ヒステリーからうつへ--現代の中高年の問題--
日本のバブルが終わったとき、つくづくよかったと思った。これでドンちゃん騒ぎも終わりだと。それからいろいろあったが、ましになったとはいえ、それほど変わらない気もする。政治もマスコミも空疎な大騒ぎを続けている。本当に大事な問題はさっぱり表に出ない。その一方で、当の世間ではその反動が起こっている。中高年ではうつ、若年層ではニートとひきこもりである。その割には、私たちはいかに生活しどのように人生を送ればいいのか、といった日常的な問題は争点にならない。それこそが重要な問題なのに。
戦後からバブル期の絶頂期まで、波はあれどヒステリー状態であった。問題がなかったわけでもないが、とりあえず豊かさへの道を続けていればよかった。しかし、冷戦も終わって、行くとこまで行き着いてしまった。企業の日本的経営も疑われ、変わっていった。しかし、進むのは表面的な合理化ばかりで、その本質は問われないままであった。環境だけがどんどん変化している。
合理化が進み、企業も商店も大型化が進んだ。昔はそれでも何とかあった人間的配慮は、その中で失われていった。あるのはただ合理化のみ。若者も、正社員だとこき使われ、バイトだと安い賃金で都合よく使われる。すでに社会の中にいる中高年も、環境だけが冷たく変化してしまって、それに対応できない。物質的豊かさや家族的幸せといった夢も失われて、行き着くところがない。しかし、仕事や家事といった公的生活だけは忙しく、せっつかれ続ける。そして、うつになる。
資本主義は、放っておくと、合理化と需要拡大を推し進め続ける。そこで働く人間のことなどおかまいなしに進む。倫理が防波堤にもなりうるが、平気でサービス残業だの残酷なリストラだのが行なわれているのでは意味がない。労働組合も給料問題以外にはなかなか動かない(まるで、昔のマルクス主義の名残のようだ)。みんながみんな、仕事のために生きているわけではないのに、それを押し付ける。別に労働者が役立たずでいいといっているのではない。少しは働く側の生活も考えて欲しいということだ。世の中には、仕事人間も家族人間も趣味人間もいうる。仕事のために生活があるのか、生活のための仕事があるのか、考えて欲しい。ちなみに、なんでも資本家のせいにする昔ながらの偏見も不毛だ。資本家も好きでやってるとは限らない。彼らも資本主義の奴隷だ。
資本主義が閉じたシステムに過ぎないというのなら、外から圧力を加えるしかない。しかし、その役割を果たすための民主主義も、日本ではさっぱり機能してはいない。国民の意見を反映することなどなく、政治家たちが内輪で大騒ぎしているだけだ。その割りに、どうしようもない法案だけはすぐ通す。政治家はヒステリーの生き残りに過ぎない。彼らは一般の人たちの事を理解できない。日本の一般の人はヒステリーの対象など、とっくに失ってしまった。政治家だけが、政治というヒステリーの対象を保持している。政治事件など、ワイドショーのネタに過ぎない。政治は私たちの生活にはろくに貢献しない。
だからといって、世間一般の人がみなまともだと言っているのではない。いまでも、景気さえよくなればいいとか、いい学歴と仕事さえあればいいとか、思っている人はいる。でも、そんなこと問題ではない。気づいている人もいるはずである。どうやって生きていければいいのかと。生き方はひとつではないが、不毛な生き方だけはやめよう(たいていの政治家みたいな)。仕事であれ家族であれ趣味であれ、身近なところから始める。社会運動しろというわけではない。まず物事の見方を変え、実行できることはし、できればそれを話題にするだけでもいい。趣味に生きるのも悪い選択ではない(恋愛などの人間関係もありか?)。まともな対象が見つけられれば、政治家などよりよっぽどよい。もちろん、本当に政治に生きるのもよいが、それを単なる生きがいの対象にはして欲しくはない。それはそれとして、とりあえずグチをこぼしてごまかすのでなく、まともで肯定的な方向を見つけ出そう。その方が、よっぽど人生を楽しく過ごせる。時はもう帰ってこない。