現代的な観念論の科学との対決を見届ける

まず始めに、前回の記事でまとめた現代的な観念論の中心的な特徴を確認しよう。

私たちの経験する世界は意味(又は概念)で満たされており、その外側なんてない

次になすべきなのは、観念論の科学との対決を見ることである。なぜなら、現代に観念論が否定される最大の理由が科学的な見解を否定もしくは相対化するものとして捉えられているからだ。

とはいえ、観念論の科学との関係は一様ではない(むしろ科学との関係が曖昧な方が多い。例えばローティの哲学は観念論的にも見えるが科学との関係は分かりにくい)。ここでは代表的な二つの立場を検討しよう。

科学的実在論と敵対する観念論

まず最初に取り上げるのは科学と直接に対立した試みとしての観念論である。その代表はマクダウェルマルクス・ガブリエルだと思われる。その前に、この立場を暗示する前の記事からの再引用をしてみる。

観念論は唯物論(materialism)とは対照的に理解される。唯物論は物の特性を超えた何かとしての心のリアリティを否定するが、観念論は心から独立した物のリアリティを否定しても、心のリアリティはほとんど否定しない。

PAUL GUYER AND ROLF-PETER HORSTMANN"Idealism in Modern Philosophy"p.4より

マクダウェルの露骨な自然主義やガブリエルの自然主義とは、物理的な存在しか認めない存在論自然主義のことである。つまり、彼らの観念論(的要素)は唯物論と対立しており、排他的な関係にある。それがマクダウェルの静寂主義(哲学や科学が余計な口出しするな!という意味では沈黙主義と訳すべきと思う)に反映されている。

彼らの立場は、かなり反科学に近いとも見えるが、そこまで行かなくとも科学に対してとる態度が冷たいのには変わりがない。しかし、彼らのとる科学観が古臭い還元主義にしか見えなくて、元々は還元主義嫌いの私でも不毛感が拭えない。

この立場では観念論の捉えるリアリティと科学が捉えるリアリティが分離しており、排他的な関係にしか見えない。それは観念論と唯物論(科学的実在論存在論自然主義)との対立がそのまま反映されている。

しかし、現代的な科学観としてはもう一つの自然主義である方法論的な自然主義もあり、こちらの立場からマクダウェルの静寂主義を批判する哲学者もいる。 どちらにせよ、還元主義によって科学を代表させるのは古臭いし、唯物論(物理主義) についてももっと多様な議論がある。

私からすると、こちらの立場の観念論には、少なくとも科学との対決の点では評価すべきところがあまりない。

多様な経験の中に科学を位置づける観念論

しかし、これだけが観念論と科学との唯一の関係ではない。

オークショットは経験をいくつかの様態(mode)に分けており、主に歴史と科学と実践が挙げられている(場合によっては哲学や詩も加わる)。セラーズにおいては、科学的イメージと自明なイメージ(常識的なイメージ)が取り上げられている。

彼らにおいては、科学的経験そのものが観念論的に位置づけられる領域であり、敵対的な関係にある訳ではない。ただし、オークショットにおいては、異なる様態の間を安易につなげることは不当推論として糾弾されている。セラーズの場合は生涯を通して、科学的イメージと自明なイメージとの間を調停することが目指されていた。

ブランダムは科学について明示に論じることがほとんどないが、彼のボキャブラリー(語彙)の考え方1は、領域によって言葉や語り方が違うことが暗に含意されており、マクダウェルよりもセラーズに近く感じる(むしろマクダウェルにはガダマー[解釈学の基本は自然科学と精神科学の対立にある]の影響を強く感じる)2

マルスク・ガブリエルには(反自然主義の方向だけでなく)こちらの方向に近い匂いもする(領野の多元性)のだか、私にはそれを語る準備がないので、ここでは論じない。

観念論の科学との対峙はうまくいったのか?

現代における観念論への敵対視には、その反科学的な側面に原因があった。その点では、存在論的な自然主義に基づく科学観によって唯物論と対立する観念論よりも、方法論的な自然主義と両立しうる科学観によって科学的営みを内側に取り込む観念論の方が有望に見える。

しかし、現実には観念論による科学論というのはほとんど進んでいない。当のオークショットやセラーズもそこまで詳しく科学を論じている訳ではない。この辺りはこれからの課題といえる。

どう観念論を現代的にアップデートするか?

