亜細亜主義による問題解決は果たして可能か

はっきり言って今度の宮台真司はレベルが高い(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=309)。脱落者は必至か。こんなのばっかり公開していれば、トラックバックのレベルも上がるかもしれないが、その前に読む人が少なくなってしまう(それでも構わない気もするが。宮台真司にネタとしてすがるヘタレよ去れ、みたいな?)。私も最後まで読んで始めて言いたいことが何かが分かるようになった。歴史的なめんどくさい話が苦手な人はとりあえずは飛ばし読みして、最後の部分を先に読んでおいた方がいいかもしれない。
結論は主意主義的な右翼である亜細亜主義の立場に立つべし、ということだ。これが分からないと、なぜ日本の差別の歴史を語っているのかいまいち理解できない。分かりやすい文章を書くための常として、そういうことは初めに軽く触れておいてくれよと思う。

日本における差別の歴史

分かりやすく要約すると、ここで語られるのは貧困による差別と身分による差別との対比の歴史だ。前者が貴賤の問題で、後者が聖穢の問題だ。で、江戸時代の身分制度が廃止されたからといって、身分による差別の本質は失われていないのだという。なぜなら、身分による差別とはラベリングによる差別のことである。ラベリングによる差別とは、差別対象があるラベルを持っていると人々に思われることによって差別されることである。差別の理由はラベル(被差別部落、黒人、女性など)だけによって行なわれる点で主観的な差別である。それについて日本の歴史をさかのぼって説明する。
江戸時代には貧困による差別と身分による差別との区別があったという。つまり、身分的には低い穢多でもきたない仕事に特権的に就くことで、穢多の統領であれば経済的には身分の高いのもよりも富んでいたことがあったという。結果的に、他の穢多もその利益に追従していたということだ。それが明治以降には失われる。身分による差別だけが表向きは撤廃され仕事の特権を失い、もともとの差別だけが残る。もちろんこの差別は実は身分による差別なのであるが。こうして、貧困による差別と身分による差別との区別は失われ、一致することになる。
古代日本では親族を単位とする貧困による差別しかなかった(ただしシャーマンが存在した)。それが、天皇への中央集権化の過程で身分による差別が生じるようになったという(これが中世日本)。それが、近世から近代へと至って、貧困による差別と身分による差別とが重ね焼きされるようになったという。水平化運動で問題にされているのはまさにそれである。
差別は撤廃されなければならないというとき、貧困による差別か身分による差別か、が問題になる。前者は近代化によって社会が豊かになりすべての人がそれを享受することは原理的には可能になった。しかし、それで後者の問題は解決されるのか。はたして過去の差別の歴史が忘却されることで、差別が失われてめでたしめでたしなのか。そうでないと宮台真司は言う。身分=ラベリングによる差別の構造が残っている限り、再びその差別は再発しうる。事実、社会に不可欠なダーティーワークに従事する外国人への差別が行なわれているという。こうしたことは個々の差別を問題視するだけでは解決しない。

亜細亜主義による解決

ここまできてやっと亜細亜主義の立場がやってくる。過剰流動性を前提にした物質的豊かさだけではアノミーによる不安を避けることができない。だから、内発性と信頼に基づいて前に進む態度を奨励するパトリ護持へと向かう(パトリとは愛国主義patriotismから)。しかし、このあたりで話が混乱する。亜細亜的なパトリの護持と身分による差別の撤廃との結びつきがいまいち分かりにくい。

「重ね焼き」の解除は論理的に二つの方向があり得る。一つは、「劣った者ほど聖なる存在」という具合に「たすき掛け」にする可能性。もう一つは、「聖穢」を人に貼り付けられるのではない──儀式によって反転可能な──時間空間的な観念へと引き戻す可能性。

