日本には保守主義もリベラルもネオリベもろくに存在しない
日本の政治的な状況を語る上で、学術的な用語が使われることは多い。しかし、こうした言葉は元々は欧米から輸入された用語であるが、元の意味とは違って使われたり、日本の事情には合ってなかったりすることはよく見られる。
保守主義やリベラリズムや新自由主義はそうしたよく使われる言葉であるが、本来の意味で使われなくなっているので、日本で用いるのはむしろ害悪と感じることが多い。
今の日本には保守主義なんてほとんどない
日本で保守と呼ばれる人たちは、特定の伝統を復興させようとしている人たちが多い。しかし、このような伝統を復興させようとするのは、元々の保守主義の意味ではない。
保守主義とは、フランス革命の後にできた概念であり、革命による急激な変革の危険性を訴えて緩やかな変化をすべきだとした考え方だ。つまり、特定の伝統や道徳を復興させようという立場は、本来の保守主義ではない(だいたい、本当の保守主義なら、学校で道徳を教えられると思うのが変だ)
では、日本に跋扈する右翼的な人たちをどう呼べばいいか?といえば、反動主義と呼ぶのが相応しい。伝統主義という方が中立的かもしれないが、あまり事実に基づかない妄想の伝統を復興させよう(というより他人に押し付けようとしている)ので、反動主義と呼ぶのが相応しい。
こういう反動主義的な動きというのは、日本だけでなく欧米でも見られるものである。今ここに既にある伝統を重視する保守主義と、これこそが伝統だ!と言挙げする反動主義は区別しないと、話がややこしくなるだけだ1。
今の日本にはリベラリストなんてほぼいない
日本では政治的に左の人たちをリベラルと呼ぶことが多い。しかし実際には、日本でリベラルと呼ばれる人たちの多くは本来のリベラリズムの特徴には当てはまらない。
リベラリズムとは、直訳すると自由主義だ。だが、日本でリベラルと呼ばれる人たちは、自由を大事にしているようには見えない。なんか権利を叫ぶ人たちを雑にリベラルと呼んでいるところがあって、訳が分からなくなっている。
元々はリベラリズムは、自由を重視する立場を指しており、それは今では古典的リベラリズムと呼ばれている。最近のリベラリズムの用法の起源は、おそらくロールズにあると思われる。でも、たぶん日本でリベラルと呼ばれる人の大多数はロールズをろくに知らないと思う。
ロールズのリベラリズムの基本は、自由と平等のバランスをとることだ。その点では、当時の左翼の代表だった共産主義的な左翼とは異なる。そして、ロールズ以後に出てきたリバタリアニズムという自由を至上価値とする立場とも異なる。つまり、リベラリズムとは本来は右翼と左翼から中間的な立場を意味していた。
あるポッドキャストを聞いていたら、J.S.ミルをリベラリズムの祖みたいに言っていて、なるほど!と思ったことがある。確かにミルは、功利と自由のバランスをとろうとしてるところが、現代的なリベラリズムと似ている。つまり、リベラリズムとは、個人的価値(自由)と全体的価値(功利または平等)でバランスをとろうとする立場とも言える。
ミルとロールズの共通点には、公私の区別がある。これも、自由と平等(または功利)とを両立させるための工夫であると言える。その点では、公私の区別を否定するポストモダン・フェミニズムは、さっぱりリベラリズムではない(じゃあ、どうやって自由と平等を両立できるか?教えてくれ!)2。
私に言わせれば、日本によくいる弱者(としての少数者)の味方ごっこをしている左翼とは、ポストモダン左翼であり、リベラリズムではない。この言い方に倣えば、日本の(ネトウヨ的な)反動主義はポストモダン右翼に他ならない。どちらも、(少数者のを含む)特定の価値の押しつけ合いでしかない(普遍的な価値など全く信じてない点がポストモダニズムだ)3。
今の日本は新自由主義とはとてもいえない
日本の左翼的な人のする批判に、日本はネオリベだから駄目なんだ!がある。しかし、冷静に考えると、日本は新自由主義の特徴にはあまり当てはまっていない。
新自由主義について、このように書いてある論文を見つけた。
このように斉一的な変化は確認できない一方で、他者に付与する否定的な人格カテゴリーとしての使用法は隆盛していた。その適用基準は事実上無限定で、概念としての実質性を保っていないまま、対話を切断する役割を果たしている。この点を踏まえると新自由主義という言葉の使用を停止するという提案にも首肯できる面がある。
