心の哲学に関する説明(改訂版)

心の哲学とは、心に関する様々な根底的疑問に答えようとする哲学の分野である。
心の哲学での主要な問題として心身問題が挙げられる。心身問題では心と身体とがお互いにどのような関係にあるかを問う(最近では身体の代わりに脳を持ってくることが多い)。心身問題に対する考え方には大きく分類して一元論と二元論とがある。心身二元論はフランスの哲学者デカルトが支持した説として有名であり、心は身体とは互いに独立して存在しているとする考え方である。それに対する心身一元論にはスピノザの説がある。スピノザは心を決定論的な機械論で説明できるとし、意志や意識も身体の運動も同じ事柄の異なる表れだとした。心身関係には他にもいろいろな説があるが、切りがないので省略(これについてはウィキペディア「心の哲学」の項を参照)。他にも、自由意志論や他我問題などもあるが、これらも基本は心身の一元論と二元論との間の調停が中心問題であることに変わりはない。そして、現代における心の哲学は二元論から脱する試みから始まる。

現代における心の哲学の展開1(理論構築篇)

二つの行動主義

行動主義には二つの考え方があり、方法論的行動主義(または心理学的行動主義)と論理的行動主義(または哲学的行動主義)とがある。共通する基本的な考え方は、心の内側を無理に想定せずに観察できる行動だけに注目することだ。しかしこの先は違う。ワトソンやスキナーらによる方法論的行動主義*1では、それまでの心理学で重視されてきた内観はあいまいだと否定して、観察できる事実から分かる条件付けによって心を解明できることが出来るとした(隠れ連合主義?)。このような考え方に対するチョムスキーの批判、そうした既存からの学習だけでは新しい事柄は出来ない、は有名である。
これに対して、ライルら日常言語学派に代表される論理的行動主義では、心に関する記述は(観察可能な)行動に関する記述に関連づけてのみ意味を持つとする。「心がある」と「身体がある」では、「ある」の意味が全く違っているとする。心が身体と同じようにあるわけではない。例えば「某は哲学に興味がある」とは「某は哲学の本を読んでいる」や「某は哲学の授業を受けている」と言った観察可能な命題と関連付けて初めて意味を持つとする。論理的行動主義の問題は、痛みや視覚のような内的とされる出来事まで外的行動に還元するので、自分で自分の行動を観察することは出来ないために、極端に言えば自分が痛みを持っているかを自分で知ることが出来ないといったパラドクスに陥ってしまうことだ。(行動の傾向性なら想定する)論理的行動主義が認知科学に影響を与えたのに比較して、入出力間の介在を一切許さない方法論的行動主義に対して認知科学は敵対的な立場を取ったことに注意しよう。ちなみに、論理的行動主義には後の機能主義に対する心的状態の分析不可能性による批判が含まれているとする人もいる(心の文脈依存性による批判)。

(心脳)同一説

論理的行動主義による内的出来事への説明の困難から、プレイスやスマートによって(心脳)同一説が提唱された。これは心の状態と脳の状態とにはきちんとした対応関係があるとする考え方だ。(心脳)同一説にも二つの考え方があり、タイプ同一説とトークン同一説とがある。タイプ同一説とは例えば痛み一般や赤さ一般のような一般化された心の状態に対して対応する脳の状態があるとする説である。トークン同一説とは、あの痛みやこの痛みなどの個々の心の状態に対して対応する脳の状態があるとする説だ。タイプ同一説に対しては、痛み一般に対して対応する脳の状態は(主に種の違いによって)複数ありうるとする批判があり、そこから機能主義が現われた。ちなみに、トークン同一説を支持するデイヴィットソンによる非法則的一元論もある。心的出来事と物的出来事とに対応関係(トークン同一性)が成り立っているとしても、物的出来事では因果的法則が成り立っているからといって心的出来事(または行動自体が心ではないなら心的-物的法則)においても因果的法則が成立するとは限らないという話だ。また、キムによる意識は脳状態に付随するという説も同一説の一種だ。