科学的な自然主義による観念論への敵対視の源の一つにはマルクス主義がある。だが、こうした観念論批判はエンゲルスレーニンに基づく正統派マルクス主義によってなされていた。でも、今の時代にその当のマルクス主義が科学的(空想から科学へ!)と思っている人はあまりいない(いたらただの不勉強)。

しかし、当のマルクス自身がしていた観念論への態度はそれとは異なる。マルクスの重要な主張には、主に資本主義批判(システム批判)とイデオロギー批判がある。イデオロギーとはideologyでidea+logosであり、そのままだと観念学と訳せる。だが実際にはイデオロギーは当の(大抵は誤った)観念そのものを意味するようになった。イデオロギー論とは観念が生じた物質的な基盤を探る試みである。

マルクス主義は反観念論と思われがちだが、マルクス自身は観念論と唯物論(フォイエルバッハ)の対立を乗り越える哲学(実践論?)を目指していたように見える。そう考えると、観念論とイデオロギー論とは観念に対する態度の違い(批判的かどうか?)であって、対立的な関係とは言い切れない(アルチュセールによる「イデオロギーに外部はない」という言葉は観念論の特徴そのままだ) 3

セラーズはプラグマティズムに属するとされ、オークショットにはハイデガー(「存在と時間」)からの影響が強い。一見すると、オークショットは(ハイデガーと共に)プラグマティズム嫌いだが、それに惑わされてはいけない。彼らの知っていたプラグマティズムはウィリアムズ・ジェイムズによる流行りの形でしかない。実際にはプラグマティズムハイデガー的な現存在分析には類似の側面がある。

観念論を敵対視することなく、日常言語学派とプラグマティズム(または現存在分析)と組み合わせることで、科学と対立しない生産的な観念論を展開することは可能だと思う。


  1. ブランダムのボキャブラリーという考え方はローティの影響から生じているが、この考え方の中にオークショットの会話のアイデアが生かされている可能性さえある。ローティがオークショットを高く評価してるのは「哲学と自然の鏡」を読むと分かる。だとしたら、ブランダムはローティに次ぐ異なる観念論(セラーズとオークショット)のハイブリッド理論ということになる(ただし隔世遺伝)。
  2. ブランダムもマクダウェルもどちらもセラーズが師にあたるが、セラーズが師だから観念論になる訳でもない。ブランダムとマクダウェルはセラーズ左派に分類されるが、ミリカンやデネットのようなセラーズ右派は観念論的な要素があまりない。代わりにセラーズ右派では科学的イメージと自明なイメージとの調停という問題意識が受け継がれている。
  3. 一見するとアルチュセールヘーゲルを批判してるが、彼のイデオロギー論の基盤となるラカン精神分析はコジェーブを介してヘーゲルの影響を受けている。そのせいかラカンの理論には観念論の匂いがする。アルチュセールの科学認識論は表面的にはスピノザの影響(第一種の認識が第一の一般性に)を感じるが、既存の認識に含まれるイデオロギーを排して科学的認識に向かっていく図式は弁証法的にも見える。ただし、これまでのアルチュセール論者は既存のマルクス主義に目を曇らされて、この辺りの事情が見えてない。この点からアルチュセールをもっとも正しく読めてるのはフレドリック・ジェイムソンぐらいだろう。

哲学史上の現代的な観念論の特徴を見つけ出す

前回の記事では、観念論についての一般的な説明を紹介した。だが、その説明ではバークリーとカントの観念論までに留まっていて、哲学史的なその先には触れられていなかった。それを少し追いながら、現代に相応しい観念論の理解を探ることになる。こんな試みは参考になる先例があまりないので、上手くできると良いのだか…

なぜ私が観念論にこんなに関心を持ったか?というと、それはイギリスの政治哲学者オークショットの影響だ。

観念論者としてのオークショット

元々オークショットの哲学は好きだったのだけど、いくらか前にオークショットの"On human conduct"の未訳の第一章の原文をネットで手に入れたので、気まぐれでそれを(半ばまで)読んでたら興味が出てきて、改めてオークショットについて調べるようになった。そしたら、(保守主義として知られるよりも前の)初期のオークショットの処女作が観念論的な著作だと知って、そこからどんどん話が広がっていった途中経過をまとめよう…がこの記事を書く動機になっている。

