角田光代「庭の桜、隣の犬」

これで角田光代の小説は三冊目だが、これは今まで読んだ中で一番よかった。というか、もしかしたら角田光代の最大の傑作かもしれない。「まどろむ夜のUFO」は若い頃の作品のせいか、自然なのはいいが甘い感じがしたし、「空中庭園」はちょっと無理に背伸びした感じの、できはいいが少し堅めの小説という気がする。よくあるように、賞をとった作品が必ずしも傑作というわけではないらしい。この小説は地味かもしれないが、角田光代の魅力が発揮された、心和む、素晴らしい小説である。
夫婦である房子と宗二との二人の視点から、章ごとに交互にその生活が描かれる。この二人がどちらもいかにもやる気なさそうな人物なのである。「空中庭園」と違って、無理にいろんな人物に手を伸ばさず、自分に描きやすい人物に限定したのが功を奏している。文章がとても素直だ。読んでいて、とても気持ちがいい。特に、甲斐性のない冴えない男を描かせると恐ろしくうまい。ほんと、宗二はそういう男なのだが、妻の房子も負けず劣らず、ちょっとボケた感じの女である。それに比べて、その親の真面目で勤勉なこと。退職後も、ボランティアだかアルバイトだか、にいそしんでいる。まあ、宗二の会社の若手もやる気満々な人物ではあるのだが。そうした中で、彼女と彼の終わりなき日常が描かれる。
これを終わりなき日常と言わずして、なんと言ったらよいというのだろうか。まったりしすぎ。宮台真司のまったり革命は、アニメ「おじゃるまる」とかにパロディーにされ、失敗に終わった。のはずであった。こんなところに生き残っているとは。その終わりなき日常も崩れ始める。別に、特別な事件があったわけではない。当の本人たちに嫌気が差したんだと思う。ゼロに何したって、ゼロにしかならない。そういう自分らに飽きあきしてきた頃に、宗二の浮気相手の登場と、宗二の母の結婚話がやってくる。
突然、宗二の浮気相手が押しかけてくる。浮気たって、当の宗二にはやる気のない浮気だったのだが、浮気は浮気である。その浮気相手のおかしな女が房子と出くわす。相変わらずやる気の薄い房子も、相手の強引なアタックに、離婚を許さない妻をつい演じてしまう。本人にはそんな気は別にないのだが。しかし、それは彼女に何かを気づかせた。そして、決心する。
最後の章で房子は突然、義母の結婚パーティを計画し執り仕切ることになる。次の引用は、集まった両者の親類も白けた、トンチンカンな結婚パーティが終わった場面からの引用である。

いっさいの疑問や気まずさや懸念が消えていき、これでよかったのだと房子は思った。この結婚パーティは失敗だったのではなく、このようなパーティこそ執り行いたかったのだと思った。珍妙で、滑稽で、悪趣味すれすれで、本来関わりを持たない人々が白けた顔で一堂に会する。これこそが正しい結婚パーティだと。
(角田光代「庭の桜、隣の犬」講談社 p.273より)

ウソ臭いと分かっていても、あえそのウソ臭い儀式を執り行った房子。彼女はもう、空虚さにおびえることもない。世の中とはそういうもんだと気づく。ウソ臭かろうと何だろうと、そうしたことによって私たちは生きていくんだと。最後には、自分たちの披露宴のやり直しまで宗二に提案する。もう少し、私たちは生きていける。
それにしても、小説といい漫画といい、さりげなく今、女性はいいものを描いている(漫画「鋼の錬金術師」の作者が女性だと、つい最近知った、不覚)。平気で偽史ものなんか書いている男どもとはえらい違いである(「お隣町」とか「シンセミア」とか。ただし漫画の「ジパング」は好き。日本近代文学なんて、笙野頼子「金毘羅」が終わらせたというのにぃ)。それに気づかない日本の評論家もうんざりであるが。まあ、別にそんな人たちいなくても生きていける。必要なものは自分たちで探して、自分たちで作ればいい。それでも何とか生きていけると思う、たぶん。

庭の桜、隣の犬

庭の桜、隣の犬