仁平典宏「新自由主義に関する複数の記述をめぐって」p.42より
私はこう言われても仕方ないと思う。
新自由主義とは、政府の機能を民間に移転させて政府を小さくしようとする考え方である。ここには、中央集権的な政府よりも分散的な市場の方が効率的だと考える背景があり、規制緩和は市場を効率的にするための手段である。
しかし今の日本を見ていると、オリンピックや万博に公的資金を投入したり、増税を次々行なったりと、他にも謎政策が多すぎてさっぱり市場を信用してないし、政府が小さくなる気配もない。これなら、むしろ本気で新自由主義をやってくれる方がまだマシだ。
自己責任論的な思想をネオリベと呼ぶこともあり、それは(体制としてではなく)精神としての新自由主義だ。精神としての新自由主義は、本来は体制としての新自由主義に伴う思想であり、精神だけを指して新自由主義と呼ぶのはややこしい。
日本に跋扈しているのは、政府をもビジネスとみなすある種のビジネス主義であって、新自由主義ではない。そう考えると、オリンピックや万博を推進したり、増税をしたりする理由が見える。彼らは政府を企業と同じとみなしているのだ(政府を企業と同一視するのは問題があるのだが、面倒なのでここでは論じない)。
日本で新自由主義批判で騒ぐのは、日本の現実から目をそらす役割しか果たさないので、正義感だけでそういう下らないスローガンを叫ぶのはやめてほしい。
アメリカの新自由主義以後の動きを少しだけ
実は、アメリカでは本来の新自由主義が盛んだったのは(20)00年代までであり、リーマン・ショック以後はだんだん弱まってきた(ティーパーティーの勢いを思い出すと良い)。10年代半ば以降は、トランプ元大統領のように政府をビジネスとみなす動きが起こっていた。
大統領が変わってからは政府のビジネス化はなくなったが、アメリカの有名IT企業家に見られる加速主義(実質は社会ダーウィズムの現代的な言い換え)は、なんでもビジネス(又は技術)で解決的な思考にはまっている。しかし、こうした思想は最近は批判されつつある(例えば最近のイーロン・マスクを見てくれ)。
この裏には、新反動主義だの合理的楽観主義だの、いろんな思想的な流れがあるのだが、ここまでにする。はっきりと言えるのは、よく理解してもいない言葉4をスローガン的に叫ぶだけなのはやめてほしいことだ。
- 本来の保守主義は近代主義に反しない(保守主義の祖のバークは議員だった)が、反動主義は近代主義に反する要素が強いところが違う。日本でネトウヨが「サヨクガ〜」と騒ぐときは、その反発してる内容は左翼的なことより近代主義的なことがよくある。これはネトウヨの反動主義的な特徴に由来する(ちなみに、ネトウヨにはネットで騒ぎたいだけな2ちゃんねらーの末裔的な特徴もある)。↩
- 問題は、公私の区別を否定することではなく、公私の境界をどこに置くか?である。ここには、社会科学で言われている公式の制度と非公式の制度の区別がついてない事と関わっている。非公式の制度は簡単に変わらないし、変えられる!と安易に言う奴はただの無知(他人の自由を縛るべき!と言ってるのと変わんない)。すぐ変えられる所とゆっくり変えるしかない所を分けないと不毛だ。↩
- だからといって、普遍的価値を信じるべき!と言っているのではない。自分の信じる価値を訴えることばかりに夢中で、どうすればより多くの人に納得できる結論に導けるか?に無頓着なのが駄目だ。↩
- 始めは、輸入された言葉(左翼やビジネルマンの喋るカタカナ語)と書こうとしたが、ネトウヨの謎左翼観も事情は同じと思って、そう書くのはやめた。ちなみに、本文には書かなかったが、ビジネス主義な人たちには右翼左翼に対して中立的だと思っている人もよくいるが、さっぱり中立的ではない。たぶん、こういう人たちのことはエクセン(極端な中道;元々は新自由主義的な立場を指していたが、中立ぶりっ子のビジネス主義にも相応しい)と呼んでもいいかもしれない。ちなみに、ビジネス主義という言葉は一般には使われていない(ここで述べたそれ以外の主義はだいたい使われている)。更に付け加えると、日本のビジネス主義は一様ではなく、ソーシャルビジネスへの関心で左右に分かれる。