宮台真司の実存主義

今回の宮台真司キルケゴールさながらである(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=275)。それも「死に至る病」のキルケゴールというにふさわしい内容である。私は人生でこれまでにいろいろと経験してきたけど、結局はどの選択肢も不毛なのではないか。にもかかわらず生きる上では、その不毛な選択肢からあえて何かを選んでいくしかないのではないか。そうこれこそ、キルケゴールの「あれか、これか」の世界である。ちなみに、ヘーゲルの「あれも、これも」の世界とは対照的である。ここでイーストウッドの映画をネタにして言いたいことは、お前らはまだ十分に絶望に気がついていないんだ、ってことじゃないのか。宮台真司がこれほどまでに素直に実存主義色が強い文章を書くことのは、実は結構少ない。
ダ・ヴィンチに連載中の「ルル・オン・ザ・ブリッジ」は面白く読んでいるのだけれど、最近の宮台真司の思考法はハイデガーくさいと思っていた。たとえば、叙事詩と抒情詩とを対比させるのだが、前者はホメロスで、後者はロマン派詩人で代表させていたようだ。それで確か、抒情詩は自意識的だからダメという話だ。でも考えてみると、その対照は変じゃないのか。古代ギリシアにも抒情詩はあったし、そもそも、そんなにも時代の離れたもんを比較するのは変じゃないかと思ったものだ。要するにここで言われている「叙事詩vs抒情詩」の対立は、ハイデガーの「ソクラテス以前vsソクラテス以後」の対立と同じじゃないのか。
しかし、ここで疑問が生じる。宮台真司実存主義は、個人に向けられているのか、それとも社会に向けられているのか。ここにキルケゴールハイデガーとの鋭い対立が現れる。確かに「個人vs社会」という対立は陳腐だし問題がある。だからといって、その対立が解消されたわけではない。そもそも、ハイデガーナチスとの関係は、その対立の混同にこそ問題があったのではないのか。この対立の混同は、宮台真司の文章にも表れている。
最初にあげた文章(blog)を例にとろう。宮台真司はこの映画評で、イーストウッドの「許されざる者」と豊田利晃の「空中庭園」とを取り上げている。前者では、過去にはひどい悪漢だった老農夫(クリント・イーストウッド)が例に出されている。ここではまだ老農夫個人の実存として読むことができる。後者では、それぞれの登場人物に実存問題があって、厳しい経験をした後で、あえてする選択が待っている。ここまでは構わないのだが、ここからが問題である。一部の登場人物が、家族を再びやり直すという選択をあえてする。しかし、その選択をするには、複数の人物による選択への同意が必要とされる。映画なら、みんなで家族をやり直そうというエンディングでも構わないかもしれないが、現実ではどうだろうか。私一人で決意しても、相手がいなければしょうがない。一緒にいた事実によってといったって、相手がものすごい暴力夫だったとしても、それでかまわないというのだろうか。
家族という自明でない前提のために翻弄されるより、あえて家族をするという選択肢が必要だという。だがそのためには、泥沼の暗黒時代という共通体験が必要なのではないか。彼女らは暴露パーティーというありえそうもない共通体験によって結ばれているに過ぎない。「終わりある再帰性」を得るためには、戦争という共通体験が必要という意見さえ、とても簡単に導かれる。ただし、それによって得られるならであるが。
ここで宮台真司の言う「再帰性」とは「反省」のことである。例えば、あの時は相手の浮気のせいで分かれちゃたけど、今度はもう少し頭を冷やそうとか。こうして、単に浮気を許さないだけで終わらない再帰性が生まれる。ところで、反省とは普通、意識の介在を必要とする。意識とは知的なものである。だとしたら、ここにあるのは単なる主意主義ではありえない。だからといって、単なるベタな主知主義でももちろんない。実際にここにあるのは、意と知の循環による悟りである。しかし、本当に難しい問題はこの先にあるはずである。ここには、ハイデガーの「実存vs本質」の対立と「ソクラテス以前vs以後」の対立との間の深い問題が隠されている。