認知科学のポストモダン化と意識の脱構築の二つの方法

認知心理学は1960年代に成立した当初は、人の心をコンピュータ・メタファーによってアルゴリズムのようにモデル化しようとする試みだった。それまでの主流の心理学での行動主義が人の心を観察不可能なブラックボックスとして研究していたのとは対照的である。人の心を情報処理的にモデル化する方法は今では認知主義と呼ばれ非難されてもいる。しかし、当時は画期的な考え方であり、同時期に現われた人工知能と共に認知科学という学際分野を確立することになる。
1970年代にいち早く情報処理アプローチ(認知主義)を批判し始めたの、認知心理学という概念を提唱したナイサー本人であった。1979年にナイサーは「認知の構図」を発表し、人の心は環境との関係によって決まるという相互作用的な循環論を提唱した。これは知覚心理学ギブソンの影響を受けたとはいえ、以後の認知主義批判の先駆ともいえる。
1980年代に認知主義への批判が本格的に始められる。もちろん、主流の研究も進められたが、それに限界を感じる研究者が現われ始めたのも事実である。1979年のホフスタッター「ゲーデルエッシャー、バッハ」はある意味、示唆的な題名である。記号論理だけでの説明不可能性を証明したゲーデルの名前が入っているのだから。代表的なのだけを挙げると、有名な人工知能学者のある意味で転回的作品、ウィノグラード&フローレンス「コンピュータと認知を理解する」やミンスキー「心の社会」が出版された。有名な認知心理学者も転回をはかる。コネクショニズムで有名なマクレランド&ラメルハート「PDPモデル」は、それまでの表象によるモデルからの転換でもある。ノーマン「誰のためのデザイン?」も、人の心を内側に限定せず外側の環境にも探る画期的な試みであった。他にも、認知言語学とかロボット研究とか挙げると切りがない。そして、認知主義批判は1990年代に頂点を迎える。
1990年代に近くなると外部の研究者が認知科学に介入し始める。例えば分子生物学者クッリクとか。1989年に物理学者ペンローズは「皇帝の新しい心」を発表した。意識の問題を解くためには量子論の導入が必要だと言う。とんで1996年には哲学者チャーマーズが「意識する心」を発表する。1990年代の物理学者ペンローズも哲学者チャーマーズも、意識をゲーデル脱構築したという点では変わりがない、つまり、意識を既存の物理学理論や可能世界論では解明できない神秘として捉えているのである。ただしその後の展開は違うが。ペンローズは物理学の統一理論によって意識のなぞを解明しようと目指し、チャーマーズは意識の問題をハード・プロブレムとして哲学的問題に仕立てた。このような方法を意識のゲーデル脱構築と呼んでもいいかもしれない。形式的な論理に捉えられないものとして意識を捉え、意識を神秘化するという点では変わりがない、その後の解決は自らの分野へと引き込むのではあるが。
しかし、これは意識の脱構築の唯一の方法ではない。むしろ、当の認知科学の内部では別に方法が探られていた。それを意識のネットワーク的脱構築と呼びたい。

身体の調子が悪くなって初めてその仕組みに目が向くように、「私」の成り立ちも、それが変調を来した時に初めて明らかになる。数字を見ると色を感じてしまう「共感覚」や、事故で失われた手があると感じる「幻肢」の症状、自分が死んでいると言い張る「コタール症候群」。ラマチャンドランの扱う事例は、「私」は確固とした統一体として存在しているという日常の思いこみを揺るがす。そして、その揺らぎの向こうから、「私」という「脳のなかの幽霊」を成り立たせている精妙なメカニズムが次第に姿を現し始める。

茂木健一郎によってこう要約されると、ラマチャンドランも1990年代の認知科学において意識を身体的ネットワークによって脱構築した人物の一人であったのだと気づかされる。(そういえば、ラマチャンドランは有名な知覚心理学者R.グレゴリーと共著論文を書いたこともある。)。デネットの多元草稿モデルもダマシオのソマティック・マーカー仮説も、意識を身体的なネットワークへと解消したという点では、意識をネットワーク的に脱構築したともいえる。ここにおいては意識は神秘化されずに、むしろ脱中心化をほどこされる。デネットデカルト劇場への批判とはそういうものである。意識を人が制御できる心の中心と捉えずに、様々な身体の働きからの作用の結果として捉える。
私の結論を言おう。意識のゲーデル脱構築は還元主義か神秘化かという不毛な結論しか招かない。意識のネットワーク的脱構築の方がよっぽど現実味がある。問題は現実がネットワークであると分かったから何なのかと言うことだ。そのネットワークの内実を知りたい。しかし、ネットワークを記述する方法はまだない。複雑系やネットワーク思考は問題解決になっていないように思える。ネットワークを正確に記述する方法は原理的に存在しえない。私の提案する解決法は、ネットワークを暫定的であれど記述できる新しい記号論を開発することである。これはこれまでの俗流記号論では間に合わない。それはどんな記号論なのか。それはこれから考えていくしかない。