人の合理性はどこに存在するのか

始めに結論を書いてしまおう。人の合理性は理性の中にはない。人の合理性は抽象的な論理的判断の中にではなく、その場その場で行なう状況判断の中にこそある。だから、いくら待っても理性的な賢い民衆など現われることはない。だからといって、政治家やエリートが常に理性的に賢いということもありえないが(人が理性的な合理的判断が出来ないという研究結果はいくらでも存在する。それを紹介するのはここの目的ではない。それはどの認知心理学の教科書にも書かれているはずだ(たぶん))。人の理性はある意味で進化の途上で偶然に現われたものにすぎず、これ以上進化することはありえない。なぜなら、それが進化論的に定められた運命なのだから。*1
あくまで人は動物である。これは人も進化によって生じたのであり、自然淘汰の原理によって発生したに過ぎないと言うことを意味する。それ以上の意味はない。これがすべての基本である。

理性を持った人間への進化

動物にとってまず必要なのはその場その場での適切な行動である。食料を見つけるのであれ敵から逃げるのであれ子育てをするのであれ、その場その場で適切な行動をとれなければ生き残ることも子孫を残すことも出来ない。こうして、自然淘汰の原理によって適切な行動をとれるような動物だけが残ることになる。もちろん、適切な行動をとるのに意識や理性は必要な条件ではない。動物に意識や理性があると言う人はあまりいない*2
人には意識や理性がある。それがなぜどのように進化の中で発生したのかはここでは問わない*3。重要なのは、自然淘汰は理性を発生させたが、だからと言ってそれを発展や普及させる必然性まではないことだ。自然淘汰で起こるのは、他の動物との関係における有利さであり、絶対的な優位さを生み出すわけではないことだ。生存にとって必要な程度にしか進化しない。
人は、文明が発達する前は自然の中の野生状態で生きてきた。人はそうした野生状態において有利に生きられるように進化してきた。例えば、感情はそうした中で適切な状況判断をするために生じたのである(戸田正直の感情研究isbn:4130130749)。しかし、人は文明を発生させるための最小条件を持った時点で進化をやめた。その理由は簡単だ。そこで淘汰されることがなくなったからだ。その最小条件がどんなものかは分からないし、共進化などのせいでその条件がどの程度最小かも分からない*4。しかし、はっきりと言える事は人間にはその最小条件で十分でありそれほど進化させられる必要がなかったことである。ある条件がそろってしまえばもう淘汰される必要はない。となれば、後はその最小条件のままで種が保存されることになる。
あくまで最小条件なので人の持つ状況判断への適切さはそのまま保たれる。というか、失われることはありえない。淘汰される必然性はどこにもない。野生状態での状況判断は最大限に発達しえたが、理性はそうでもない。理性は状況判断にとってそれほど必要なものではない。心理学者のピアジェへの批判として、彼は言語報告に頼りすぎることで子供を過小評価したという話がある。実際の心理学実験で、言葉で答えさせると間違っていても現実に自分のために選ぶなどの行為としてなら正しく行なえるという結果もある。人の賢さは現実の場面での判断にこそあるのであり、そういう風に進化してきたのだ。理性など単なるおまけに過ぎない。理性的人物など個人差としての遺伝的変異によって生じたに過ぎない。なぜそのような変異を許したのかまでは分からないが、所詮は変異による偶然であり、すべての人がそれを持っている必要はない。一部の理性的な人たちだけでも文明は構築できる。
ちなみに、社会ダーウィニズムは成り立ち得ない。それはある文明の中での有利さを指すに過ぎないので淘汰とは関係がない。自然淘汰は遺伝子と関係するのでもっと長期的な期間でしか成り立たない。ある文明そのものが人の遺伝子による可能性によって可能になっているのであり、逆に作用を及ぼすことはまずない(その前にその文明が続かなくなる)。自然淘汰は種同士の関係によって生ずるのであり、種内の後天的な経験とはかかわりがない(ちなみに実際の自然淘汰は遺伝子レベルで起こるのであるがその話はしない)。

とりあえずの結論

というわけで、世の中は馬鹿ばっかりだ、と悪態をつくのはやめよう。人間とはそういうものであり、それはどの時代や文化でも変わりがない。たとえそうでなく見えるとしても社会的条件からそうであるかに見えるだけであり、基本は全く変わらない。そういう条件を整えるのがある種の社会学者の夢だろうが、おそらく儚い夢にすぎないであろう。そんな条件を人為的に保持できるわけがない。だからといって、他人を動物的だと馬鹿にする必要もない。そもそも動物を馬鹿にしすぎだ。理性的であることが適応的であるわけではないのだから。しかし、理性が存在するのも確かだし、それを否定する必要もない。
もし(不幸なことに?)理性など持ってしまっているのなら、まず理性への過大評価はやめよう。もちろん逆に捨て去る必要もない。自分にとって何が出来るかを考えるしかない。自分には理性などないという人もがっかりする必要はない。人間などそもそもそんなものだ。もっと身近に目を向けよう。もともと人間には状況の豊かさを感受できる能力があるのだ。でなければ、適切な判断などできない。そういう点では、適切な判断は遠くにあるものではない。他人の意見にいちいち左右される必要などない。目の前の状況を一番知りうるのは自分なのだから。野生の判断力を取り戻すのも悪くはないかも*5

*1:ちなみに、ここでは理性の元である意識や言語の発生した原因までは問わない。それは専門の研究者にお任せする。ただし、どんなに合理的に説明しようとその発生した必然性までは説明し得ないのだが。

*2:私自身は定義しだいではある種の動物は十分に意識を持っていると思っている。どう定義するかがまた別の問題だが

*3:比較心理学者リチャード・バーンによる、動物が群れでの生活を生きぬくために、仲間をつくったりだましあったりするなかで知能がはぐくまれたというマキャヴェリ的知能説を参照「考えるサル―知能の進化論」isbn:4272420097

*4:現生人類への進化は私の手に余る問題であり、これは専門の研究者にお任せするしかない。その話を誤魔化しても、ここでの議論は成り立つ。

*5:一応言っておくと、ここでは別に社会改良を諦めろと言っているのではない。もしそれをする気なら人の持つ生得的な制約にもっと目を向けた方がいいということだ。でないとまた失敗するだけだ(過去の歴史を考えてくれ)