混乱した用語「再帰性」

宮台真司の弟子とも言われる鈴木謙介のインタビューを読んだ。すでにここでも私の書いた評論の最後でも触れられた「再帰性」について話している。私は「再帰性」は「反省」と(多少の違いはあれ)実はそれほど変わらないのではと書いた。しかし、鈴木謙介は「再帰性」と「反省」は異なる用語としている。正直言って鈴木謙介の著作はまったく読んでいないが、少なくともインタビューでみる限り、師匠と弟子では用語の使い方に混乱があるように見える。次にまるまる引用してしてみよう。

■前回、「終わりなき再帰性/終わりある再帰性」を対比した。再帰性とは、自明性に浸されていた選択前提が、選択対象になることだ。例えば、再帰的伝統主義という場合、気がつくと伝統に服しているのと違って、伝統に服するという選択を敢えてすることを指す。
■近代の社会システムは、従来自明性に覆われていたがゆえに諸々の選択の前提や文脈を構成するしかなかったもの──伝統や共同性など──を選択の対象にした。何を自らの伝統や共同性にするかを自覚的に選択する。自覚的な選択を選択主体の揺るぎなさが支えた。

鈴木 社会学者の間でも論争になることがあるので、分かりにくい言葉なんですが、簡単に言うと、何かを選ぼうとするとき、その選択肢が選択の前提になっている状態のことです。僕たちはよく「自然はいいねえ」なんて言うわけですが、そのとき既に、話者の中には「自然」についてのある偏ったイメージがあらかじめ前提にされているわけですね。こういう「何かを選んだつもりが、自分についての言及になっている」という状態が生じることを、アンソニー・ギデンズという社会学者に倣って、僕は「再帰性」と呼んでいます。
  どうしてこんな面倒な用語を持ち出すかというと、これまでの社会理論というのは「反省」というものをベースに考えられてきたんですね。「反省」とは、いろんな情報や出来事というものを把握したり整理したうえで、「こうなのだ」と自覚的に考える作用のことです。ところが情報化が進展すると、アマゾンの「オススメ」だとかネット上の適性診断だとかで、自分についての情報をたくさん得られるようになる。しかし、過剰に情報を得られるようになると、自分についての情報を整理して選択をするという反省的な振る舞いは、大変困難なものになってしまう。

矛盾する部分だけ取り上げると、宮台「自明性に浸されていた選択前提が、選択対象になること」、鈴木「何かを選ぼうとするとき、その選択肢が選択の前提になっている状態のこと」。おいおい、はっきり言ってまったく逆の意味である。主語は選択前提なのか選択肢なのか、どっちなんだよ。いくら鈴木謙介はインタビューとはいえ、思っていたことと真逆を平気で口にするとは思えない。というか、話の文脈上、それはありえない。
はっきり言って、宮台真司の定義の方が分かりやすい。さすが、パターン認識の鬼である。しかしだとすると、「再帰性」を「反省」の代わりに使う理由がいまいち分からない。学術論文でならまだしも、これは明らかに一般向けの文章にしか見えない。
一方で、鈴木謙介の定義はいまいち分かりづらい、と言うか私にはさっぱり分からない。選択肢が選択の前提になるってどういうこと?出てくる例は、選択肢を可能にする前提条件そのものの話にしか思えない。有名な社会学者の名前出したって、その齟齬は許されるもんじゃない。その後の話だっておかしい。私の見る限りでは、思考と反省の区別がついていない気がする。反省というと、「省察」と言う著作を書いたデカルトを思い出す。デカルトにとっての反省とは、当たり前の前提を疑うことから始まっている。これは宮台真司の言う再帰性とつながる。しかし、鈴木謙介は、反省を情報の整理と選択だと言っている。情報の整理と選択の過程とは、思考のことではないのか。反省は内側へと向かうが、それに対して、思考は外からの情報を処理するだけである(分かる人はカントの超越論哲学と比較してみよう)。鈴木謙介の言いたいことは、情報が多すぎると処理しきれないと言っているだけではないのか。だからこそ、ろくに考えもせずに情報に頼るのではないか。残念ながら、「再帰」と呼ばれるにふさわしい現象は見出せない。
ここまで来ると、「再帰性」と「反省」の区別を予想することができる。「反省」とは主体が自ら行う前提への懐疑であり、「再帰性」とは近代と言う時代によって余儀なくされざるをえない、前提への他力的な懐疑である。こう考えると、いろいろと整理がつく(各自でやってくれ)。まあ、だからと言って一般向けの文章で「再帰性」という捉えづらい用語を使っていい理由にはならないが。