認知革命の意義とはなんだったのか

現実観察から得た初期条件(周辺条件)をモデルに入力すると、一定の出力変数が得られて、それが現実観察から得られたデータに合致する場合に、モデルは「現実適合的」だと評価される。現実適合的なモデルは、現実の説明・予測・制御に用いることができる。
言うまでもなくモデルビルディンクは「真理の言葉」ではない。モデルは現実適合性という機能の高低によって──すなわち「機能の言葉」によって──、相対的に評価される。そこでは同一の説明力(という機能)を持つ競合的なモデルの存在が予め想定されている。
この説明力が、説明や予測の一意性──因果的決定──によって評価されるのが自然科学的な因果モデルだが、これに対しルーマンは、複雑な社会システムでは因果モデルの追求は不毛だとし、認識利得を機能的等価項目の開示に置く機能モデルを提唱したのだった。

ここで言われていることは1960年代前後に起きた認知革命の意義そのものを伝えてもいる。それまで心理学で主流であった行動主義は物理学を規範とした自然科学観(因果的決定)に則ったものだった。行動主義は刺激と反応との結びつきだけを見て、その心的過程はブラックボックスにして問題にしない。当時までは物理学を規範とした自然科学観(ハードサイエンス)こそ(だけ)が科学だと広く認識されていた*1。そうした拘束から解放されて心の自由なモデル作りを可能にしたのが認知革命であったのだ。人工知能は当時のモデル作りの典型であった。データを入力してのそのモデルの振る舞いを現実と比べるといったモデル作りの点ではルーマン認知科学も同時代的な動きだったと言える(実際にルーマンの著作にはピアジェブルーナーといった認知科学文献の参照が多い)。実証研究でも行動主義の厳密な実験デザインとは違いモデルの入出力に合わせた自由な実験デザインが可能になった*2人工知能ブームだのアフォーダンスブームだの複雑系ブームだのロボットブームだの脳ブームだの進化心理学ブームだの*3、次々と流行に流されてばっかりでモデル作りという方法論の本質を理解する人が日本には少ないと言う点でも(日本でのルーマン理解と)事情は同じようだ(外国の実証研究の真似っこしても仕方がない。もしするなら疑問を持って改良してやれ)。
マスコミで紹介される脳科学も事情は同じだ。脳の中を情報がここで処理されてここに運ばれる、といった説明は情報処理メタファーによるモデル化に過ぎないのに、まるで客観的にそれが分かるかのように伝えているのを見るとつくづく嫌気がさしてくる。こういう点では、脳科学は物理学を規範とした自然科学(ハードサイエンス)では必ずしもない。自然科学としての脳科学が言えることは恐ろしく無味乾燥な事実に過ぎない(あとあるのは工学的な応用)。もちろん脳科学から現実世界でこれをやってはいけないとかするべきとかといった倫理的な結論は出るわけがない。脳科学はそんな卑俗な学問じゃないでしょ。日本の一部の脳科学者は実験解釈に慣れていない人がいるのか、スペシャリストとしての研究者としては国際的にも第一級の人でも、その一般向けの説明では過剰な解釈をすることも多々見られる(しかもそれを指摘する人も少ない)。脳科学は宗教じゃないっちゅーの。頭が痛くなってくる。脳科学はまだまだ課題の多い、先の長い地道な学問である。分かりやすい成果など早々にありませんから…世の中そんなに甘くない。*4

*1:これは心理学だけの問題ではなかった。それは有名なチョムスキーのスキナー批判を見れば分かる。スキナーは代表的な行動主義の研究者

*2:方法論的な自由の例として、反応時間を計って心の中でイメージを回転させていると推測したり、考えていることを口に出してもらった結果を分析するプロトコル分析などがある。トールマンの認知地図の当時におけるすごさはそうした心の中身の推測にあったのだ。

*3:こうしてみると日本では認知科学関連のブームがよく起こっていると分かる。その割に認知科学の基礎知識はさっぱり普及してない。誰か啓蒙してくれよ〜

*4:後から考えてみると、構造主義社会生物学もそうしたモデル化だったともいえる。20世紀の後半はそういう革命が進んだのだ。困ったことに日本には未だにそれを理解できない人がたくさんいるから困る。ちなみに、社会生物学は社会性昆虫などの動物の行動を説明するには素晴らしい理論だと思うが、あまり拡大解釈して何でも(ネオ・ダーウィズム)進化論的に説明って言うのはどうかと思う。ネタ作りにはいいかもしれないけど