あまり知られてはいないが、彼がはじめて出版した本は『経験とその様相』(Experience and its Modes :1933)という形而上学についての著作である。この本のなかではOakeshottは絶対観念論者であり、現実は思考するという経験に他ならないと力強く主張している。この本の序論でOakeshott は次のように述べている。「私がそこから最も多くを学んだと自覚しているものは、Hegelの『精神現象学』と Bradleyの『現象と現実』である」(Oakeshott 1933, 6)。

白水大吾「理念なき絶対観念論 : F. H. Bradleyの形而上学についての試論」p.44より

近代哲学史における観念論の公式な位置づけ

一般的な哲学史的な理解だと、観念論はバークリーにカントと来たあとは、ヘーゲルに代表されるドイツ観念論まできたら、その後はマルクスなどによる観念論批判になって消息が分かりにくくなってしまう。しかし、実際にはイギリスやイタリアに観念論が受け継がれていた(ブラッドリーはイギリス観念論の代表)。だが、それもすぐに批判が続いてしまい、やはり消息が分かりにくくなってる。

現代において実在論と呼ばれているのは、20世紀初めのラッセルやムーアによるイギリス観念論への批判があり、そこから分析哲学が生まれている。他方で、レーニンによるマッハ批判としての観念論批判があり、これが正統派マルクス主義における観念論批判として広がってしまった。

こうした結果、20世紀を通して観念論についての否定的なイメージ(外界の存在や秩序を否定する独我論)がまとわりついてしまった。そのせいで、本当は観念論の影響を受けた人が自分は観念論者だ!と堂々と言えない状況ができてしまった(それは今にも続いている)。

ただし、観念論の中でもカントだけは特権的に扱われて、その観念的な要素を弱めて受け入れられはした(例えば新カント派やヘルムホルツ。無意識的推論は外界の存在を否定する必要はない) 。しかし、これらは科学による認識を特別視することになるので、実質的には科学的実在論との違いはなくなってしまう。

現代において観念論を擁護するなら、科学との対決が避けられない。その話は後でするとして、まずは観念論の持つ特徴を改めて確かめておきたい。

ヘーゲル以降の観念論の特徴を探る

ここまでに確認した観念論の定義はバークリーからカントまでに留まっている。そこでヘーゲルに代表される絶対的観念論を説明すべきだが、あの難解なヘーゲルの哲学を扱うのは私の手に余る。そこでここからは、ヘーゲル的な絶対的観念論がどのように受け入れられたか?から確認したい。

経験は思考であるというOakeshott のテーゼが結論するのは、世界は「意味(meanings)の世界」(Oakeshott 1933, 61)である、という主張である。「考えることは経験することであり、経験するとは意味を経験することであるから、現実的なものとは常に意味を持っているもの、あるいは理性的(rational)なものである。意味を持つものは、私たちがそれに完全な意味を与えるならば、現実的であり、現実的なものは意味を持つ」(Oakeshott 1933, 58)。この表現はあきらかにHegel を意識したものであるだろう。

白水大吾「理念なき絶対観念論 : F. H. Bradleyの形而上学についての試論」p.45より

引用されてるオークショットの文体はヘーゲルの難解な文体を真似ており、読んでいて頭が痛くなる表現ではある。ここで大事なのは、経験される世界は意味に満たされており、その外側はないことだ。外側がないとは、次の引用のように反基礎付け主義的な全体論を含意している。

それゆえにOakeshott は、「思考することはセンスデータや所与の感覚あるいは知覚から始まるのではない。また、直接的なものから始まるのでもなく、不整合でナンセンスな多様なものによって始まるのでもない」(Oakeshott 1933, 20)と語る。感覚から得られたデータを基に知識の体系を構成することができるという基礎づけ主義的な認識論に与しないという点では、BradleyはOakeshottと同じ側の陣営にいる。

