アイロニーって、行なうことに価値があるのであって、それについて語ることにはないんじゃないの

今回の宮台真司(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=318)は、最終的な結論(アイロニー観)はもっともだとしても、だからなんだっていうんだと思いたくもなる。私は宮台真司がここから先に進まないのに嫌気が差している。もしかしたら…と何度も期待してもたいてい裏切られる。逆説とかアイロニーとかはキルケゴールなどで慣れてるからどうでもいい。せめてキルケゴールハイデガーみたいにその過程をきっちりとたどってくれればましなのだが。ちなみに、ハンナ・アレントの名前を出したからって、ニーチェワーグナー評価への批判が正当化されるわけではない。自分の意見として論証しろよ。

アイロニーを言うか行なうか

オペラの内容を云々することは無意味だ、ということには私も賛成する。オペラにとって物語は単なるフックであって、その本質は音楽にしかない。しかし、前半で

着飾った田吾作が「オペラ劇場」ならざる「オペラの演目内容」に、ニーチェ的に固着する。

と述べときながら、後半で

モーツァルトが、道徳的社会でなく、主人公の側に肩入れするのを表現する。悪趣味はむしろ主人公を死滅させる社会の方だと。

と述べるのは内容に言及してて矛盾してる。オペラは音楽を楽しむための手段でしかないのだから、どんな深遠な解釈だろうと、本当にオペラを擁護したいならそれについては黙っているべきだ。でなければ、前半か後半か主張をどちらかに絞ってもらわないとおかしい。こういうのは単なる矛盾だ(アイロニーではない)。
哲学者ギルバート・ライル「心の概念」から認知心理学へと受け継がれた考え方に、「内容を知ること」と「方法を知ること」とは別のことであるという考え方がある。認知心理学では前者を「宣言的知識」後者を「手続き的知識」と呼んでいる。この区別化からすると、最近の宮台真司のやっていることは、アイロニー語ること(言うこと)であって、アイロニー語ること(行なうこと)ではない。
アイロニー語ることについて、宮台真司はそんなの過去にやったけどうまくいかなかったというかもしれない(「限界の思考」参照)。しかし、アイロニーにそんなことは付きものだ。そもそもアイロニーは大勢に向けてやるものではない。ソクラテスアイロニーは特定の相手との対面だからこそ成り立ったのだ。アイロニーは相手の知識を前提にする。大勢に向けたときは相手の知識は前提に出来ないので、それがアイロニーとして成立するかは分からない(これこそがデリダエクリチュールの本質)。本当にアイロニーに価値があると思うのなら、勘違い野郎が続発することを想定しながらも「あえて」やる必要があるのではないか。いくらアイロニーについてベタに宣伝してもその本質は分かる人にしか分からない。アイロニーの宣伝もいいけど、それ自体はもう少し抑え目にしたらどうか(なんのための宣伝か分からない、このままじゃ主知主義だ))。

その意味でオペラとコンサートの対立は、カトリックとプロテステントの対立、貴族主義(的なエリート主義)と市民主義の対立、ルネサンス的前近代と宗教改革的近代の対立、初期ギリシア性(プラトン以前)と中世性(アリストテレス以降)の対立と、緩く重なる。

ここには、エリートvs大衆の対立のにおいがプンプンする。アイロニーは対立を覆すが、その先に「アイロニーを理解できるエリートvs理解できない田吾作」の対立がガンとして立ちふさがる。こんな二項対立を平気で提示している時点で全然アイロニーじゃない。どうせならもっと周到にアイロニー語ってくれよ、と思うのは私だけ?

西洋音楽史ネタ

私は西洋音楽史の知識も少しはあるので、言いたいことはいろいろあるが、きりがないのでほどほどに抑える(概論は岡田暁生西洋音楽史isbn:4121018168。ロマン派以降の記述に分があるのは著者の好みの反映かな。物足りない人はこの本の文献ガイドも参考になる。)。
18世紀までのオペラの時代と19世紀のコンサートの時代、に違いがあると言うは正しい。西洋音楽史フランス革命のあたりで断絶がある。ちょうどベートーベンあたりの時代だ。だからこそ、20世紀に起こった古楽革命には意味がある。古楽革命はそれまでロマン主義的に演奏されてきたバロック・古典派の作品を元の文脈に還ってその魅力を蘇らせたのだ。まあ、そもそも過去の音楽を演奏してる時点ですでにロマン派以降なのだが(メンデルスゾーンのバッハ復活コンサート、ゲオルギアーデス「音楽と言語」ISBN:4061591088)。
クラシック音楽史をフランス革命あたりを境目にロマン派以前とロマン派以降に分けることが出来る。前者がイタリア音楽隆盛の時代なら、後者はドイツ音楽隆盛の時代だ。別の言い方をすると、前者はオペラの時代で、後者はコンサートの時代だ(現在のクラシックコンサートの神聖な静けさと違い、バロック・古典派の演奏の場は騒がしかった、「聴衆の誕生」ISBN:4393934814 参照)。もちろん後者のロマン派以降とはクラッシ音楽の大衆化であり、過去の音楽を参照する点で再帰性の始まりでもある(19世紀にドイツ音楽の伝統が作成されるが、同じ19世紀でも、ドイツとイタリア(ロッシーニヴェルディ)じゃ事情が違いすぎる、ドイツ音楽の伝統の作成は「反音楽史ISBN:4103903031)。これでもかなり図式化している。本当のクラシック音楽史はもっと弁証法的なややこしい動きをする。
ワーグナーに関しては私の好みではないのでなんとも言いがたいが、岡田暁生西洋音楽史isbn:4121018168なるので引用しときます。カッコ内( )は引用者による注の挿入です。

もちろんワーグナーのあの大音響や、時として芝居がかった旋律法には、彼(ニーチェ)があれほど憎悪したパリのグランド・オペラやサロン音楽と同種の、ある種の胡散臭さがあるのは確かである。ニーチェをはじめとする多くの人々が、ワーグナーの中に耐え難い近代の俗物臭を嗅ぎ取ったとすれば、このあたりだろう。ニーチェが「俳優」と呼んで罵倒したのは、彼の中にあるこの大向こう受け狙いのハッタリの要素だった。だが同時に、神経の微細な震えまでも表現せずにはおかない彼の和声法が、ドイツ・ロマン派音楽の内面性の中からしか生まれ得ないものであったことも、また確かである。
岡田暁生西洋音楽史」p.173

俗悪なハッタリから音楽の形而上学に至る十九世紀音楽史のありとあらゆる要素を、彼(ワーグナー)は総合し、擬似宗教的なエクスタシーへと高める。ワーグナーに至って音楽はついに、宗教なき時代の宗教となったのである。
岡田暁生西洋音楽史」p.174

このあとのマーラーリヒャルト・シュトラウスによるクラシック音楽の爛熟化を考えれば、これが妥当な記述だろうと思う。