機能主義いろいろ

認知科学がとる典型的な立場はむしろ機能主義である(他分野の機能主義とは意味が違うので区別すること)。機能主義とは、心には外界との関係において何かが起こっておりその結果何かしらの行動が表出されたりすると考えることだ。入力と出力だけを見てその中身は何でもいい。つまり、心には機能を果たすために何かしらが介在しているとしているが、それを脳や身体と直接に同一視するのはとりあえずやめておく。関係があることは認めるが、ハードウェアとソフトウェアでは記述のレベルが違う。言い方を変えると、ハードウェア・レベルにおける多重実現性、つまり材料がたんぱく質で出来ていようが半導体で出来ていようが何でも構わないこと、を認める。
機能主義が想定する心の内的状態に命題的態度がある。一般の人が日常的に用いる心に関する理論は素朴心理学(または民間心理学)と呼ばれ、その基本は命題的態度を認めることにある、心的状態としての「…を欲する」とか「…と信じる」といった「…」という命題への態度が命題的態度である*2。一般的に、機能主義では心的状態と脳状態に対応関係(例えばある命題的態度に対応する脳状態)があると考える。ただし、心的状態と脳状態との対応関係が実際に存在するかは疑問視もされており、これはそのまま認知科学脳科学との大きな溝をも意味している(内在主義批判も参照)。
機能主義は大きく二つに分けることが可能だ。機械機能主義と因果機能主義だ(注:機能主義に種類があるのは確かだが、標準的な分類法があるわけではないので、用語も一定しない)。大雑把に言えば、これは順に強い人工知能と弱い人工知能とに関連している。強い人工知能とは機械で人間の知能を実現することを文字通り可能だと考えることだ。パトナムによって提起された機械機能主義とは、心は外界からの入出力によって計算を行なっているとする考え方だ。機械機能主義では命題的態度は計算の要素として扱われる。こうした計算の代表例として出されるのがチューリング・マシンである。フォーダーは思考などの心的活動を思考の言語を用いた心的な論理計算を行なっていると理解しており、この立場は古典的計算主義(または心理機能主義)と呼ばれる。計算を行なわれるうえで、心内で言語や視覚ごとに計算を行なうまとまり(モジュール)があるとされる(異種間モジュールの統合問題あり)。機械機能主義の問題点は、様々な状況で適切な判断が出来るアルゴリズムは不可能ではないのかというフレーム問題がある。。
他方で、デヴィッド・ルイスなどによって提出されたのが因果機能主義(または分析的機能主義)である。心的状態を外界との入出力によって因果的に定めると考えるが、その心的状態はその時の脳状態と同じであると考える(アームストロング)。計算による理論がそのまま心に当てはまると考える機械機能主義と違って、因果機能主義では心に関する理論(素人の理論であれ科学者の理論であれ)による心のモデルが因果的に成立している心的状態であるとする。その心的状態の理論モデルの代表が命題的態度である。しかし、素朴心理学を含む(心理学的)理論は日常概念に依拠せざるをえないが、そもそも日常概念によって様々な異なる経験を経ている現実の人の心を一般的に表わせることが可能かはあやしい。例えば、人の心には文化的な違いがあり、異文化間の人の心的状態に同じ命題的態度を当てはめることには無理がある。だからといって、文化ごとに(心理学的)理論を用意しても、文化内でも個人によって経験の差異があるので、その理論が文化内の全ての人の心的状態を表わすのに相応しいわけではない。ましてや、複数の文化を生きる人の心を表わすなんて無理だ。そこで、ある個人が素朴心理学を取得する過程を問題にしたり(セラーズ)、日常概念に依拠した理論を諦めて脳状態を参照にした理論を一から作り直したり(消去主義)、といった様々な対処法が考えられている。

現代における心の哲学の展開2(理論批判篇)

認知科学では表象主義的な第一波に対する批判があり(ドレイファスなどによる現象学方面からの批判はここでは省略)、その後は認知科学に第二波(自然化)が訪れる。心の哲学にも平行して同じ動きがあり、そこでの代表的な批判が、機能主義批判・古典的計算主義批判・内在主義批判である。

機能主義への批判

機能主義に対する批判は大きく二つに分けることが出来る。志向性による批判とクオリアによる批判である。
志向性による批判は、サールやブロックによって(主に機械機能主義に対して)なされた批判である。心には志向性がある、つまり心は何かに向けられているはずだが、機械にはそれがないという批判だ。例えば、心を持った主体が言葉を発した場合はその言葉は何かを意味するようになされているはずだが、たとえ機械が言葉を発したとしてもそれが何かを意味してなされているのではないとする批判だ(人間は本来的志向性を持っているが、人間に設計された機械は派生的志向性しか持たない)。サールによる中国語の部屋やブロックの中国の脳が有名な批判であり、ホムンクルス問題とも関連できる。つまり、脳の中の小人たちとその脳を持った主体とを想定したとき、脳の中の小人の持つ志向性とその脳の持ち主が持つ志向性とは別物であるということだ。
ネーゲルやジャクソンによるクオリアによる批判は、機能主義では心が感じる感覚質は説明できないとする批判だ。クオリアとは、自分だけが接近できる感覚の主観的・現象的な質感(例えば赤さや甘さ)のことだ。例えば、色がどう見えるかに関する科学知識を持っていたしても、実際にどのように見えるかを知ることは出来ないとする批判(知識論法)だ。他にも、全てのクオリアが逆転しても対応関係だけはあるので外面的な行動は変わらないとする批判(逆転スペクトル)やクオリアを持たないけれど外面的な行動だけは同じゾンビが想像可能だとする批判などがある。
ただし機能主義の立場から言えば、志向性やクオリアの存在にはあやしさが付きまとうことは指摘しておこう。解釈主義をとるデネットは、志向性があると妥当する限りにおいてそこには心があると解釈する志向的態度を提示している。これは機能主義の一変種として理解できる(または全体的行動主義と呼ばれることもある)。

