生成語彙論ってこんな理解でいいのかな

他ブログへトラックバックする記事(認知科学関連)。もともとはコメントとして書きましたが長くなったのでトラックバックに変更です。ちなみに生成文法の素人向け手抜き解説記事はただいま準備中。

実はもともとは別に質問のコメントを書いてたのですが、書いているうちにあれっと思って、どうも生成語彙論を理解しないとまずいなと思いました。で、この記事から推測してみました。
まずは、内包と外延の説明から。集合論を使った方が手っ取り早そうです(正しいかな?)。
内包:犬{動物、四足、ほえる、…}
外延:犬{ポチ、クロ、ラッシー、…}
「ポチ、クロ、ラッシー」というのは固有名で、個々の犬の個体を指します。「動物、四足、ほえる」というのは犬が持っている性質です。私の生成文法の理解から生成語彙論を推測すると、「りんごは果物だ」「りんごは赤い」といった文から「果物-りんご」「りんご-赤い」といった語彙意味を得られて、そうした色々な個々の語彙意味が集まって全体として複雑な内部構造を作り出す、ってところでしょうか。で、Fodor&Leporeは語彙意味を得るのにそうした内包はいらない、「あそこのポチは犬だ」という外延だけで十分で、犬に関する知識(内包)は必ずしも必要ない(犬が動物だろうが機械だろうが宇宙生物だろうがそんなの意味の理解に関係ない)、と言いたいようだ。これで、もともとのコメントに書いた「言語知識と世界知識を別々に分けるのもいまいちピンと来ません」というのも撤回できる。ようするに、意味を生成(文法)論的に理解するのは無理じゃん、って話か(そんなのは認知言語学に任せろか?)。見当違いの理解だったらすいません。そのときはこんなの無視してください。
ちなみに、以下がもともと書いていたコメントです。

すいません、蒼龍です。記事はとても参考になります。ちょっと不思議に思ったのでコメントします。言語知識と言語処理を分けるべきなのは理解できます。しかし、言語処理において理解と産出を分けるべきなのは分かりますが、言語知識でもその二つに分けるのはいまいち理解できません。言語の理解と産出で参照する言語知識が別々というのは(直感的にも)奇妙に思えます。それとも私が無知なだけ?
それから、言語知識と世界知識を別々に分けるのもいまいちピンと来ません。言語化されない世界知識って測れないから知りえないのでは(もしかして素朴理論のこと?でなければエコロジカルな世界知識?認知言語学に頼る方がよさそうな気もする)。認知心理学にはスキーマスクリプトの概念がありますが、それは世界についての知識を言葉でモデル化したもののはずですが。私がJackendoffを読んだことないから分からないのでしょうか。疑問に思ったので参考までに、無理に返答はしなくてもいいですよ。