J.J.ギブソン「私たちは何によって見るのか」

常識では人はその目によって見るとされる。心理学では、違う、人はその脳によってのみ見るのだと言う。運動論者は、違う、筋肉が行動を起こしたときに(極端に言えば「その筋肉によって」)だけ人は見るのだと。これらの定式化のすべてには間違いはないのだろうか。
おそらく、観察者は心の道具である体の何かしらの器官や解剖学的部分によって見る、という考え方に誤りがある。代わりに、もし活動する視覚システムがあれば観察者は見ることが出来る、と言うべきだ。後者をこう定義する、(感覚入力の経路としてではない)情報抽出を探索し調節し活用するような知覚システムとして。
そうならば、観察のような働きは解剖学的に特定化できない--魂が体のどこかに居座っているとされるように、それは「居場所」を持っていない。有機体の異なる器官がその様々な機能に対して異なる貢献をする、機能が入れ子になっっているのだ。つまりは、体の器官の機能には代理的働きと専門化とがある。
このアプローチが含意するには、心理学における感覚の二分法*1は刺激-反応公式と共に弱々しいのだ。この二分法は神経心理学での求心-遠心の区別の便利さに由来する。そしていまや私たちはこう提案できる、「フィードバック」とか「再求心性reafference」とか「求心性の写しafference copies」などに関する新しい憶測のすべては彼らが主張するほどには過激ではないが、感覚-運動の二分法を救うための努力であり、知覚活動に適用できる本物の「システム理論」を定式化する労力を萎えさせている(これまでのところ、それは知覚より以外の生物学的活動への適用しか効かない)。
つまりは、人はその目のシステムによって見る(そのシステムには、目による調節、頭の向き、現実の体全体、が含まれる)のだが、脳の様々なレベルや「中枢centers」を伴う目-神経-筋肉システムが現象経験において私たちが明晰さと呼ぶものに相当する状態に達したときに、人は見る、視覚的に知覚するのだ、と言うのが真実だろう。



英語原文はJ.J.Gibson"With What do We See?"(1972) http://www.huwi.org/gibson/what.php(ネット上で公開されている未公開断片より)
J.J.ギブソンは視覚を研究したアメリカの有名な知覚心理学者。認知科学に貢献したとされるが、実際は認知革命以前から独立に現われた先駆的研究者といえる。彼の提出する生態学的アプローチは批判を受けながらも、その重要性は認められている。とはいえ、その理解は、ギブソン派内部も含めて、一致しているとは言いがたいのだが。私自身も多少は解説書を読んだが余り理解しているとはいえない(お薦めはエドワード・リードの著作isbn:4788507439)。これはお勉強もかねて訳しました。実はJ.J.ギブソンの主著の原書は一冊持っているのだが、あまり読み進んでいない(それでも翻訳よりはまし、amazonのレビューも参照ISBN:0898599598 )。日本での解説で納得できるのはない。有名な解説者の佐々木正人は研究者としては優秀かもしれないが、解説はいまいちに思える(まして他は…。何となく分かるの域をなかなか超えないような)。

*1:訳注:心理学では感覚と知覚とを用語として分けている。感覚器官を刺激した要素としての感覚を中枢で組み立てたのが知覚である、と考える。ギブソンはこのような感覚/知覚の区別を主に批判している。これと対比させて、運動とは脳が命令して筋肉を動かすことだという考え方も、同様に批判している。