なぜ成金は悪趣味か?

ある男がいるとする。彼は昔は貧乏でお金がなかった。お金は、欲しいが持っていなかった。この矛盾が、彼の欲望をお金へかき立てることになった。この時点では、彼にとってはお金が対象aである。対象aとは人が生きていくうえで必要なものであるが、現実においては対象aは空虚な役立たずの物でなければならない。彼は生活の必要のためと言うよりも、この時点では生きていくための目標としてお金を必要とする。こうして彼は生きることに駆られる。
さて、仮に彼が事業で成功したとしよう。つまり、彼は金持ち、成金になったのである。彼の欲望が満たされてめでたしめでたしではないか。そういう人は何も分かっていない。この時点ではお金はすでに彼にとっての対象aではなくなっている。現在の彼にとっては、お金を得るための事業とはしなくてはならない当たり前のルーティン・ワークでしかない。それは事業が「彼が彼であること」、例えば社長と言う役割であること、を支えるもの、つまり彼のアイデンティティーの源である限りで必要とされるに過ぎない。人は当たり前の見慣れた日常的理解(言語的理解)の中だけで生きていくことは難しい。それだけでは人は生きていくための欲望に駆られない。人は生きていくうえで、自分にとって特別な欲望の対象を必要とする。それこそが対象aである。対象aがないと人は生きていけない。
お金への欲望が失われた彼が生きていく道はいくつかある。より事業を拡大させる道もある。家庭を大事にするという道もある。そして、もうひとつの道は、趣味への道である。事業を成功させるために忙しかった彼にとって趣味になどあるわけがない。今に彼にとって趣味は「ないけど欲しいもの」である。こうして彼は趣味に走る。
しかし、分かる人には分かるだろうが、本物の趣味を身につけるには手間と時間がかかる(私はそうだった)。彼には趣味にかける手間や時間がろくにあるわけがない(事業が忙しいとか、本当には興味がないからとか)。そういうわけで、彼は金に飽かして買いまくる。派手な装飾品とか、異形の置物とか、高値で買い取った有名な絵画とか。そもそも趣味のない彼にろくな選択をできるわけがない。だが、自らが趣味をあることを示すために、「派手」とか「有名」といった目立つしるしを必要とする。もちろん他人に任せたら意味がない。自分の趣味を示すが目的なのだから。こうして、彼は他人には悪趣味に見えるようになる。しかし、彼にとってそんなことはどうでもいいことだ。彼にとって趣味は人生の余剰(ムダ)なのだから。でも彼はそれを必要とする。なぜなら、それは対象aだからだ。
人が対象aと持ちうる関係は一つではない。人は対象aに対して豊かな関係も貧しい関係も持ちうる。ニーチェのいうルサンチマン批判は、恨みと持つという対象aへの貧しい関係への批判でもある。成金の悪趣味も自己満足という点で同じだ。それに対してニーチェは高貴なる趣味を持てと言った。これこそ対象aへの豊かな関係のことである。対象aとどんな関係を持つかが、何が対象aであるか以上に、その人の人生を定めるのである。