なんでおまえはわざわざそんなことを言うんだよ

俗流ポストモダン思想や社会的構築主義ほどたちの悪いものはない*1。彼らは異常性や多様性を賞賛する。しかし、彼らはわざわざ異常性や多様性を公表することで初めて享楽を得る。彼らは自らの内側にそれだけで肯定的な何かを見出すことができずに、他人にわざわざ自らを宣伝する。「我は異常なり、多様なり」。彼らはそれを公言することでしか享楽を得られない。彼らは本当の快楽を知らない(負け惜しみ、負け犬の遠吠え)。
現在、ある人々は自らの内側に肯定的な何かを感ずることができないでいるらしい。社会的にはそれなりに勝者なのに、さっぱり幸せを感ずることができない。だから、自らが何者かであることをわざわざ他人に宣言することではじめて満足を得られる。それは、英米軍のイラク人への虐殺と、働く女性の負け犬論争とに見ることができる。
英米軍はイラクを解放した。のはずなのに、さっぱり感謝されることもなく、むしろ泥沼にはまっている。自分たちは有利な立場にいるはずなのに、それを感ずることができない。肯定的な何かを感ずることができなければ、それを確証する行為に走る。こうして、彼らはイラク人に対してわざわざ自らの優位さを宣言するために、虐待する。
日本で起こったのはより複雑で戦略的だ。最近の香山リカが言うように*2、働く女性たちはそれなりによい待遇状態にあるのだが、にもかかわらず幸せを感ずることができないでいる。もしここで勝ち組宣言をしたら、日本のIT長者(男)と同じである。それは負け組という犠牲者を強調することである。彼女らは違った。自らを負け犬と宣言することで享楽を得たのである。対立を転換させると言う洗練されたやり方である。
しかし、ここにある問題は同じである。社会的には勝者であるはずなのに、それを感ずることができない。だから、彼(女)らは自らを敗者に対して宣伝する必要がある「我こそが勝者である」。その宣言が負け犬であれば犠牲者は少ないかもしれないが、基本は同じである。わざわざ他人に宣言しなければ自らの中に何も得ることができない。これはニーチェの言うルサンチマンに似ている。自らの心の貧しさを補うために、他人を犠牲にする。ここには不毛な連鎖しか存在しない。
これはサドとジュネの作品の違いに見ることができる。どちらの作品にもいわゆる異常性愛*3が描かれている。しかし、彼らのそれへの態度は異なっている。サドにとってはそれは想像されるものであるが、ジュネにとっては経験されるものである。実際にその経験があるかどうかが問題ではない。サドにとっては、それが道徳に反する異常なる行為としてのみ価値を持つ。ジュネにとっては異常さそのものよりも、そこから得る快楽こそが重要である。それは文章にも表れている。残念ながら、澁澤龍彦はそれを分かっていない*4
本当に必要なのは、正常/異常、勝者/敗者といった対立から距離をとることである。わざわざその対立を転倒させることは、その対立への依存を示している。そうではない。対立のどちら側にいるのであれ、まずは自らの内側に純粋な肯定性*5を見出すことである。そして、それを他人に強制してはならない。肯定性を見出す道はひとつではないのだから。せいぜい助言ぐらいに抑えておこう(でないと、また宣言に逆戻り)。しかし、これで問題は解決しない。これで私にとっての問題は解決しうる。だが、そこには明らかではない見えない犠牲者がいる可能性もありうるし(高度資本主義の問題とか)、そもそも社会が純粋な肯定性への道を妨げているかもしれない。私達は二重の態度をとらなければならない。個人的実存への道と、社会的実存への道と。この二つの道は決して一致しない。とりあえず現在において必要なのは、軽視されがちな前者への道、内的肯定への道であるだろう*6。おのおのは、自らの道を歩め。

*1:http://d.hatena.ne.jp/toled/20050714を参照。自らの異常性を公表することに価値のある時代は過ぎ去ったと思う

*2:http://media.excite.co.jp/book/interview/200212/index.htmlこれは古いが、意見は現在も同じと思われる。

*3:いやな言い方だがしょうがない。説明すると切りがない

*4:ジュネの「葬儀」の文章のわいせつなことといったらない。澁澤龍彦の訳文は、真面目なサドには合っているが、猥雑なジュネには合っていない

*5:純粋という言い方に問題があるなら、関心なき快楽とか、他人を犠牲にしない肯定性、と言いかえてもいい

*6:社会が豊かになればそれでいい、と言う時代は終わった。だから今は、個人的実存の後に、社会的実存へと行く道をすすめる、できればだが。