G.H.ミード「精神・自己・社会 第10章 思考、コミュニケーション、意味のあるシンボル」より抜粋

 私たちは次のように主張してきた、別の人の反応としての聞こえることや見えることが同じ反応を起こす刺激そのものであるという意味での特別な模倣の能力はないのであり、むしろもし別の人の行動と同じ行動がある個人において現在すでにあるならば、模倣を可能にする状況があるのだ、と。今や模倣をやり遂げるのに必要なことは、他者の中にある反応を呼び起こすような個人の振る舞いやジェスチャーは彼自身の内にも同じ反応を呼び起こす傾向もあることである。犬の喧嘩では、これは現れない。一方の犬の態度が他方に同じ態度を呼び起こす傾向はない。ある観点からでは、これは二人のボクサーの場合では実際に起こりうる。フェイントする男は敵からある一撃を呼び起こそうとしており、彼自身の行為は彼にとっても意味があり、つまりある意味で彼は自身の中にも同じ行為を起こしている。それはその間にはっきりと現れない。しかし、彼は中枢神経系の中枢を活性化し、その中枢は彼の敵に行おうとさせたのと同じ一撃を彼にも行うように導くだろう。それによって、彼が他者の中に呼び起こすのと同じ反応を彼自身の内にも呼び起こす又はそうする傾向を持つことになる。そこにいわゆる模倣というものの基礎をあなた方は持っている。このようなことが、話し方や着こなし・身振りの仕方の中に現在かなり認められている過程である。
 多かれ少なかれ無意識の内に他人が私たちを見るように私たちは自分自身を見ている。私たちは他人が私たちに話しかけるように無意識に自分自身に話しかける。雀がカナリアの音色を取り入れるように、私たちは周りの言葉遣いを取り入れる。もちろん、私たち自身のメカニズムの中にこれらの特定の反応がなければならない。私たちは自分自身の内に呼び起こしているものを他人の中に呼び起こしている。そうして、無意識のうちに私たちはこれらの態度を受け継ぐ。私たちは無意識のうちに自分自身を他人の立場に置いたり、他人の行為として振舞ったりする。私は単にここでは一般的メカニズムを独立させておきたい。なぜなら、私たちが自己意識と呼ぶものの発達や自己の出現においてそれはかなり根本的な重要性があるからである。特に口頭のジェスチャーを通して、私たちが他人の中に呼び起こしているそれらの反応を私たち自身の内に絶えず起こしている。それによって、私たちは他者の態度を自分自身の振る舞いの中へ取り入れている。人間の経験の発達における言語の決定的な重要性は、その刺激が他者に作用するようにそれは話す個人にも作用しうるという事実の中にある。
 私たちの思考はすべて音声化であると、ワトソンのような行動主義者は理解している。思考において、私たちは単にある言葉を使い始めている。これはある意味で正しい。しかしながら、ここに含まれるすべて、つまりその刺激は精巧な社会的過程において本質的な 要素であり、その社会的過程の価値をそれとともに帯びていることをワトソンは考慮に入れていない。このように口頭の過程にはこの大きな重要性があり、知性と共にそれを通して進行する限りでは口頭の過程は単に特定の口頭の要素が互いに別々にあるというごっこ遊びではないという想定は正しい。そのような見方では、言語の社会的文脈を無視している。 [注1]
 口頭刺激の重要性は、個人は自分の言うことを聞くことができ、自分が言うのを聞くことにおいて他人が反応するように反応する傾向がある、という事実にある。いま私たちが他者に対する個人の側のこの反応について話すとき、私たちは誰かに何かをするように頼む状況に立ち返る。 私たちはたいてい、人は彼があなたにするように頼んだことを知っているということを表現する。ある人にある事をするように頼んだけれど自分でやってしまった、という例を挙げよう。おそらく話しかけられた人があなたの言うことが聞こえない又はゆっくりと行動したので、あなたは自分で行ってしまう。このように、あなたが頼んでいるのと同じ傾向を、あなたが他の個人に引き起こすのと同じ反応を、あなた自身の中に見出す。自分ではやり方を知っていることを他の誰かにやり方として示すのはなんと難しいことなのか!反応の遅いことは、あなたが教えていることを自分でするのを押さえ込むのを難しくする。あなたは他の個人に引き起こすこと同じ反応を自分の中に引き起こすものである。
(以下、まだまだ続く)
[注1] もしジェスチャーがそれの生じたところの基盤に戻されたならば、それがある段階としてあるところのより大きな社会的過程を常に意味に含んでいるこが分かる。コミュニケーションを扱うにあたって、ジェスチャーの無意識なやりとりにおける最初の起源を私たちはまず認めねばならない。意識的コミュニケーション--ジェスチャーの意識的やりとり--が生じるのは、ジェスチャーが記号になるとき、つまり、個人がそのジェスチャーを行いそれに反応するために、個人がそれを行うことに続く行動という視点における明確な意味や意義をそれが伝えるようになるときである。こうして、重要な徴候として役に立つことによって、それに反応する個人に対して、個人がそれを行うことに続く行動として、それはお互いに社会的行為の様々な個々の成分の相互調整を可能にする。また、それが行われたところの個人の中にそれがはっきりと呼び出したのと同じ反応をそれを行った個人の中に暗に呼び出すことによって、それはこの相互調整とのつながりにおいて自己意識の増大を可能にする。
George Herbert Mead. "Thought, Communication, and the Significant Symbol", Section 10 in Mind Self and Society from the Standpoint of a Social Behaviorist (Edited by Charles W. Morris). Chicago: University of Chicago (1934): 68-75.

  • 訳者解説

アメリカのプラグマティズムの哲学者。ウィリアム・ジェイムスの影響を受けた。その後、心理学や社会学に大きな影響を与えた。象徴的相互作用論(ゴフマンなど)はミードの影響によるところ多し。
私はこの訳したやつは新訳ですでに読んでいました。でも、原文の一部をダウンロードして、試しに比較してみると、もっと分かりやすい訳にできるのにという部分が結構出てきました。おそらく訳者本人は意味を分かっているのでしょうけれど、日本語として読むと意味の分からない文章が多いです。これでも意味わかんないとか言わないで、これでも精一杯訳したんですから。例によって、数年に訳したままの手直しなし。
抜粋部分の選択は私の興味の範囲です。すでにサッチマンの「プランと状況的行為」を読んでいたので、訳していてとても面白かったです。ミードの言いたいことは要するに、言葉の意味は端的に個人の中にあるのではなく、それに続く行動こそがその言葉の意味である、ということです(西洋哲学の伝統からするとすごい考え方なんですけどね)。
うーんと、原文はe-textです。次のサイトからどうぞ(the Mead project:http://spartan.ac.brocku.ca/%7Elward/
一応出る手抜きな検索amazon:G H ミード