ised第4回設計研の感想

ised第4回設計研 http://ised.glocom.jp/ised/20050611を読んだ。正直言うと、今までは技術的な瑣末な議論が多い感じがして、あまり面白いと感じられなかった。しかし、東浩紀が議論に入ってきて、話が俄然面白くなったように思えた。
東浩紀の言いたいことを強引にまとめるとこうだ。コミュニケーションはあくまで特定のパラダイム(情報社会のイメージ)に則って行なわれるわけであって、そのパラダイム(情報社会のイメージ)そのものを問題にする必要がある。どんなに新しいことが行なわれようとコミュニケーションによって生じたことはパラダイムの上での改革(イノベーション)にすぎず、パラダイムそのものの転換は発明(インベンション)によって行なわれるのではないか。こういう話を読むと、あぁ東浩紀はやっぱり哲学の側の人間なんだなと思ってしまう。それに対して、それこそアラン・ケイのような天才でもない限り、技術者はパラダイムの上で仕事をするしかなく、する話もどうしてもそれに引きずられてしまうようだ、具体的な技術に言及できるという強みがあるにしても。私自身がここに求めているのは前者だ。後者の技術的な話なんてここじゃなくても読める気がする。そういう話が好きな人は世の中に一杯いる。どうせするなら根底的な話をしてもらいたい。
コミュニケーションによって行なわれること、ようするに多人数によって行なわれることというのは、パラダイムに則ったことしかできないと思う。それに対して、特定の人によって行なわれることだけが、パラダイムの転換を可能にする。せいぜい、そのほか大勢はその天才的な考えの上で拡張・変奏させることができるのが限界だろう。この凡庸な人間にとっては屈辱的な事実を認めないことには、有意義な話は進められないだろう。でも、これから先、うまく話を合わせて有意義な議論を続けることはできるのだろうか。心配だ。
それにしても、ここで述べられているテクノロジー観の変遷はちょっと面白いと思った。そういえば、1960-1970年代は認知科学が最盛期で、人工知能とかによる情報処理論が真っ盛りだった。それが、1980-1990年代に入ると、認知科学に大転換が起こり、ロボット研究とか脳科学とかによる身体性論へと移り変わったといえる(認知科学年表 http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20050729/p1を参照)。そう、前者はサイバネティクスの時代で、後者はサイバーパンクの時代、の出来事といえる。今はどうかと言われたら、よく分からない。現代の認知科学進化心理学文化心理学とに分化されたと思っているが。量子コンピュータでも実用化されれば、あからさまに新しい方向性が見つかると思うが、そんなのいつの話になるか分からない。今の自分のいる場所なんてすぐに分かるわけがないか。
まあ、だからこそ今いる場所としてのパラダイムがどういう所であるかを知りたいとも思う。そういう議論もできればしてほしいなぁ、と思う。*1

*1:ちなみに、ised議事録へのトラックバックは表に出してくれないかな。場所が分かりにくくて、アクセス少なそうとか思う。コメントは表に出てるのだからさぁ。