説明できる分かりやすい例としては、連言の誤り(conjunction fallacies)が挙げられる。連言の誤りとは、Aだけの確率とAかつBの確率とを比べたら、必ずAかつBの確率の方が低くなるはずなのに、問題によってはAかつBの確率の方が高いと答えやすいことだ。連言の誤りとして最も有名なのはリンダ問題だが、ここでは別の例を挙げよう。

トヴァスキーとカーネマン(1983)は参加者に小説の四ページにある単語の数を推測させた。それは、-----n-のパターンと----ingのパターンであった。参加者は----ingの数をより高く見積り、より簡単にそれと分かった。これが意味するのは、より簡単に心的に取り出せる(sampled)ものが、よりありうるものとして見積もられることだ。[…中略…]----ingのパターンに合う単語は全て、-----n-のパターンにも合っている、だからそんなことはありえない。

"The Bayesian Sampler"p.720より

reasoningにおいては、サンプリング回数が少なくならざるをえないのでバイアスが生じるとする説明は私は見事だと思う。ただし、ただのサンプリング説だけではベイズを用いるべき理由にはならない。実際に、サンプリング説より前に既に統計理論プラスノイズ説というのもあって、サンプル回数が少ないほどノイズ(誤差)が生じやすいのだから、この点からは理論としての説明力はどちらもせいぜい同等でしかない。にも関わらず、なぜベイジアンサンプラーの方が有望なのか?の説明はややこしくなるのでここではしない。

異なるベイズ脳観による問題

サンプリング説による説明は見事なので、ベイズ脳にとってはとりあえずこれでいいじゃない?という気持ちにはなる。しかし、必ずしもそうはいかない。そもそもまだ説明できないバイアスがあるのでは?という疑問はここでは脇に置く(だから量子確率による説明の出番がなくなる訳ではまだない)。しかし、問題はそこではない。それはベイズ脳観の違いにある。

前半で取り上げた論文では、フリストンとの共著もある研究者なせいもあり、彼らの想定するベイズ脳は自由エネルギー原理(予測処理)に寄っている。それに対して、後半の論文では参照文献に予測処理関連の著書がほぼない(予測符号化だけならなくもない?)。つまり、想定されているベイズ脳がどこまで同じか?よく分からないのだ。

さらに、そこに伴う問題として自由エネルギー原理(予測処理)では基本的に計算法として変分(variational)法が採用されており、サンプリング法を取り入れてよいのか?よく分からない。むしろ、自由エネルギー原理にKL擬距離が理論的に取り入れられていることを考えると、(計算量の問題を別にしても)そんな簡単にはサンプリング法でもいいじゃん!…と言う訳にはいかないのかもしれない。

追記

  • 連言の誤りについての説明の間違いを修正(2022/11/6)

  1. ここでは、予測処理と自由エネルギー原理との違いは気にせず、同じような理論として扱う。なぜなら、ここではベイズ脳としての共通点だけを論じているからだ

ディスクレシア(読み書き障害)から考える人類進化の謎

しばらくここに記事をあげてないが、ブログに書きたいことはなくもなかった。

例えばハイエクニューラルネットワークの記事を書くつもりで、めぼしい論文からの引用まではした。感覚秩序の話だけ書いても物足りないのでその先も書こうと計画だけはしたが、そこから進まない。ハイエクの前期と後期を結びつける論文に書けるような話を、軽い気持ちでブログに書こうとしたのに無理があった。他にも、主観と客観(または実証主義構築主義)の話とかギブソン派の話(アフォーダンスは科学ではなく思想の言葉)とか、書きたい話題はあるが書く気が起きてない。

探索と活用のバランスを探る

で、今回書こうとする気が起きたのは、この記事を読んだからだ。

ディスクレシアとは、文字の読み書きに関する障害である。これは珍しい障害ではなくて、実は身近な人や有名人がこの障害である可能性は高い。この障害の人は、学校では苦労することも多いが、社会に出ると案外なんとかやっていけることが多い。(中にはいわゆる成功者もいる)。

