インターネットはホットなメディア、だからこそクールなテキスト中心主義者になれ

有名なメディア論者マクルーハンは、ラジオはホットなメディアでテレビはクールなメディアだ、と言っている。テレビは映像と音声によって多くの情報が流されるので視聴者は受身になるが、ラジオは情報が音声だけなので想像力をはたかせる余地があり積極的に参与して聞くことになる。ラジオについてはアメリカで起きた火星人到来騒動を例に挙げている。実は物語としてラジオで流したのをニュースとして受け取られたという事件だ。では、インターネットはどんなメディアなのか。
インタネットもブロードバンドの普及で映像も音声も享受できるようになった。じゃあ、インターネットがテレビのようにクールなメディアになっているかというと怪しい。2チャンネルはもとよりブログやSNSなどの隆盛を見るとむしろホットなメディアだという印象がある。おそらくこれはテキスト中心、つまり情報量が少ないせいなのかもしれない。情報量が少ないほど様々な解釈の余地が増えてくる。対面コミュニケーションが最も情報量が多い(言葉だけでなくしぐさや表情などもある)としたら、テキストによるコミュニケーションは最も情報量が少ないといえる*1。情報量が少ないコミュニケーションほど強い参与が求められるのかもしれない。インタネットでは情報量の少ないテキスト中心の方がホットであるようだ。そんなのインターネットが相互作用できるメディアだからだろ、という人もいるだろう。しかし、相互的なテレビというのは果たして面白いのだろうか。テレビは解釈を限定する、テキストは解釈の限定を与えづらい。これが基本だ。

書き言葉は読者の思いが投影されやすいメディア

インターネットではネット上のテキストに対して感情的な反応をしがちだ。というのも、書き言葉ほど解釈が自由なメディアはないからだ。電話での話し言葉には声の調子や高さなどの別の情報が同時に伝わる。ましてや対面ではさらにしぐさや表情や環境などさらに多くの情報が同時に受け取りされる*2。重要なのは同時性だ。たまに勘違いする人がいるが、書き言葉よりも対面や話し言葉の方がコミュニケーションが正確に行なわれる、ということをデリダは言いたかったのではない。書き言葉であれ話し言葉であれ対面であれ、言葉というものはすべからくして伝達に失敗する可能性を持つということだ(これが私がエクリチュールという用語を安易に用いない理由でもある)。話し言葉や対面でのコミュニケーションがうまくいきやすいのは言葉とは別に同時に発せられる情報の多さに依存する。これだって文化や習慣の異なる人同士であれば、たとえ同じ言語を話していてもうまくいかないことが多いだろう。ましてや書き言葉は、である。
書き言葉での情報は文字だけだ。同時に伝えられる情報は全くない。解釈を限定するためにさらに言葉を連ねても余計な情報が増えているだけであって。さらにその連なった言葉がまた解釈される必要がある。ここにあるのは無限交替だ。書き言葉ではどの言葉とどの言葉がどう関係しているかを丁寧に見て解釈を明確にしなくてはならない。ここで読解力が必要とされる。しかし、そうした作業はとてもめんどくさい。普通は大雑把に読んだり、断片的な情報から推測したりする。ここで常識が使われる。新聞や雑誌などのマスメディアはそう読まれる(別の言い方をすると物語化される)。しかし、インターネットでは常識を働かせにくい。ましてや、たいていの人の書く文章は論旨がはっきりしない断片的な文章が多い。となれば、あとは勝手に想像するしかないのでホットになる。勝手な読み込みが増えて、後は加速するだけだ。後はコメント合戦が繰り返されるだけだ。
というわけで、インタネット時代の倫理が出来上がる。つまり、インターネット時代こそテキスト中心主義者になれ。勝手な読み込みや外部からの判断は出来る限り避けろ。区切られたテキストだけを読み込め*3。それだけで多くの面倒は避けられる。例えば、amazonのレビューでも、評価だけ見ずにきちんとレビューの文章を読めば、その人がその本をきちんと読める読解力があるかはすぐに分かる。ブログでのひどい意見もこのやり方を取れば、理解力のない単なる馬鹿かどうかは分かるし、そうだと分かったら反論しない方が懸命だ(反論はホットにさせるだけだ)。
クールなテキスト中心主義者になれ!これこそがインタネット時代の最大の倫理だ。でないと、見知らぬ人との不毛な対立を生むだけだ。そして、この態度を取ってこそ、見知らぬ人の素晴らしい意見を見つけ出すことも出来る。私はもうインターネットの不毛さに飽きあきしている。だからといって、今やそれに変わる道もない。社会の中はあれもこれも既存のシステムに犯されている。インターネット時代における倫理的な態度、それはインターネットという荒地でいかにして暮らすかにかかっている。

*1:ちなみに、ここでエクリチュールという用語を使わないのは、デリダの用法が単なる書き言葉という意味を超えているからである。これを知らずに安易にエクリチュールという用語を用いるのはまずいと思う。テキストもよく多義的には使われるが、エクリチュールのように特殊な用語ではない。

*2:ちなみにこうしたコミュニケーションにおける問題を扱うのがエスノメソドロジーという学問である。

*3:たまにいるが、私の著作を全部読んでから意見言えとか、そんなことは既に私が語ったことだぞとか、そういう態度はやめて欲しい。区切られたテキストは一つの独立体である。他のテキストへの参照は読者の自由だ。また以前に語ったことがあるのなら参照箇所ぐらい示して欲しい。これも一つの倫理だ。著作から文献表を平気で省略するような日本の知識人連中には無理なお願いかもしれないが。