ised倫理研第5回の感想

正直言うと、私は倫理を話し合うことに価値を感じたことはない(ised理研第5回 http://ised.glocom.jp/ised/20050820)。いくらお偉さんとか知識人とかが倫理について話し合おうが、実際にそれに従う人などあまりいない。これが医者の倫理規定だったら、学会があるので実力を行使できるが(それって倫理か?)、一般的な倫理など話し合ってもネタにしかならない。実際、ised理研の議論は不毛に陥ることが多い。今回だって例外ではない。
はっきり言って、論議の終わりのページの白田秀彰のまとめだけを読めばよい。それ以外の議論は論点がまとっていなくて何を言いたいのかよく分からない。さすが、白田秀彰はすごい。
現代社会において、個人情報を完全に守ることなどもう無理な話であり、問題はどの程度まで個人情報は守られるべきか、である。白田秀彰の言うとおり、私たちはすでに国家に個人情報を提供している。で、「社会の複雑性を縮減する装置が、国家からコンピュータに移る」と言っている。国家への信頼がコンピュータへの信頼に変わるだけじゃん。というわけで、本当に重要な話にはさっぱり進まなかった印象が強い。分かった事は、「むしろ個人情報を渡すことはやむをえないという世界観を受け入れるところから出発する必要がある」なんだから。やっと議論の前提条件にたどり着いたという感じ。いったい今まで何やってたの??
というわけで、これをネタにしようにも、話がまとまっていなさすぎてそれ以前でしかない。というか、東浩紀は話が相変わらず極端。選択肢がたくさんあって選べないときに目利きの判断に従えばいいという意見に対して、どの目利きを選ぶかという選択をしなくてはいけないので、結局は無限後退に陥るという。原理的にはそうかもしれないけど、実際には選択できる目利きがそんなに多く目に付くとは限らない。白田秀彰さんが国家の例を挙げて言うように、私たちはたまたま偶然にある国家に生まれある目利きに出会うに過ぎない。東浩紀は先走りしすぎ。その点、白田秀彰は過去の歴史を参照する。適切な選択だ。先走りしようとすると返って特定の偏見から逃れられない。もう少し歴史に学びたい。
ところで、表現/存在の匿名性という言い方はもったいぶっていて分かりにくい(特に存在という用語はまずいだろ)。発信/消費の匿名性とかの方がが分かりやすいと思うのは私の気のせいだろうか。

感想はおしまい、後は私の個人的意見

というわけで、いい加減に私に意見を書こう。認知限界なんて私のお得意の領域、認知科学の話ではある。と言いながら、その知識を活かすのは今回は難しそうだが。
こういうときは実際に選択肢が多くて何を選んだらいいか分からないときに人はどうするかを考えればいい。もちろん一番いいのは自分で判断することだけど、それはあまりに敷居が高すぎる。で、それ以外の人を分類していけばいい。判断する気はあるが分からない人、そもそも判断する気がない人、判断する能力そのものがない人。最後は問題のある分類かもしれないが、現実にそういう人はいる。後者の人たち(二分類)は偶然やうわさで適当に選ぶだろう。これに悪口を言うのは間違っている。宮台真司も言うように、人は認識するために生きているのではない。でも、ポピュリズムサイバーカスケードの防ぎ方など私には分からん。それがいけないことかどうかもまた別の話とも思うし(ファシズムじゃなきゃいいんだろぉ、とか)。
本当の問題は最初の分類の人、判断する気はあるが分からない人だ。その人に判断する気を失わせるのが一番悪い。何とかしてやる気のある人には判断力をつけられるようにしたい。まっ、ようするにメディアリテラシーをつけさせたいわけだな。教育すればいい?一つの手だが、そもそも私は教育機関など信用していない。官僚である教師の知識など古臭いか役立たないかにすぎない。よっぽど素人の目利きの方がメディアリテラシーがあったりする。ありゃ、これじゃ一歩後退だ。誰から教わればいいのか?私個人はほぼ独学だがら参考にならない。というわけで、あなたはどのようにメディアリテラシーをつけましたか、と質問して実例でも集めるしかない(そもそも、誰にメディアリテラシーがあるかが問題になれど)。そういう所から始めないと、話はどんどん思弁的になってしまう。
それよりなにより、ここ倫理研で目指しているのが何なのかがよく分からない。技術的な解決?人々の意識への訴えかけ?少しは真っ当に方向づけしないと、まともな議論はできないと思う。