地球上に生息するあらゆる動物は、生存のために価値ある情報や資源を探す必要がある。とはいえ、発見したものを活用せずに延々と探索を続けていては非効率だ。
反対に、あらゆるものを利用しても問題解決として最適ではなかったり、変化する環境への適応に失敗する可能性もあったりする。このように、「探索」か「活用」のどちらかに偏りすぎると、動物は生存に必要な資源や知識を得られない。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

これを読んで、この前ここに上げた記事を思い出した。

関連した説明を、別の論文から引用してみます。

上記のように,期待自由エネルギーは,
認識的価値 (epistemic value)と外在的価値 (extrinsic value) の和
として表現できる.上の関係から,外在的価値が期待効用に対応し,将来期待される世界のエージェントモデルに対する対数証拠と関係しうることを意味する.認識的価値は,将来の成果によって隠れ状態に提供される期待情報ゲイン(相互情報量)である

乾敏郎「自由エネルギー原理―環境との相即不離の主観理論―」p.381より

自由エネルギー原理における認識的価値と外在的価値は、引用したWIREDの記事における「探索」と「活用」に対応しているように見える。しかし、(自分の記事でははっきりとは指摘してはいないが悲観的予測の問題と関連した形で)認識的価値と外在的価値をどう足し合わせて期待自由エネルギーを導き出すのか?は分かりにくい…と思っていた。その私の懸念はどうも間違っていないようだ。

進化の歴史は、ヒトの社会が足りない部分を補完する戦略に特化してきたことを示唆している。このため、問題解決のための「探索」と、社会をうまく回すための資源や情報の「活用」はトレードオフの関係にあると考えられてきた。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

自由エネルギー原理では、そのトレードオフは個人の中でバランスをとることが目指されている。しかし、WIREDの記事では違う可能性が指摘されている。

自動化の遅れを伴うこのような情報処理方法は、非効率で手間がかかるかもしれない。しかし、そのトレードオフとして新しくより適切な戦略の可能性を模索し、そこで得た知識を既存の情報と統合する時間を提供する、ひいてはイノベーションを促進する可能性が示唆されているのだ。
程度の違いこそあるが、ディスレクシアは人口の約5〜20%を占めると推測されている。「ディスレクシアの代償的な利点がなければ、これほど一般的であるはずがない」と論文が強調する理由は、ディスレクシアの人々には変わりゆく環境のなかでものごとの全貌を把握し、解決法を見出す能力に秀でている可能性があるからだ。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

つまり、活用と探索のバランスが個人内ではなく集団内でとられることで、人類の環境への総合的な適応性を高めている。ここでいう集団とはpopulationのことであり、集団遺伝学における集団と同じだ。このような個人差を考慮した集団的な思考法は、(正統派)進化心理学における人の普遍性を探る思考法とは異なる(そもそも人類が文字の読み書きができるようになった時期は遅いし、文字のない社会そのものが珍しい訳ではない)。

ということは、認識的価値と外在的価値を足し合わせる普遍的な式があるのではなく、そこには個人差をもたらす変異がある可能性が高いと感じる。もちろん、自由エネルギー原理にはまだそんなことは書かれてないが、私には考慮すべきことに思える。

脳の構造にも表れる認知スタイル

ここまでがWIRED記事の前半の話で、後半はもう少し違う話が続く。それは脳の構造の違いにある。

ディスレクシアの場合、このマイクロカラム回路に関連する生理学的制約が、ローカル結合を“犠牲”にすることでより強いグローバルな結合を可能にしている。なお、自閉症の人たちは、これとは真逆の構造をもつことがわかっている。
このようなカラム構造の違いが、全体的な志向バイアスをもつ人(ディスレクシアの人)から細部志向のバイアスをもつ人(自閉症の人)までの認知スタイルのスペクトラムを生じさせる可能性がある。

