アフォーダンス関連の翻訳と引用から

まずは、ジェイムス・ギブソンの主著の一部を自分で翻訳(これでも意訳気味)してみました。

まとめ
媒体、物質、表面、対象、場所、他の動物はある動物に対するアフォーダンスを持っている。それらは、利益や危害を与えたり、生や死を与えたりする。これこそがそれらが知覚される必要のある理由だ。
環境のもつ可能性とその動物の生活の仕方はいっしょで切り離すことはできない。環境には動物ができることが含まれており、生態学におけるニッチという概念にはその事実が反映されている。限界の範囲内において、人間種は環境のアフォーダンスを変えることが出来るが、それでもある状況の下にある生き物なのだ。
物の物体的特性に対して刺激の中の情報が存在し、さらに思うに環境の特性に関する情報が存在する。私たちが物事の意味を学ぶことが可能になる前に私たちは物事のもつ変化間の違いを見分けていなければならない、ということを導く原則は疑わしい。アフォーダンスは観察者に関連して捉えられる特性である。それらは物質的でも現象的でもどちらでもない。
アフォーダンスを特定するために囲まれた光の中の情報があるという仮説は生態光学の極致である。一方の極で観察者の動機と必要とに関連し、もう一方の極で世界の物質と表面とに関連した、そうした不変項への気づきは心理学に新しい方法を提供する。
ジェイムス・ギブソン「視知覚への生態学的アプローチ」第8章 アフォーダンスの理論(p.143)からの翻訳ISBN:0898599598

最近「身体化された心」を再読したのでそこから。

色視覚の比較研究からもう一つの例を提供しよう。蜜蜂は三色性であり、そのスペクトル感受性が紫外線に偏移していることはよく知られている。また一方、花には紫外線反射があることもよく知られている。(中略)そのような共進化がなぜ起こるのか?蜜によって受粉媒介者を引きつける花のほうは、多種の花より目立たなければならない、花から蜜をとる蜂のほうは、遠くからでもそれを認識する必要がある。この両者の漠とした双方向の制約が、植物の特徴と蜂の感覚運動のカップリングの歴史(共進化)をもたらしたのではないか。
ヴァレラ他「身体化された心」第9章 進化の道程とナチュラル・ドラフト(p.286)より ISBN:4875023545

この二つの引用を引き比べてみればアフォーダンスの意味を理解しやすくなると思う。ようするに、生物は環境の持つ可能性を引き出すように進化した。もちろん何でもかんでも引き出せるようになるわけではなくて、その生物の生存に関連しながら引き出せるように進化したのだ。蜜蜂の例を見ればそれが分かる。蜜蜂は蜜を効率よく取れるように紫外線を見れるように進化した。なぜなら花は紫外線を反射するから。共進化の話は置いとくにしても、この例からアフォーダンスを理解できると思う。この場合は花の紫外線反射がアフォーダンスに当たる。蜜蜂にはそのアフォーダンスを引き出すことが出来るが、人間には紫外線は見れないので出来ない。このとき、紫外線の知覚が先にあって後で花の知覚に結びつくのではない。純粋な感覚が先にあってそこに後から意味を貼り付ける、という考え方をギブソンは退けている*1。物を知覚するとは同時に物の意味を知覚するということでもあるのだ。*2
ユクスキュルが「生物から見た世界」isbn:4003394313、動物はそれぞれに独特な環世界を持っている。それは上の蜜蜂の例からも分かる。物を知覚するとは環境の持つ可能性を引き出すことである。どのようにその可能性を引き出すかでその環世界は異なる。人間も人間なりの環世界を持っている。さらに話を拡大させると、人の作り出した文明だって環境のアフォーダンスを変えられるという人間の持つ(生得的)可能性の範囲以内で行なわれているのだ。とはいえ、私たち自身にはその限界は知りえないのだが.

*1:おまけで哲学的な話を少々。ここで言われている意味とは、辞書的に定義できる意味ではないはずだ。この場合の意味とは行為と結びついたものだ。言葉の辞書的定義を暗記したってそれは知識でしかない。例えば、「ほうき」の意味を知ってるとは、それを言葉で定義づけできることではなく、それを使ってゴミを掃いたりできることだ。そうした行為と結びつけることによって初めて意味を理解してるといえるのだ。まぁ、学校的には言葉で説明できさえすれば意味を理解してると認められるかもしれないが(考えてみれば説明も行為の一部だ。だが、これ以上の突っ込みはややこしくなるのでやめておく)。

*2:ギブソンを読んでると「食べられる」というアフォーダンスさえ視覚で分かると言ってるような気がする。おいおい、いかにも食べられそうに見える毒キノコはどうなんだよ、と突っ込みたくもなる。だからヴァレラらに視覚一元論だと批判されるんだろ。まぁ、(進化のおかげで)自然にある食べられる物はたいていおいしそうに見える、って程度の意味だと思われるが。