ソーシャル(社会的)なもののためにビジネスを考える左派ビジネス主義と、ビジネスとして成り立てば何でもいいとする右派ビジネス主義がいるとしたら、ここで触れたビジネス主義は右派ビジネス主義に属する(そしてなぜか男性が圧倒的に多い)。アメリカでも、有名IT企業家が好む新反動主義や加速主義はまさに右翼の思想としか言いようがない。右派ビジネス主義の特徴は、ビジネスの自己目的化であり、ビジネスのためなら規制緩和でも補助金でもなんでも受け入れる(使えるなら平気で政府でも使うのが新自由主義とは違う。最近の日本のAI論はビジネスに役立つか?ばかりになっていて軽くウンザリしている)。私の印象では、新自由主義は下流の経営者の思想(自己責任論の奴隷)であり、上流の経営者は始めから右派ビジネス主義なんだと思う(脱税のためなら制度のハッキングは厭わない)。↩
人の振る舞いのルールは変わるのか?を哲学的に考える
最近インターネットである記事を読んでいたときに、クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」における議論が、ルールの改定を含意してるかのような言い方をしているのが目についた。これは端的に間違っているので困ったなと思ったが、この話は前々から書きたいテーマと結びついているので、試しにここで論じてみようと思う。
クリプキの議論にはルールの変更が含意されているのか?
クリプキが「ウィトゲンシュタインのパラドックス」で提示したクワスの議論は、クリプキによる独自のウィトゲンシュタイン解釈を示すものとして知られている(時にクリプケンシュタインと揶揄的に呼ばれる)。クリプキの議論は、規則に従うこと(rule following)についての議論として様々な学者によく論じられている。
クリプキの議論は、計算で使われている「+」が通常の加算である「プラス」なのか特殊な加算である「クワス」なのか区別がつかないという話だ。この議論は、次にリンクした論文ではパトナムのモデル論的論証(特に入れ替え論法)と同型の議論だとしている。
藤田晋吾「ウィトゲンシュタインの数学の哲学」
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/3229/files/11.pdf
私もクリプキの議論とパトナムの議論はそっくりだと思う。そもそもパトナムの議論(モデル論的論証)は、クワインの指示の不可測性やグッドマンのグルーのパラドックスを一般化したものであり、これらは全般的に反実在論的な議論とされている1。
反実在論的には、そもそもルールの変更なんて存在しない
これらの反実在論的な議論に見られる共通の特徴とは何か?それは、他人の従っているルールを客観的に特定することの不可能性である。それを説明するために、ここではグッドマンによるグルーのパラドックスを(少し変えて)取り上げる。それまで見かけたエメラルドは全て青色だったので、「エメラルドはアオである」と考えるとする。そこである時に緑色のエメラルドを見たとしたら、「エメラルドはアオである」は間違っているのだろうか?もし、アオが全てが青色である(ブルー)を意味してるなら間違っていると言えるが、そもそもアオがある時点より前なら青色である時点より後なら緑色である(グルー)を意味してるとしたら間違っているとは言えない。つまり、使われている「アオ」が「ブルー」なのか「グルー」なのか分からない…と考えると、クリプケンシュタインと同型の議論になる。
ここで重要なのは、それまでの事実が全て確定されていたとしてもどのルールに従っているのか?は客観的には分からないことだ。反実在論的な議論にとって重要なのは、ルールが確定できないことであって、ルールの変更とは何の関係もない。グルーのパラドックスを見ての通り、ルールの変更(青色から緑色へ)そのものがルールの一部である。ルールの変更そのものが基準となる規範的なルール(青色や緑色)からしか理解できないのであるが、その基準となるルール語にも再びパラドックスが当てはまってしまう 2。
反実在論的な議論はそれ自体がとても興味深いものであるが、切リがないのでここではこれ以上の深い話はしない。次は、こうしたルールについての勘違いがどうして起こるのか?を探ってみたい。
ルールについての議論が勘違いに陥る理由を探る
人々は文字通りに法律を守るべきなのか?
