もっとも善良なるヒステリー孔子

孔子はヒステリーである。しかも、歴史上でもっとも善良なヒステリーである。孔子とはもちろん、古代中国の諸子百家の中の人物である。この場合のヒステリーとは性格類型のことである。ラカン派の評論家ジジェクの定義を借りると、ヒステリーとは自分の欲望が実現されるのを望まない者である。いや、この場合はこの定義は適切ではない。むしろ、実現不可能な対象への欲望を持ち続ける者、と定義するほうがよい。言っていることは同じであるが、接近の仕方が異なる。前者の消極的定義より、後者の積極的定義の方が孔子にふさわしい。なにしろ孔子とは、実現不可能な大いなる道を生涯かけて追い求め続けた、もっとも善良なるヒステリーであるのだから。
では、論語からの引用によって、いかに孔子が善良なヒステリーであったかを確かめてみよう。この読み方に比べると、一般的な解釈がものすごく俗っぽい、単に孔子を表面的な道徳主義者と見る浅はかな解釈であることも分かるだろう。論語岩波文庫版に沿って引用元を示すが、「学而第1-1」の頭の文字は省略して「第1-1」とする。これで引用元は十分に分かるからである。訳文は引用ではなく、原文の漢文から著者自身が改めて訳しなおしたものである。

第14-40
子路は石門で宿をとった。門番が「どちらから」と聞くと、子路は「孔子の家から」と答えると、「あぁ,できないと分かっていながらそれをやっている方ですな」と。

これほど孔子がヒステリーであることを示す節はない。理想が実現不可能だと分かっていながら、あえてそれを実現しようと努力する。実現不可能な理想に向かって欲望を抱き続ける。大文字の他者の声に従い続ける者、これこそがヒステリーの定義である。大いなる天の声に従い続ける者。もちろん、その不可能性は意識されないのが普通だ。実現不可能な理想を追い求め続けることによって、孔子は生きる希望を保ち続ける。これほどまでに不可能な善良なる欲望を生涯保ち続けた者など、どこにいるというのだろうか。それを理解できている人はあまりに少ない。

第2-7
子遊*1が孝についてたずねた。先生は言った。「今の孝はただ養うことをいっている。犬や馬だってよく養うことはできる。敬いがなければ、どう違っているのか」。

これを単なる親孝行の勧めと読んでいる限り、孔子を理解できない。孔子の言いたいのは、道徳には外面的に従うのでなく心から従わなければならないということだ。これは単なる精神主義ではない。外から「心から従え」と強制しては意味がない。本人自らによって心から従わなければならないということだ。道徳への欲望は徹底していなければならず、表面だけで従っては生きていく糧にならない。言い換えると、道徳に対する疑いなど抱かずにともかく従え、ということだ。もちろん、強制ではなく本人の意思で。道徳に心から従うことで享楽を得られれば、人生はより充実したものになると言っているのだ。

第3-17
子貢が告朔の儀式でのお供えの羊をやめようとした。先生は言った。「子貢よ。お前はその羊を慈しんでいるが、私はその礼を慈しんでいるもだ」。

その礼とは、大いなるものである。大いなるもの(への信仰)が失われるのが最も恐ろしいことだ。その羊と違って、その礼は取替えの利かないものである。そもそも礼という大いなるものがなければ、生きていく価値などない。大いなるものに自らを捧げる覚悟でなければ、大いなる享楽は得ることができない。礼に実際的な価値があるかなど二の次である。この孔子の大いなるものへの強い欲望が、孔子の弟子による転移の対象となる。欲望は生きるための必需品だ。

第4-8
先生は言った。「朝に(真なる)道を聞いたら、夕べには死んでもかまわない」。

これはもちろん、大いなる道への強い欲望を示している。しかし、それだけではない。逆に、もし真理なる道を知ってしまったら、自分はもう生きていく必要はないと言うことも意味する。ジジェクの定義「自分の欲望が実現されるのを望まない者」を思い出そう。ヒステリーは欲望が実現されたら生きていく理由がなくなる。だから、実現不可能な欲望を選び取る。この節は、道徳への強い欲望とその実現の無意識な拒否という矛盾を示す典型的な言葉だ。

第7-19
先生は言った。「私は生まれながらにそれを知っているのではない。古きことを好み、努力してそれを追い求めているのだ」。

大いなるものへの欲望は、それを追い続けることによって可能となる。どんなに他人からはそれについて詳しく見えようと、それで十分であることなどありえない。全体性は常に追い求められるべきだ。孔子にとって、その基準は古典にある。古典は古典であることだけによって価値がある。そのような基準は現代にはあるのだろうか。

第6-20
先生は言った。「これを知っているのはこれを好むのには及ばない。これを好むのはこれを楽しむのには及ばない」。

これほど欲望の内面化を如実に語る節はない。それを好むだけではダメだ。それを享楽せよ。これほどまでに、道徳への欲望から享楽を得られる人物などいない。その享楽こそが生きる希望を可能にする。その享楽こそが人生を豊かにする。しかし、その教訓は後の時代には伝わらなかった。儒教儒学とは、孔子の言葉の残りカスでしかない。だからといって、現代においてこの教訓を実行するのは難しい。しかし、その教訓は決して無駄ではない。政治家や企業家による安易な享楽のばっこする現代社会の中で、この孔子の教訓はあまりに重い。

論語 (岩波文庫 青202-1)

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マンガ 孔子の思想 (講談社+α文庫)

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*1:本来の漢字が出ないので別の字で代用