アフォーダンスと脳科学

だいたいまともな科学的思考の持ち主なら、アフォーダンス概念なんて安易に受け入れられるわけがない。私もアフォーダンスが生物学の概念というならまだ納得もいくが、すでに一流の有能な知覚心理学者が考え出したというあたりがさっぱり分からない。生物学系の科学哲学者エドワード・リードは大喜びだったかもしれないが。アフォーダンスなんて非科学的概念さ、とばかりに適当にネタにしておしゃべりをする気にはなれない。アフォーダンストとかオートポイエーシスとかの怪しいカタカナ語ブームは過ぎ去ったと思うからこそ、地味に考察してみたい。
pooneilの脳科学論文コメントの[カテゴリー別保管庫] 内部モデル、遠心性コピー、アフォーダンス http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/cat2/cat10/index.html
さすが現役の科学者は違う。そうだよ、ギブソン理論と脳科学とは相性悪いです。脳科学がいまいち苦手な私にだって分かる。それはこのブログでのJ.J.ギブソンの翻訳からも分かりますよね(「私たちは何によって見るのか」 http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20060105/p1)。ギブソンは入出力モデルを批判しているが、これを本気で受け入れたら科学研究のほとんどが不可能になってしまう。刺激を与えて反応を見るというのは科学研究じゃ当たり前の話。
アフォーダンスは、「動物の環境との関係に関する記述」であって「認識のメカニズムの記述」ではない。(ギブソン心理学の核心 )』うん、そうだよね。

なんつーか、アフォーダンスを記述するときには脳が見えなくなるし、脳を記述するときにはアフォーダンスが見えなくなる、という形の説明になってたらいいのかもしれないなと思う。

  • 「pooneilの脳科学論文コメント」から

ようするに、脳科学の人は初期の大森荘蔵の科学哲学を読めばいいと思う(私の手元のあるのは「言語、知覚、世界」、お薦めは八-物と知覚)。脳の記述というのは物言語による記述だ。で、それとは別にアフォーダンスの記述というのがあって、その二つの記述を重ね合わせられればいいと思う。まぁ、そもそも私たちが普通に見たり聞いたりしてしての記述である知覚言語と重ね合わせられることが一番重要だとは思うが。ようするに、科学は私たちの日常の経験を否定する必要はないし、してはならない。あくまでその上に重ね描ける記述でなくてはならない。その記述も一つで済むという訳じゃなくて、脳からの記述や生態からの記述とか複数あってもおかしくないと思う。問題はその記述が何を目指しているかだ。*1
ちなみに、入出力式以外の科学研究がありえないかというとそんなこともない。ただあっても、そういうのってたいてい名人芸的になりやすくて端的に再現可能と言い切れない方法が多いって言われればそうなんだけどね(フィールドワークみたいに)。*2

*1:私自身は、脳研究そのものが入出力式でも、そこから導かれる説明までも入出力式である必要はないと思っている。ある種の科学者のする入出力式による説明は、安易な実験の拡大解釈にすぎないとまで思っている。コネクショニズムの可能性がかなり確かめられてしまった今、新しい理論的考え方が必要だと思う(もちろん実験法や研究結果の処理法の工夫も重要だが)。私自身は、ギブソン理解にとってはアフォーダンスより知覚システム論を優先させた方がいいと思う。

*2:おまけ。『MSTのニューロンがoptical flowをコードしている、ということもわかっている。「pooneilの脳科学論文コメント」から』。その研究の詳しいことを知らないから何とも言いづらいがあえて言うと、光の流れの感覚を脳内の場所に特定するだけじゃ生態光学の本質は捉えられていないと思う。時間的変化が分からないと。例えば、光がこちらに向かってくるとき(受動的変化)と自分から光に向かうとき(能動的変化)で脳の状態の変化を比べるとか。重要なのは「能動性」だ。ただし言っておくが、相当の困難が予想されるので実際にこれで研究しようとは思わない方がいい(技術的に可能かさえ??)。