古典的計算主義への批判

規則による計算と言う考え方をする古典的計算主義を批判する源がコネクショニズムである。古典的計算主義の例として、思考の言語が頭の中にある記号として理解され、その観念的な記号が計算的に処理されるとされる。コネクショニズムでは規則による計算が否定され、神経ネットワーク内で分散されて計算が行なわれているとする(コネクショニズムも広い意味では計算だ)。コネクショニズムとは、入力された情報が(モジュール内での)規則による計算ではなく、学習によって全体が刻々と変化するネットワークによって処理されているという考え方だ。コネクショニズムと古典的計算主義との大きな違いはデータの記憶と処理を分けないことだろう。
そこからさらに進んだ説として消去主義の考え方(消去的唯物論とも呼ぶ)も生ずる。これは私たちが日常で用いる心に関する考え方(つまり素朴心理学)は間違っており、脳について正しい知識を持つことでそうした間違った素朴心理学は廃棄されるべきだとする考え方だ。信念や欲求に関する命題的態度(「彼には恋人がいると信じる」や「彼女とデートすることを欲する」など)は素朴心理学の誤りの代表例である。こういった心に関する日常的な思考法は間違っているとしたのがチャーチランド夫妻などによる消去主義である。素朴心理学に変わる新たな(心理学的)理論は脳科学の成果を参照にして作るべきだとしている。ただし、その新たな理論がどんな理論になるかは今のところあまり見えてきているとはいえない*3

内在主義への批判

それまでは心の内部で起こっていること(例えば計算)に注目されていたのだが、今度は外部の環境にも注目されるようになった。意味は頭の中だけで作られるとする内在主義に対して、外界との関係によって意味は生じるのだとする考え方が現われた。そこで出てきたのが外在主義や目的論的機能である。極端に入出力しか見ない表象的機能主義に見られる内在主義を批判した。外在主義を提唱したパトナムは、言葉の意味は自然的世界を参照しなければ分からないとした(双子地球論)。その後、バージは文化的世界への参照の重要性を指摘した(外界を参照する広い内容と心的状態だけを見る狭い内容を分ける議論もある)。さらに、ドレツキやミリカンは意味は進化上の過程において生物が生存するための目的に依存していると考える目的論的機能を提唱した(ドレツキによる表象の因果説には誤表象問題(選言問題)による批判があり、ミリカンは表象の消費説をとることでそれを乗り越えたが説明できる表象が狭くなったという副作用も伴っている)。どちらも意味は進化上の過程や文化内の経験に依存していると考える点で、外的環境を重視している。ちなみに、過去の環境しか参照しないパトナム・バージ流の「消極的外在主義」に対して現在の環境を重視する「能動的外在主義」(力学系アプローチとも関連)は知覚の表象説批判(つまり知覚とは外界の写しであるとする考え方)とも関わりを持っている(知覚問題は心の哲学のネックでもある)。

最近の展開

近頃は意識に関する議論が盛んで様々な説が行き交うが、これは心身問題を直接に扱っている点で形而上学的だ。しかし、そのような形而上学的議論そのものへの懐疑もあり、そうした形而上学的問題は誤った言語の使用による錯覚とされる。また最近では、心の哲学に対して自然主義や常識主義をとる哲学者もいる。しかし、それらは他の説を取れないことによって消極的に支持されていることが多く、積極的な支持説の展開を見ることはまれだ。だが、その立場も突然に採られたものではなく、過去の説の発展から生じた結果である。

  • 各種の原典について知りたい方はこちらを参照

チャーマーズによる心の哲学アンソロジーの目次(英語)

*1:正確にはスキナーはワトソンの提唱した方法論的行動主義を批判して徹底的行動主義を提案していたのだが、英語圏の哲学ではスキナーもワトソンも方法論的行動主義と一括することがあるのでとりあえずこのままにしておきます(コメント欄でのblupyさんのコメントも参照)。心理学的行動主義という呼称も同じ意味ですが、個人的にはこちらの方が害がより少ない言い方だと思います

*2:ちなみに、素朴心理学を理論としてみるのが他者の理解に関する理論説であるのに対して、他者の理解は他者を心に思い描くかのように可能だとするシュミレーション説による批判もある

*3:比喩的に言えば、消去主義が目指すのはハードウェアのレベルの記述である還元主義ではなく、(素朴心理学のような)高級プログラミング言語での記述に満足せずに、(コネクショニズムのように)より低級なプログラミング言語による記述を目指せ、というところだろう