読み書きが困難な「ディスレクシア」の特性が、人類の文化的漸進に貢献していた:研究結果 | WIRED.jpより

詳しくは元の記事を読んでもらうとして、ここで注目するのは前半との違いだ。前半は「活用と探索」の対に対して、探索に特化したディスクレシアの特徴が語られていた。それに対して、後半では脳の構造から、全体を見るディスクレシアと細部を見る自閉症の対が語られている。ここで前半と後半とで話題になっている対には対応関係はないように思える。自閉症は活用が得意だ…と考えるのは不自然だからだ。「活用と探索」の対と「全体と細部」の対は次元が違うと考える方がしっくりくる。


ラカン精神分析における自閉症

ここからは、(事実レベルの嘘はないはずだが)私の勝手な見解が多く含まれます。

最近、ラカン精神分析における自閉症論をいくつか読む機会があった。私の感想としてはお話としては面白いと思うけど、ラカン自身が自閉症を診た気配があまりないのと、ラカンが亡くなった後の自閉症研究の進展を考えると、あまり本気で受け取らない方がいいと感じる。読んだ論文も(もはや時代遅れの)アームチェア精神病理学の印象を強く感じるものばかりだった。

ラカン精神分析神経症と精神病(統合失調症)との対を基盤に据えた理論だが、そこに自閉症を位置づけるのに無理を感じる。ラカンの理論は言語(シニフィアン)1の理論だが、そこに位置づけようとすると自閉症を言語の障害として捉える必要がある。次の論文がその典型だろう。

詳しくは各自で読んで判断してほしいが、私は無理を感じる。次の論文は、同じような現代思想的な説明も多く含まれるが、むしろそれをも批判する構想力の観点に注目してる点ではより興味深い。

google:隠喩としての自閉症 構想力の盗用をめぐる試論

自閉症のより科学的な説明では、バロン=コーエンによる心の理論の障害説がある。これは社会性に注目した視点だが、他にも見えてる向こう側が想像できない事例も指摘される2。ここに共通するのは、逆問題を直観的に(無意識的に)解くことの困難だ。逆問題についてはこのブログでも前に触れた。

逆問題を解くとは、大雑把に言えばデータに知識を付け加えることだ。この場合の知識は認識できる世界を広くもしてくれるが、世界に偏見を加える点ではバイアスでもありうる。ここには、(ディスクレシアと同様に)自閉症の持つ人類の適応性への貢献の秘密がある気がする。3


  1. ただし、現代思想的なこの言語観は私には狭くも感じる。これだと言語は身体的でない…とみなされやすいが、実際には言語の中には身体的な要素は様々な形で含まれている(例えば認知言語学を参照)。私自身は言語は思考や身体や社会性など複数の心的な要素の交差点だと思っている

  2. 単に想像そのものができないアファンタジアという障害もあるが、これは別物。この障害は(イメージ-命題論争における)イメージ派を支持する私には衝撃なのだが、その話はここではしない

  3. ごめん。この辺りで記事を書くのが面倒になった。でもここからは、主観客観問題にもギブソン派(特に直接知覚説)問題にも繋げられるのだが、すでに切りがない。精神分析では人類の多数派とされる神経症こそが「活用」の側では?とも思ってたが、根拠のない妄想なので本文に書くのはやめた。

書評 ファニーハフ「おしゃべりな脳の研究」

おしゃべりな脳の研究――内言・聴声・対話的思考

人の内なる声について、科学的成果を交えながら、それを研究する心理学者が分かりやすく伝えてくれる著作

内言や聴声について、専門に研究してる心理学者が、科学的な成果や様々な文献を参照ながら、一般向けに分かりやすく語った著作。前半は思考時に起きる心の中の言葉(内言)について、後半は実際には存在しない声がリアルに聞こえる現象(聴声)について、科学や文学からの色んな事例を取り上げて説明してくれている。ただし、内言と聴声を結びつける著者独自の考え方に基づいているが、そこは当人も認めるように証拠はまだ十分ではない。とはいえ、日本語で内言や聴声について科学的に扱った著作は珍しいので、興味を持ったならお勧め。

