経済活動において人が知る情報はいかなる役割を果たすか

言葉による情報が現実における情報と一致するとは限らない。その一致を直接に確かめられなければ、あとは信頼によって納得するよりほかはない。これを理解していない人があまりに多すぎる。欠陥商品とか欠陥住宅とかはその場その場の対処だけでごまかしても切りがない。ここにこそ信頼の問題が関わる。特に現代社会では間接的な情報が多いので余計に信頼は大きな問題になる。それについて考察するのがこの論考の目的だ。

経済活動における情報

商品情報とは商品に関する言葉や写真(メディア)による説明である。例えば、カタログやネットにあるのは商品情報である。それに対して、実際の商品を自分の感覚で確かめて得られる情報は実物情報である。お店にお客として行って品物を目で見て手で触れて確かめられるのが実物情報である。ネット・ショッピングの最大の欠点は、ネット上の商品情報と実際に届いた品物からの実物情報が一致しないことである。例えば、ネット上ではもっと明るい赤だと思ったら、実際の品物は暗い赤だったので気に入らないとか。それを避けるためにも、現実の店で実際の商品を確かめることは重要なのである。ここにおいてネット店舗における信頼が問題になっている。言葉による商品情報は品物からの実物情報に比べて、信頼をはさんだ間接的な情報な上にあまりに情報量が過疎だ。現実からの知覚による情報は圧倒的に豊かであることに注意(写真でも似たようなものだ)。
お店で実物を確かめてもその品物のすべての情報が手に入るわけではない。確かめられるのはその場で確認可能な情報に限られる。残りの情報は実際にその商品を使用して初めて分かることも多い。例えば、洗濯時の縮みや色落ちまでお店で確かめるのは難しいし、家電製品の使い勝手だって実際に使ってみないと分からないことも多い。まあ、すぐにばれるような欠陥商品を売るにはよっぽど信頼が求められないときだろうが(一回きりの商売とか)。とにかく、ここにもある程度の信頼は必要とされる。企業が欠陥情報を出すべきかどうかは信頼問題に関わる。どうせ欠陥がばれそうになければ隠すかもしれない。そうした使用情報を含めて言葉にして述べると評価情報になる。例えば、ネット上や印刷物での品物のレビューがそれにあたる。この場合にも信頼は必要だ。ただし、雑誌ならまだしも、ネット上の個人による評価情報を信頼出来るかは判断しづらいのだが。

商品情報-->実物情報-->使用情報
  |           |          |
評価情報<-----+----------+
 図  経済活動における情報の流れ

具体例からの考察

具体的な例を挙げて説明しよう。建築物を買うとしよう。始めは広告などの言葉を中心にした建物の商品情報を見ることになるだろう。それで気に入った商品があったとする。でも、建物は高い買い物だから商品情報だけで買うことを決定するのはあまりにおろかである。これが、ネット上でのちょっとした買い物ならわざわざ実物を確かめてから買うのはバカらしい。なんのためのネット・ショピングか分からない。商品が届いてからでも必ずしも遅くはない、返品できることも多い。しかし、建物となるとそうはいかない。ふつうは、実際にその建物を訪れて実物情報を前もって得ようとする。
実物を見たからと言って必ずしも実際の利用状況まで想像出来るとは限らない、とはいえ、実物情報を得ないよりはましである。試しに住んでからというわけにはいかないので、実物情報から購入を決める。ただし、所詮は素人なら実物を見たからってその建物の何もかもが分かるわけではない。でも、それなりに気に入れば後は不動産屋を信じるしかない。では、実際に住んでみるとどうだろうか。排水が悪いとかうるさい時間帯があるとかといった予想外の欠点もあるかもしれない。そうした欠点は不動産屋に説明義務もあるはずだが、そういうすぐばれるような誤魔化しばかりしてたら、たいていは信頼を失うはずだ。だが限度の範囲内ならあきらめるかもしれない。使用情報を前もってすべて知ることなど出来るわけがない。
しかし、長期的にばれない欠陥もありうる。例えば、建物の耐震対策。そんなの実際に地震が来ないと分からない、そのときはすでに遅いが。それを素人が確かめるのは難しい。だからと言って、耐震対策を専門家に調べてもらうかというと、手間もかかるし、他にも疑うと切りがない。必ずどこかで信頼しきってしまう。こうした頻度が少ない欠陥で消費者をだますのはやさしい。ここでこそ信頼が必要とされる。しかし、なかなかばれないのならばウソを隠し通すこともありうる、自分が生きているうちにばれなければいいとか。浮き沈みの激しい現代社会の経済活動では消費者にばれないウソをつくことはある程度は避けられないのかもしれない。それよりも、消費者の目に付きやすい情報を有利にすることに躍起になりがちだ。こういう問題は一企業の問題なんかではありえない。
私たちは日常の様々な活動においていろいろな信頼を当てにしている。その信頼にも、すぐばれる信頼から短期的信頼、長期的的信頼とある。資本主義は消費者に商品選択という意思決定による過大な負担を要求する。しかし、いくら賢い消費者にも限界がある。いかなる信頼もなしに消費者が一から意思決定することなどありえない。それでは現代では何も物を買えなくなってしまう。必ず信頼はどこかで必要なものであり、すべてを過剰に賢い消費者を当てにする市場主義で乗り過ごせるものではない。一応言っておくと、大企業だから信頼できるなんてこともない。大企業も所詮は一私企業であり、端から端まで信頼できるわけがない。重要なことは信頼とは作られるものであることを意識することである。初めからあった信頼ではないと言う点でこれは再帰的信頼ともいえる。私たちはそうした社会の中で生きていくしかない。それが近代の宿命だ。