家族という重層的に決定される集まり

角田光代空中庭園」(文春文庫)isbn:4167672030宮台真司の紹介による映画のあらすじとは異なるようだ。ところで、この小説は、宮台真司がその話を得意とする、郊外を舞台にしている。郊外というには田舎すぎる気もするが、ここに描かれるのは、宮台真司がよく話す郊外そのものだ。実は宮台真司がネタじゃないかと思うぐらいだ。郊外の光と影。あまりに明るい世界は人を窒息させる。この小説では近所のショッピング・モールが闇の一部を担っている。しかし光と闇の存在はかえって人をそこに閉じ込める。ここに描かれるのは昔の宮台真司のよく言っていた、終わりなき日常そのものである。
この小説は、複数の人物からの視点による連作小説となっている。主に京橋家の成員と一人の若い女性(家庭教師)の視点から描かれている。この家族は「何ごともつつみかくさず」をモットーとしながらも、それぞれの成員はそれぞれに秘密を抱えて生きている。その秘密は最後まで他の成員に明かされることもなく、同じような日常が繰り返されることになる。家族とは、様々な矛盾を含んだ、重層的に決定される、複合的な全体である。
家族のそれぞれの成員はおのおの、様々な経験をし、様々な考えを持ち、様々な悩みを抱えた、別々の人物である。家族の各成員は、それぞれが独立した一つのシステムである。家族の各成員間の関係は不均等である。なぜなら、各成員はそれぞれ別々に不均等に成長・発展するからである。おのおのが様々な秘密や悩みを抱えていながらも、お互いにそれなりに何とか家族をやっていく。そうしたことを単にウソ臭いと告発するのは間違っている。社会的な事象に本当のことなどありはしない。それは人々によって作り上げられるものである。作り上げられるものにうそもほんともない。「ウソをつくな!」と言うのは簡単だが、そう言ったからといってウソをつかなくなるわけではない。本当にウソをついて欲しくないのなら、うそをつかなくても済む環境や状況を作り出す必要がある。
しかし、家族にも、支配関係をもって分節化された構造、がある。そうした構造は人に秘密(浮気など)を持たせるかもしれないが、そうした構造がなければ日常茶飯事をやり過ごせるかもあやしい。すべての人を納得させる構造などありはしない。だから、その家族ごとに特殊なあり方がある。門限とか家事当番とかいろいろ。社会という大きなもののルールよりも、家族と言う小さなもののルールのほうが融通が利く。だから、家庭でくつろげる。しかし、そのルールさえ、すべての成員を満足させられるわけではない。だから、家庭以外の様々な領域も必要とされる。それが単なるショッピング・モールであろうとも。
理想的な社会や家族を構築しようとする試みは、たいてい失敗に終わる。そうした理想は、世の中には様々な人々がいる事をあまり考慮に入れない。だんだんと、人々のために理想があるのか、理想のために人々がいるのか、分からなくなる。そのうち、理想を人に押し付けるようになったらおしまいだ。友人関係や恋人関係ばかりか、夫婦関係だってままならないのに、それ以上のことがどうすればできると言うのか。私たちはあきらめるべきなのか。もちろん違う。世の中とは様々な成員間の不均等な関係である。特定の人物が権力を持つのではなく、世の中の人々の間の結びつきによって何かが決定する、それが近代である。ウソ臭い?そうでもない。決定とは何も選挙に行ったりすることではない。もっと身近なところから始められる。たとえすぐに効果が出なくともがっかりする必要はない。なぜなら、社会とは、様々な矛盾を含んだ、重層的に決定される、不均等な関係なのだから。きっとどこかに道はあるさ。気長にならなきゃやっていけない。何かの間違いが起こらないとも限らないのだから。