原題は「内なる声 どのように私達は自分自身と話すかの歴史と科学」。外からは分からない心の中で生じる声について、心理学や脳科学を参照する科学的な章と、文学や歴史を参照する人文的な章と、がだいたい交互に置かれて説明されている。

前半は内言研究の紹介。内言とは人が思考するときに心の中で話す言葉のことであり、ロシアの心理学者ヴィゴツキーが取り上げたことでよく知られている。内言は外からは分からないので研究は難しそうだが、元からは独り言(私的発話)の研究として、近年は脳画像の研究として、調べられている。この著作では特に、著者自身も関わった経験サンプリング法と呼ばれる、突然にブザーがなった時間にすぐに内的経験を聞く手法に基づく記述が多いのが特徴だ。科学書としてみた場合、この前半が断然に面白い。

後半は聞こえないはずの声が現実と同じように聞こえる聴声がテーマとなる。聴声は幻聴とも呼ばれて異常扱いされがちだが、必ずしもそうではないことが説明されている。ただ後半は精神病理学的な側面が強く、前半とはちょっと様子が違う。著者独自の理論によって内言と聴声には関連があるとされて、それによって前半と後半がつながっている。

内言であれ聴声であれ、まとまって日本語で読める科学的な著作は他にないので、貴重な翻訳である。科学的な視点からみると物足りない所がなくもないが、そもそも発展途上の研究テーマなのだ。最終章を見ると、この研究テーマについて課題と共に語られていて、それ自体が興味深い章となっている。

あまりハードルを上げずに気軽に読めばいい本だと思うが、気になるところがなくもない。聴声を内言と結びつけるのは著作独自の理論だが、これは本文でも描かれているように当の聴声者による反発に合っているが、確かに無理がなくもない。(作業記憶と結びついて)制御可能な内言と制御不可の聴声を関連付けるのは厳しいと感じる。

疑問に感じる部分も少しなくもないが、そこも含めてこの本は読む価値がある。翻訳も良好で全体的に読みやすい。なにより内言と聴声について科学的な成果に触れながら分かりやすく書かれた日本語の著作は今のところ他に見当たらない。そして、この本には著者自身の関心と専門に基づいているからこその良さに溢れている。

おしゃべりな脳の研究――内言・聴声・対話的思考


書評の本文から抜いた詳しい批判

実は私自身も若い頃に近い状態(軽めの言語性幻聴)になったことがあるが、その経験からも内言と聴声の関連については無理を感じる。本文でも指摘されているが、聴声は解離での説明の方が適切だと感じる。つまり、つらい現実の自分から無理やり心を引き離すのが解離であり、解離こそが幻聴(聴声)を生み出すはずだ。

解離が聴声と内言を結びつけるとする著者の説明はいまいち説得力がない(著者も薄々気づいている)。厳しい環境を生きた古代人の例も考慮すれば、環境からの強すぎるストレスが本人の持つ信念・道徳・信仰・世界観と結びついて、聴声が起こるのであり、そこに内言の入る余地があるか?怪しい(予測処理論を持ち出しても、説明できるのは声の帰属までであり声の発生までは説明できない)。

著作全体としては著者自身の関心と研究履歴に沿った内容であり、そうなのは正しいと思う。だが、やはり前半の内言と後半の聴声は、それぞれが興味深い内容なのだが、内容としてきれいに繋がっているとは言いがたい。聴声に合うように内言モデルを広げることが正しいのか?疑問に感じる。

とはいえ、聴声を精神的な異常としてではなく、正常な心的な防衛機能として捉えようとする本書の試みは素晴らしいと思う。そのような著作は日本ではまだ珍しいので、その点でもこの本はお薦めできる。