プロレタリアな文学への道

宮台真司の右翼/左翼の違いの定義に関連したおもしろい記述を見つけたので、以下にその部分を引用してみよう。

(24)今日、大文字の右翼と大文字の左翼との差異がぼやけていると云々されることが多い。これに惑わされないためには、二つの概念が左右対称ではないことを想起するとよい。左翼の人とは、「私は左翼である」と語ることができるような何者かで−つまり、亀裂、大文字の右翼/大文字の左翼という区別を承認できる何者かである。これに対して、中心に身を置いていること、いかなる「急進主義」をも「流行遅れ」だと断弾するその仕方から判で押したように承認されるのが右翼の人なのである。言い換えると、大文字の右翼/大文字の左翼という区別はただ大文字の左翼の展望からしかそのようなものとして知覚されないということである。これに対し、大文字の右翼は自分を「中心」にいるものとして知覚し、「大文字の総体」の名で語り、亀裂を斥けるのだ。{以下は省略}

ここで言われていることは、右翼/左翼の対立が主意主義/主知主義の対立に一致する、という宮台真司の意見と同じ事に思われる。さて、この対立に対して、ブルジョワ/プロレタリアという対立を、対抗させてみよう。ちょっと長いが、ぜひ付き合ってほしい。

もうひとつのミメーシス

ところで、宮台真司の言うところのミメーシス(模倣、または身体的な力)の考え方は理解できないわけではない。現代詩嫌いで小熊秀雄好きな私には、よく理解できる。ただし、宮台真司の言うところとはかなり異なった意味においてではあるが。なぜなら、小熊秀雄はいわゆるプロレタリアな詩人だからである。宮台真司がミメーシスを右翼的な主意主義に結びつけていることを考えると、これはおかしなことである。
残念ながら、文学史上のプロレタリア文学の全体を評価することは全くできない。なぜなら、歴史上のプロレタリア文学とは、二流のブルジョワ文学だからである。中野重治のようなブルジョワ出身のプロレタリア文学者は当然なことながら、プロレタリア出身であっても、プロレタリア運動の過程でブルジョワ的な意識に犯されてしまったからである。中野重治のようなブルジョワ出身のプロレタリア文学者は、後に転向することからも分かるように、所詮は自分の実存を守るためであり、ブルジョワによる自分探しのネタにされたに過ぎない。一方で、当のプロレタリア出身たちも、そうしたブルジョワプロレタリア文学者の影響受けたし、プロレタリア運動の勃興のためにも、その作品は一般に受け入れられるところの近代文学的な作品になってしまい、実際今に至るまでそれだけがプロレタリア文学として認められている。これが、歴史上のプロレタリア文学とは二流のブルジョワ文学だという所以である。実際、有名な作品(「海に生くる人々」か「太陽のない季節」か忘れたが)が、中野重治による手直しを受けている。悪いが、本物のプロレタリアにまともな文章が書けるわけがない。その結果、読めはするが変に抑制の利いたブルジョワな作品が仕上がってしまった。歴史の文脈があるとはいえ、最低である。そして、あの小林多喜二でさえ、「蟹工船」の隠し持っていた力強さはその後、私小説な響きの中に消え去ってしまった。

プロレタリアな文学者

さて、小熊秀雄である。彼もプロレタリア出身で、プロレタリア作家同盟にも加入していたが、今となっては忘れ去られた詩人である。私自身も青空文庫http://www.aozora.gr.jp/で読んではじめて知ったamazon:小熊秀雄,isbn:4883520951(ちなみに、絶版中の岩波文庫小熊秀雄の詩集は編集が悪い)。その詩の特徴はなんといっても、その言葉の口調の見事さである。その点では、第一級のブルジョワ詩人である萩原朔太郎さえ真っ青だ(でも、私は好きだ)。早速、「小熊秀雄詩集」の中から私の一番好きな「ゴオルドラッシュ」の冒頭を引用してみよう(青空文庫より)。