インターネットを見ていると「法律を守れ!」と熱狂的に叫んでる人をよく見かける。この人たちは、人が法律を守るのは当たり前だと思っているようだが、私は変な人たちだな?としか思わない。
そもそも、この世に文字通りに全ての法律を守っている人などいない。もしいるとしたら、その人は全ての法律を知っていないといけないが、もちろんそんな人はいない(いたら、むしろ狂人)。(公務員や法的試験を受けた資格者のように)職業上で法律を守っている人はいるが、その人たちだって日常生活では文字通りに法律に従っている訳ではない(そもそも仕事に関連した法律以外は知らないはずだ)。
たとえ法律を知っている資格者であっても、人々が法律を守っていないよく知られた事例がある。それは車の制限速度だ。日本では車の制限速度を文字通りに守っている人は少ない(むしろ制限速度を守っていると嫌がらせを受けることさえある)。そんなに法律を守るべき!と騒ぐなら、もっと制限速度を守れ!と騒ぐべきだ。「法律を守れ!」と騒ぐ人たちは、(自分に都合よく)選択的に特定の問題で騒いでるだけとしか思えない。
法律のそもそもの役割は紛争解決機能にある。法律は人々がそれに従うためにある訳ではない。人々が法律に従っているように見えるのは結果であって、人々が意図して法律に従っている生活している訳では必ずしもない。人が赤信号を渡らないとしたら、もちろん事故にあいたくないのが一番だが、たとえ事故にあっても自分に責任はないと言えるからでもある。逆に言えば、自己の責任で赤信号を渡ることが絶対に禁止されている訳ではない(ただしお勧めもしない)。あくまで、法律は人々の生活のため(生活の中での紛争を解決するため)にあるのであって、逆なのがおかしい。
ここからは法哲学(法のルールとは何か?)や社会科学の哲学(人の振る舞いのルールとは何か?)での議論にも突っ込めるが、ここまでにしておく。なんで、こんな法律の話をしたのか?と言うと、それは次の話につなげるためだ。
記述的ルールと規範的ルールを区別する
クリプケンシュタインへの勘違いや法律守れ論に共通する間違いは何か?それは記述的ルールと規範的ルールとの混同だ。
人々の振る舞いが文字通りにどんな風な規則性を持っているのか?を表すのが記述的ルールだとしたら、(目的はどうであれ)人が従うべき規則性を表すのが規範的ルールである。この二つは全く別物なのに、ごっちゃにされがちだ。
人がルールを守ったり変えたと言えるためには、外から観察できる振る舞いを評価する基準が必要である。そのためには、規範的ルールとの比較が必要となる。対して、記述的ルールの場合は、そのルールを知れるか?だけが焦点であり、ルールを守ってるとか変えたとかの評価とは関係がない。 人がどんなに突飛な振る舞いをしようとも、記述的には必ず何かしらのルールに基づいている(守ってるのではない)と言える。
ただし、規範的ルールについては論理や数学に当てはめようとするとややこしいことになるのだが、ここではその議論はしない。 しかし実際のところ、記述的ルールと規範的ルールの混同による誤りがよく見られることには変わりがない。
セラーズ右派と左派への分岐をその起源に遡ってみる
最近読んだ、川瀬和也「言説的実践とヘーゲル的相互承認」という論文が面白かった1。
この論文の中で、セラーズ左派とセラーズ右派の話題が出てきて、気になったところがあったので、参照文献からその元となる論文 James R. O’Shea"Introduction : Origins and Legacy of a Synoptic Vision"を探したら、見つかったので読んでみた。
このO’Sheaの論文を読んだ結果、冒頭の論文で読んだセラーズ右派とセラーズ左派の説明に感じた私の懸念は当たっていたようだ。
セラーズ右派と左派は言語使用の説明を議論の出発点にするという、語用論的な枠組みを共有している。
川瀬和也「言説的実践とヘーゲル的相互承認」p.70より
論文では、この後でセラーズ右派と左派で言語実践をどう説明するか?の違いを論じている。言語実践についての説明部分は、この引用の文が正しいかどうか?に関わらずに読めるので、論文全体への影響は少ない。この論文そのものは面白いのでお勧めできる。ただ、部分の小さな疵がどうしても私には気になってしまったので、ここで語ってみようと思う。
セラーズ派の分枝の源を探る
まずは、 James R. O’Sheaによるセラーズ派の説明を翻訳して引用しよう。
