何で日本って文化相対主義の肩を持つ人ばっかなの

科学的世界観のblog「世界内存在としての心」 http://nbsakurai.exblog.jp/3519170/
河野哲也『 第五章 存在の具体性 ―― 世界内存在と認知 』よりの引用から。

P223
 「心とは何であるか」と問うことは、「自分はいかなる存在か」と問うことと直接つながってくる。現在の私たちは、心について次のような想定をしていないだろうか。
(1)個体内主義
 心はひとりがひとりずつ持っているものであり、それは個体の内部、とりわけ脳の中に存在する。
(2)心の非立脚性
 ちょうど、どのハードウェアに載せるのかという問題とは独立してコンピュータ・ソフトウェアについて論じられるように、心を考える場合にも身体やそれをとりかこむ環境についてはさしあたり考慮する必要はない。
(3)「中央参謀本部」理論
 心は、行動を制御する脳の神経生理的過程のことである。それは、感覚器官から外界に関する情報をひきこみ、出力系をつうじて身体のすみずみまで指令をゆきわたらせてゆく「中央参謀本部」のようなはらたきをする。
(4)心のカテゴリーの自然性
 心のカテゴリー(知能、動機、記憶、感情など、心に関する分類)は、生物学的・生理学的にあたえられたものであり、循環機能や呼吸機能のように生得的で自然な働きである。
以上のような前提は、二十世紀後半の心の科学(心理学、認知科学など)や心の哲学においてひろく共有されていた。

「心について次のような想定をしていないだろうか」といって語る項目のうち1から3を否定するのまではいいが、「4心のカテゴリーの自然性」を否定するのはまずいんじゃないか。社会科学に好意的な私でもまずいと思う。そういうこと言うからピンカーのような人に文化相対主義だと叩かれる元を作ることになるんだって。1から3の項目は機械論的独我論的な認知主義への批判にあてはまるが、4だけはちがう。これは生得性への批判だ。エレノア・ロッシュの研究を知らないようだ。彼女の研究は、色の名が言語によって違うので色の知覚が相対的だという考え方に対して、子供や異文化の人を対象に実験をしてその色分類課題の成績が変わらないことを実証した。つまり、言語や文化の違いに関わらず色の知覚は生得的に同じなのだ。この結果は認知言語学にも影響している。だから、「心のはたらきは、自然の所与ではなく、社会的実践文脈によってかたちづくられたものである」なんて安易に言うのは危険だ。
生得的制約と文化的多様性は両立する。生得的制約という言い方が悪いなら生得的可能性と言い換えてもよい。ここに注意しないと罠にはまる。結局は科学系と人文系との対立を悪化させるだけだ。この著者は身体性の話をしたいと思ってこう言ったのだろうが、もう少し注意した方がよい。だいたい日本でされる身体性の話のほとんどは「身体性」をキーワードとして用いている域を超えないことが多い。常識で考えればこっちだよね、とネタに乗っかってる気がしてならない。

P253
このように、記憶も知能も、すぐれて社会実践的なセッティングのなかで生まれてきたカテゴリーであり、消化機能のように自然がそのままのかたちであたえてくれたものではない。

そりゃそうかもしれないが、文化相対主義や空白の石版説(blank slate、心理学者ピンカーが著作で批判した哲学者ロックの説)を平気で思わせる書き方はやめてくれ。私はそんなにピンカーなんて好きじゃないけど、こういう言い方には問題を感じる。
ソーカルによるポスダンモダン批判って一体なんだったんだろう。はてなは人文系が多いが、私はときどき人文系の人を相手にするのが嫌になる。何できちんと知ろうともせずに科学について適当なこと言うの?人文系に好意的な私だって嫌になる。ましてや普通の科学者ともなれば言うまでもない。