白水大吾「理念なき絶対観念論 : F. H. Bradleyの形而上学についての試論」p.47より

この絶対的観念論の側面は、以前の記事で引用したマクダウェルの文章にも反映されている。改めて引用しよう。

概念領域には外部との境界線があるという考えを拒否することが「絶対的観念論」の核心であり、われわれはいまや、その哲学のレトリックを手なずけるための糸口を手にしている。

マクダウェル「心と世界」p.85より

マクダウェルはブランダムと共にヘーゲルの影響を受けたピッツバーグ学派として知られている。ここでピッツバーグ学派の観念論を確認してもよいのだが、ここでは彼らの師となるセラーズの中にある観念論を確認したい。

セラーズにおける観念論の要素

セラーズはカントからの影響を強調してるとはいえ、自らを観念論だと称してはいない。セラーズ自身は次のような言い方をしている。

われわれは私が心理的唯名論(psychological nominalism)と呼ぶある一般的な型の見解を持つことになる。それによれば、種類、類似性、事実等々の意識のすべて、簡潔に言えば、抽象的存在者についてのすべての意識は―実際、個物についてのすべての意識さえ―言語に関わる事柄(linguistic affair)である。この見解によれば、言語使用の過程はいわゆる直接経験に関わる類、類似性そして事実についての意識さえも前提としてはいないのである。

ウィルフリッド・セラーズ「経験論と心の哲学」p.69より

「抽象的存在者についてのすべての意識は言語に関わる事柄である」の部分だけ取り出すと、唯名論の特徴に当てはまる。しかし、「個物についてのすべての意識さえ」まで考慮するとその考えは撤退せざるをえない。なぜならオッカムからの伝統の唯名論とは、抽象的なものの存在は否定するが個物の存在は認めるからである。

手元にオッカムについての著作を持っていたので、そこから引用しよう。

オッカムは、スコトゥスのように「個々の人間に共通な本性が心の外に存在する」と考える人々を批判して、

心の観念が述語づけによって、外界の複数の事物に共通な不変なのである。……外界の事物の側には、端的に個である物以外には、何も存在しないのだからである。…[Ockhan Summa Ligicae]

渋谷克美「オッカム哲学の基底」p.5より

この唯名論の特徴に典型的に当てはまる哲学は、メレオロジーを基盤にしたネルソン・グッドマンやデイヴィド・ルイスの哲学理論である。グッドマンやルイスの哲学は、一方に言語があり他方に個物からなる世界があり、それらの間を自在に関連づけられるのが特徴だ。しかし、セラーズにはそのような意味での外側の世界(個物や感覚データの源)はありえない。これはまんま観念論の特徴そのものである(ただしセラーズがどこまで観念論なのか?はここではこれ以上は問わない) 1

とりあえず観念論の特徴をまとめる

まだ(ドイツ観念論の影響下にある)プラグマティズム(古典的と現代的の両方)については論じられていない。だが切りがないので、ここで現代的な観念論の特徴をまとめておこう。

私たちの経験する世界は意味(又は概念)で満たされており、その外側なんてない

ただし、元々のヘーゲルの絶対的観念論にあった絶対者の想定はかなり薄まって(なくなって?)いる(ただし、どうしても外界の存在が必要ならそれは絶対者が認識するものとすれば良い)。

まだ観念論の科学との対決まで届いてないのだが、既に長いのでそれはまたの機会としよう。


  1. ちなみに、オークショットの哲学的な源泉は、一方は観念論の代表のヘーゲルであるが、他方が近代の唯名論の代表のようなホッブスである。これは唯名論と称してるけど実は観念論では?なセラーズよりも矛盾は大きく見える。ただし、オークショットにおける会話(後に理解)の重視はセラーズにおける言語活動の重視と共に、観念論と日常言語学派との融合で共通点がある。

現代の学者による観念論の説明を眺めてみる

現代の哲学において観念論は目の仇にされがちだ。私がやろうのしてるのは、観念論を擁護する(擁護できる形に変える)ことが目的だ。そのためにまずは観念論の説明から始める。

現代的な観念論のイメージは、20世紀初頭のイギリスでの観念論-実在論の論争や同時期のレーニンの経験論批判(実質上の観念論批判)から始まり、近年のサイエンスウォーズ以降のポストモダン思想批判にまで続いている(思弁的実在論以降の現代的実在論もこの流れにある)。そこでの観念論のイメージとは何なのだろうか?

