宮台サイトへのコメントメモ

以下の引用はすべて「国家を草刈り場とする各エージェントの権益争奪戦について」http://www.miyadai.com/index.php?itemid=363 から

日本の市民運動は「ノーマライゼーションの地獄」に鈍感なの。

ノーマライゼーション(normalization:辞書的には標準化、文脈から意訳すると均質化とか平準化とか)。戦後の日本は経済成長による格差縮小こそが統合シンボルだったはず。私も最近の日本の格差社会論はさして重要でないどうでもいい話だと思っていたが*1、だからといって今の日本で格差OKと言ってしまったら人々の動員は困難な気もする。どうせノーマライゼーション支持の日本のバカサヨクにそれを実現させる力などないから放っておけばいい。かといって勘違いなバカネオリベを跋扈させるわけにもいかないが。

「個人が埋め込まれた社会性」を強調する欧州流の共同体主義と違い、結社主義は「個人が選び取る社会性」。

ヨーロッパは階級社会でエリートをしっかりと作り上げようとする、アメリカは階層社会で能力のある者をエリートに抜擢しようとする。じゃあ日本はどうか、どっちでもないよね(つまり共同体主義でも結社主義でもない)。かといって、伝統的な東洋型の民衆社会が成り立っているかと言われると崩壊気味にしか見えない。もちろん欧米のような市民社会でもないのは当たり前だが。*2

プラットフォームをシンボライズする歴史的出来事はすごく重要だけど、日本にはそれがないのは確かだな。

日本の人が対処療法的な振る舞いをするスノビストなのは昨日今日始まったことじゃない。私たちの心性は(表面的な変化にもかかわらず)少なくとも江戸時代から大して変わっていない。プラットフォームを変えられるという感覚は(歴史的に見ても)私たちにはない。そう考えるのが賢明だったからだ(あったのはせいぜい黒船や米軍による一時的なお祭り、つまり感情レベル)。そもそも日本の経済発展だって対処療法的な振る舞いの積み重ねから生じたものだ(創発と呼ぶ人もいるだろうが、悪い創発だってあることをお忘れなきよう)。国民レベルで試行錯誤しないと学習しないんじゃないの、ただし害があまりに大きすぎそうだが。

おまけ

特殊性溢れる地方行政の場でも、行政現場を実地見聞せず、米国で培ったノウハウを「そのまま」納入する。

認知科学に関連させると、認知科学の成果から発展させた教授理論がアメリカから日本に紹介されていたりするけど、その方法論はあまりにアメリカ的つまり意識至上主義的だ。日本でそのまま適用できるわけがない(それを示唆していた故・波多野誼余夫はやっぱりすごかった)。逆に、生徒が一緒に学ぶ共同学習論バンザイ、っていうのはいかにも日本ならではの現象だが、そこでは認知科学の成果は一顧だにされない(文化心理学さえ知っていそうにない。共同学習論を無条件で支持してるようにしか見えない教育学者の佐○学ってやっぱりバカだよな。宮台さんは正しすぎ)。

*1:ちなみに格差問題といっても、若者では固定化、高齢では拡大化、の形を採っており、前者から後者への移行がより必然的になっている。そういう考慮さえしないレベルの低い議論だ。でも、本当の問題は格差じゃなくて他にあるだろ!

*2:私個人の含意しては、市民は政治に関係するが、民衆は生活に関係する。次の節のプラットフォーム話とも関連あり。一応言っておくが、民衆社会はいいところだらけではない、それは異者への抑圧とセットだ