亜細亜的なパトリの護持と身分による差別の撤廃(というより緩和)を結びつける道はここにある。宮台真司は前者の「たすき掛け」による解決を拒否した後で、後者の時間空間的な観念の可能性を示唆する。しかし、その後にその示唆がはっきりと結び付けられている箇所が見当たらない。これこそが亜細亜的なパトリの護持と身分による差別の緩和とを結びつける道のはずである。宮台真司はなぜかそれを明示しない。儀式によって反転可能な時間空間的な観念というのは、おそらく亜細亜主義(または天皇?)のことなんだろうな。そうでないと話がつながらない。しかし、ここには亜細亜的なパトリの護持と身分による差別の緩和との間の矛盾もある。歴史がそれを示している。宮台真司はその矛盾をアイロニーとして意識してはいる。しかしその解決は示していない。
弱者同士の共同体的相互扶助が求められており、そのためにこそ〈世界〉の根源的未規定性へのミメーシスから沸き出る力が必要とされる、らしい。しかし、そのつながりはいまいち分からない。共同体を成り立たせるためには縦の力が必要なのだろう。その縦の力が天皇から発せられるのか?よく分からん。このあたりには、悪い意味で否定神学から神秘主義へと進んでいるという匂いがする。*1
ローカルな自立的相互扶助を可能にする条件が失われているという危機感においては賛同する。しかし、そこから先がおかしい。ローカルな自立的相互扶助を立ち上げるために〈世界〉の根源的未規定性に開かれる必要性を説くのは変だ。宮台真司は「流動性からの収益」よりも「多様性の護持」を優先する理由を明示していない。私が思うに、飢餓などの絶対的貧困を避けることができても、相対的貧困がある限りその恨みから身分による差別が生じてくるのは避けられないのではないか。そしてその矛先は更なる弱者へと向かう。相対的貧困者は流動化する社会の中では不安定なので不安と不信でおたおたする。だから、そうした恨みは相互扶助によって解除されるべきなのだろう。相互扶助は他者への信頼があってこそ成り立つ。他者への信頼は共同体と共にありうる。ここはいい。でも、相互扶助を可能にする共同体を立ち上げるために不合理な意思の力が必要とされるとは思えない。相互扶助を可能にする条件が壊されることに関しては反抗すべきだけど、実際に相互扶助が生じるかどうかはまた別の話だ。
政治家や知識人にできることは、相互扶助が生じるための前提条件を作り上げる(守る)ことであって、相互扶助の実際の形成そのものには関係できない。それを作り上げるのはその条件の下に暮らす人びと自身である。相互扶助は創発されるものであり、外側から操作できることではない。たとえそのための条件がすべてそろっているのに相互扶助が生じなかったとしても、それに文句を言ってもしょうがない(実際にはすべての条件は確かめられないが)。このあたりを宮台真司は勘違いしている。彼は前提条件にはタッチできても、その帰結にはタッチできないので、後は待つしかない。それなのに怪しい縦の力を性急に持ち出す宮台真司こそが実はヘタレではないのか。

歴史から創発性を学べ

亜細亜主義が問題にされたのは戦前であり、天皇(または共同性)の力がまだ十分に働いており、だからこそその後の軍国主義への道も可能になったのだ。ハイデガーであれ京都学派であれ、そういう中にいたからこその発言である。戦後からすっかり経った現代では、その力はすっかり弱まってしまった。つまり、同じやり方ではもう無理だ。現実世界においては条件は常に変化しつづける。特に現代社会ではその変化は急速だ。だからといって、歴史に学ぶことがないわけではない。むしろ、いまこそ歴史に学ぶべきだ。変化の流れにただ流されるのはあまりに危険だ。しかし、歴史を繰り返すことが必要なのではない。現実世界の自然発生性=創発性を理解したうえで、歴史から学ばねばならない。亜細亜主義から学ぶことがないわけではない。現代ではまた違う効果的な運動がありうるのではないか、とも思うのだがどうだろうか?*2

*1:ちなみに、デリダエクリチュールルーマン的信頼はさして遠い概念ではない。むしろこの二つの概念は表と裏でつながっている。どんな言葉も何かしらの背景によってのみ理解されるというのがデリダエクリチュールの基本ならば、理解のためには何かしらの背景への信頼がなければならないというのがルーマン的信頼の基本である。明らかに宮台真司エクリチュール(おそらくデリダ)の概念を誤解してると思う。

*2:ちなみに、私自身は再分配の効果はさっぱり認めていない。それより公共の基盤こそが問題ではないのか。郵便制度だって生活を支える基盤のはずである。生活の基礎となる基盤を市場主義的に民間に任せるのは必ずしもうまくいかない。アメリカの電力の例やドイツの郵便の例などがある。何を公共基盤として保持すべきかが議論されていなさすぎる(もちろん郵便制度なんていらないという意見もありだ)。例えば、図書館はベストセラーで人を呼ぶだけではいけない(図書館の公共的役割を考えよ)。テレビで見た例でいうと、安価なカラオケの貸し出しなどを公共施設がする必要などない。公共性という視点から何が必要で何が必要でないか、が考えられねばならない。ただし、長期的な視点を取れるかが問題にはなるが。