戸田山和久「科学哲学の冒険」はサイエンスウォーズ以降の観念論への敵対視を反映した著作だが、ここにある観念論の説明が標準的な説明なので、始めにそれを紹介する。

戸田山和久の観念論の説明を見る

観念論とは独立性テーゼを捨てるという戦略をとる立場だ。「独立性テーゼとは、人間の認識活動とは独立に世界の存在と秩序をみとめる考え方」である(戸田山和久「科学哲学の冒険」p.148より)。

この戦略は、「観念論(idealism)」って呼ばれてきた。観念論にもいろいろなバリエーションがあってね。たとえば、一七世紀アイルランド生まれのバークリーなんかは、「存在するということは知覚されることである」と言って、そもそも、われわれが見たり触ったりするということを離れては世界はないとした。つまり知覚から独立の世界の存在まで否定しちゃた。

戸田山和久「科学哲学の冒険」p.141より

[カントは]、世界の構造とか秩序―たとえば因果とかは、認識主観の能力が構成して世界に押しつけるものだと考えていた。だから、認識から独立した世界はみとめるけど、認識から独立した世界の秩序はみとめない。これも独立性テーゼをほとんど否定しているも同然だから、観念論だよね。

戸田山和久「科学哲学の冒険」p.141-2より

観念論とは、認識から独立した世界の秩序をみとめない立場だが、独立した秩序がなければそれを知る試みも不可能だ。そんな科学的活動を否定するような考え方は許せん!というのが戸田山和久の態度であり、これは同時代の観念論的なポストモダン哲学(社会構成主義)への批判と結びついていた 1

「Idealism in Modern Philosophy」序章の観念論の説明を見る

そこで、次はもっと最近の著作での観念論の説明を取り上げよう。2023年に出たPAUL GUYER AND ROLF-PETER HORSTMANN"Idealism in Modern Philosophy"の序章がネットで読めるので、それを参照してみたい。 原文をそのまま訳すと長いので省略して紹介します。

近代における観念論には二つの根本的となる考え方がある。
1. 心的なものが全てのリアリティの究極的な基盤である。
2. 心から独立したものが存在するとしても、この心から独立したリアリティについて私達の知れる全てには心の活動が貫かれている。

一つ目の項目は存在論的な観念論と呼ばれバークリーに代表される。二つ目の項目は認識論的な観念論と呼ばれカントに代表される(以上、PAUL GUYER AND ROLF-PETER HORSTMANN"Idealism in Modern Philosophy"p.2から要約)。

この観念論の説明も基本的には戸田山和久の説明とだいたい一致しているが、違いもある。それはリアリティ(reality)という言葉が使われていることだ。訳すなら現実感とか現実味とか現実性となるが、過度に主観的に受け取られないようにそのままにした。
この著作のもう少しあとには別の形の説明がある。

観念論は唯物論(materialism)とは対照的に理解される。唯物論は物の特性を超えた何かとしての心のリアリティを否定するが、観念論は心から独立した物のリアリティを否定しても、心のリアリティはほとんど否定しない。

PAUL GUYER AND ROLF-PETER HORSTMANN"Idealism in Modern Philosophy"p.4より

戸田山和久による世界の秩序を否定する反科学だとする観念論の説明に比べると、リアリティを強調することで反科学的な要素は弱めになってる。それでもまだ、人によっては反科学的に見えてしまう側面を残してしまっている。しかし、観念論を反科学的に理解する必然性はないはずだ。

既に長いのでこの辺りでやめるが、ここまでは学者による一般的な観念論の説明を紹介するだけで終わってしまった。私が本来やろうとした内容にはまだ届いていないので、それは次回以降にします。


  1. 戸田山和久構築主義構成主義を安易に同じに扱っているが、私からするとconstructionism(構築主義)とconstruntivism(構成主義)は違う。しかし、これらがごっちゃに一緒にされているのは現在の一般的な傾向なので仕方ないのかもしれない。でも、社会学に由来する構築主義と数学やカントに由来する構成主義は分けて理解する方が良いと思う。この話は気が向いたらそのうち書くかも。