  • ゴオルドラッシュ

とんでもない話が、
北から舞ひこんできただ、
お前さんグズグズするな、
そこいら辺にあるロクでもねいものは、
みんなほうり投げて出かけべい。
家にも、畑にも別れべい、
いまさら未練がましく
縁の下なんかのぞくでねいぞ。
どうせ不景気つづきで此処まで来ただ
{以下、まだ続く}

もしあなたがこの詩を意味内容で読んでいるとしたら、大きな冒涜である。これは比喩をもてあそぶ現代詩ではない。その語り口調に浸るべきである。ここにあるのこそが、ミメーシスの力である。私は、このようなリズミカルな口調を持った文学を、プロレタリア文学に対抗して、プロレタリアな文学と呼んでいる(もっといい呼び名があったら教えてくれ)。萩原朔太郎にも口調はあるが、これに比べるとかなり甘く感じる。
さらにもう一人、プロレタリアな文学者を紹介すると、樋口一葉がそうである。五千円札に印刷されて話題になったが、その割にはさっぱり理解されていない。樋口一葉の現代語訳という本を見たことがあるが、それこそ殺人行為そのものである。樋口一葉から語り口調を取り除いたら何が残るというのだ。さて、ここで注意しておくが、わたしのいう樋口一葉は「にごりえ」以降の樋口一葉であって、「たけくらべ」の樋口一葉ではない。後者は、ブルジョワ男に受けるセンチメンタルな話で、しかも文体がいかにも古風だ。ブルジョワ森鴎外など)に受け入れられようとすると、ろくなことがない。さて、早速引用してみよう(青空文庫http://www.aozora.gr.jp/より)amazon:樋口一葉

おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにお湯なら歸りに屹度よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、{以下、まだ続く}

にごりえ」なんて、物語だけで見れば感傷的だが、その口調の持つ力は強い。むしろ、ブルジョワに理解されなくてせいせいする。作品とは第一にテキストであるが、残念ながらその精神(読み方)までは伝わらない(これこそ、エクリチュールの効果)。テキストは手に入っても、その精神は手に入らない。精神とは身体そのものである。なぜなら、語り口調に浸るという読み方は身体的だからである。(ここでさらに、もう一人のプロレタリアな文学者をあげると、前田河廣一郎がいる。彼の「三等客船」はプロレタリア文学の先駆と言われたが、その運動の中で忘れ去られていった。文学全集のプロレタリア文学の巻にあることがあるので、図書館か古本屋で探してみよう。新刊では知る限りはない)。

日本における対抗勢力としての文化

そんなの戦前の話じゃないかと言われれば、そうですとしか言いようがない。私は評論家ではないし、新しい文学史のつもりもない(バカらしい)。そもそも、宮台真司の提出する代表が北一輝じゃないのか(もちろん戦前)。要するに言いたいことはただひとつ。ミメーシスは右翼の専売特許ではない。むしろ、右翼/左翼の対立そのものがブルジョワのものではないのか。ちなみに付け加えておくが、当の階層としてのプロレタリアが、ここで挙げたプロレタリアな文学を理解できるかと言えば、それも別の話である(難しいか)。ここでの目的は、ブルジョワ/プロレタリアという別の対立を提起し、ミメーシスという身体的な力の働いてるところは他にもあることを指摘するだけである。
じゃあ、戦後はどうかと言うと話がややこしい。男性/女性の対立が現れて話はより複雑になる。というか、それこそ宮台真司の得意とする話であるamazon:サブカルチャー神話解体。こうした視点の中で、森茉莉から笙野頼子、後期の中上健次などを扱うことができる。思い切ってもっと時代を広げれば、平安女流文学の話とか、江戸の浮世絵の話とかもできる。さらに大盤振る舞いすれば、日本における文明と文化と言う話まで可能だ。といっても、私にはそんな話を書くための準備も勇気もありはしない(この論考だけでもめんどくさい)。もし誰かここにあることを理解したというなら、適当に書いてください。