インターネットはサファリ・パークか

ネット上は自由保護区にすぎない

ブログはフロー(流動)かストック(蓄積)かという記事を読んだが、どう考えてもフローだろうと思う。ブログは掲示板よりはましかとも思ったが、ちょっと見て回ればそうでもないと分かる。みんなして、その場その場の感想を書いているに過ぎない。所詮ブログはフロー(流動的)と、ブログ熱が少し冷めてしまった。日本のインターネットには無駄なおしゃべりが多すぎる。
インターネットでどんなに過激なことをしゃべろうと、結局のところ、ネット上は指定済みの自由保護区に過ぎないので、実のところ何の害もない。どんなに残虐そうに見えても、所詮はサファリ・パークの中にいるだけなので、偽者の野生動物でしかない。おまえらはサファリ・パークの王様だ。存分に動物的に振舞ってください。あなたたちにできるのはせいぜい、犯罪を犯すことぐらいだ(そんなのインターネットとは関係がない)。

哲学は、概念の上でおのれを再領土化するにしても、その条件を、民主主義国家の現在の形式になかに、あるいは反省的コギトよりもはるかに疑わしいコミュニケーション的コギトのなかに見いだすわけではない。わたしたちはコミュニケーションを欠いてはいないのであって、反対にコミュニケーションを持ちすぎている。だが、わたしたちには創造が欠けている。わたしたちには現在に対する抵抗が欠けているのである

コミュニケーションが多すぎると、むしろ伝わる事はますます少なくなる。どんな意見も拡散される。一時的な話題にしかならない。何が大事か分からなくなる。結局は、すべてもとのまま。むなしい。だからといって、出版やマスメディアにも期待できない。ホリエモン事件がそれを示している。日本のメディアはシステムに飲み込まれている。一方で、日本のホームページはあまり使えない。以前、調べ物をしていたとき、アメリカのホームページには役立つ資料があったのに、日本のにはほとんどなかった。日本の機関や学者は何やってるんだか。公のストック(蓄積)には期待できない。

流動化する社会に対して領土を確保せよ

宮台真司の言う「天皇」とか「亜細亜主義」とかの概念にはいまいち共感はできないが、やりたいことが分からないわけではない。商品も意見も人さえも、ただ流れていくだけの現代社会に抵抗する方法は、自らの領土を確保することでしかない。決して、サファリ・パークを抜け出すことではない。サファリ・パークから逃亡できるなんて甘い考えだ。逃げた先も実はサファリ・パークの一角に過ぎないだろう(宮台真司ならディズニー・ランドというだろうが)。というか、生ぬるいサファリ・パークに慣れしまえば、逃げ出せるわけがない(きつい経験をした事がないやつほど、甘い夢を見る)。少しは絶望してください。
私たちにできること、それはサファリ・パークの一角に住み着くことである。地道にその土地に住み付いて、その土地の植生を変えてしまうことである。それには時間と手間がかかるが。もちろん、時間と手間がどんなに掛かろうとずっとそこに住める訳でもないが。サファリ・パークの管理人に都合よくされてしまうからねぇ。著作権の年限をのばして青空文庫の努力を無駄にしたり(誰のため?)。統合失調症とか認知症とか強制的に名前さえ変えればいいのかとか(これまでの努力は無駄に、一般人には過去の著作はいずれ読みにくくなる)。日々、新聞の端の小さな字で何かが決められている。うんざり。
たとえ無駄に終わるかもしれないと分かっていても、わたしたちにはサファリ・パークの一角に住み着く以外にできることはない。住み着いて徹底的に植生を変えていくしかない。逃げたい人は勝手に逃げた気分を存分に味わってください。サファリ・パークはあなたが思っている以上に広大です。勝手に新しい土地を探し続けてください。本当の道は、領土を地道に確保していくしかないのです。たとえすべてが徒労に終わろうとも。そうできる人が少しでも増えることを願って。