セラーズ左派(おそらく最も有名な例としてはRichard Rorty, Robert Brandom, John McDowell, and Michael Williams,他)であり、典型的なセラーズ右派(大抵そうみなされるのはRuth Millikan, Paul Churchland, Jay Rosenberg, Daniel Dennett, and Johanna Seibt,他)は、規範的なものは究極的には消去可能または科学的に自然なものに還元可能だと信じている。
James R. O’Shea "Introduction : Origins and Legacy of a Synoptic Vision" p.2より
ここでの右派と左派の分類に個人的な意見がなくもないが2、それは脇に置くと、大事なのは規範(norm)と自然(nature)との関係である。言語は規範的なものの代表かもしれないが、議論の出発点と言うのはさすがに言い過ぎだろう。私の印象では、セラーズ右派は最終的には言語実践をも(特に進化の側から)説明したいと思っているが、実際にはそこまで成功してるようには見えない。
ここでの規範(norm)と自然(nature)との関係は、セラーズの有名な論文に源がある。それはSellars"Philosophy and the Scientific Image of Man"(「哲学と人間の科学的イメージ」)における、manifest image(明白なイメージ)とscientific image(科学的イメージ)の議論に遡る。科学的イメージとは、自然科学によって得られるような世界観である。明白なイメージとは、私達が当たり前のように理解している世界観であり、これによって人は世界の中で人として生きていくことができるような世界観である(フッサール的にはこれは生活世界に値するかもしれない)3。
セラーズが生涯をかけて哲学的に試みたのは、明白なイメージ(規範)と科学的イメージ(自然)をどう総合させるのか?であった。この疑問に対して、左派は規範寄りに右派は自然寄りに統合を果たそうとしていると言える(ただし、セラーズ自身は一方への還元を望んでいたとはあまり思えない)[^3]。
それにしても、セラーズが提示したい二つのイメージは様々なところで変奏されて現れてくる。前回の記事にあったように、構築主義と進化心理学との対比にも似たところがあり、文化(学習)と進化の統合が目指されていた。統合なんてそんなにはできやしない。
- ただし、以下で触れるセラーズ派の話題の他にも、私にはよく理解できない部分もあった。「私が見る限り、この問題の根は、ブランダムが哲学的説明において公理系モデルに囚われていることにある」(p.70)とあるが、論文での説明を読んでも私の知識からしても、ブランダムの哲学のどこが公理的か?さっぱり分からない。公理系とは、ユークリッド幾何学のような第一原理から始めて全体を導くタイプの体系を言う。基礎付け主義は公理的だと思うが、ブランダムは全く基礎付け主義的ではない(むしろ逆)。ブランダムの推論主義はダメットの証明論的意味論との関連もあるが、そこから考えても全然公理的ではない。そもそもブランダムの哲学が非プロセス的だというのも、私にはとても承認できない(私には逆に見える。ただし、ヘーゲルの精神現象学を文字通りの発展[発達や進化]と読むなら話は別だが、今どき[なんの再構成もせずに]その読み方をするのは、[ヘーゲル自身がどう考えていたのであれ]問題がある[科学的に否定されておしまい]。この論文の著者には公理系について根本的に勘違いがあるように思える)。ただし、この部分は論文全体への影響がほとんどないので、論文の価値をそこまでは下げることはない。↩
- 例えば、(素朴心理学の)消去主義で有名なポール・チャーチランドを右派に入れてるが、左派の代表であるローティは消去主義の初期の提唱者としても知られている。つまり、消去主義者であることは右派か左派か?の基準には使えない。↩
- Millikan, R. "The Son and the Daughter: On Sellars, Brandom and Millikan"において、ミリカンは「論理哲学論考」の前期ウィトゲンシュタインと「哲学探究」の後期ウィトゲンシュタインの関係として、セラーズの二つのイメージを説明してる(もちろん「論考」が科学的イメージで「探求」が明白なイメージに対応)。↩