フラーの科学論

これは、アメリカ哲学の職業的専門化の度合いが強い事と関係している。そしてこの専門主義ゆえに、哲学者は科学における同僚専門家(つまり科学者)の正当性を強化することに熱心なのである。イギリスとアメリカにおける心の哲学の営まれ方を比較してみよ。アメリカ系の哲学者はイギリス系の哲学者に比べてはるかにやすやすと最新の心理学や神経生理学、コンピュータ科学の一時的流行を取り入れるのである。

著者の科学社会学者フラーはアメリカ出身でイギリスの大学に勤める。私もうすうす思っていたが、こういう批判は(アメリカ)内部からの批判が一番だ(これに限らず外側からの批判はたいてい不毛)。まぁもっともだよね。私もアメリカの分析哲学系の心の哲学はあまり好きになれない(ただしデネットやサールのように後期ヴィトゲンシュタインやオースティンのような基盤があれば別だが)。哲学が科学の一時的流行に乗ってはならない気がする(例外はあるが少ない。最近の神経倫理学の登場も一時的な流行で終わらないことを願う)。
この引用先の著作「科学が問われている」はおもしろい。この本の序文でも言われているが、自然科学者にもっとも熱心に受け入れられたのも納得だ(同じ科学社会学者でもラトゥールだと書き方がちょっと引くしなぁ。内容はもっともなのだが)。科学の市場駆動化は科学の批判精神を失わせるとか、科学と労働市場の関係(院レベルでも専門に関連した仕事につける人は少ない。もちろんアメリカの話)とか、日本での科学の受け入れは始めから工学(技術)的だったのに成功したために理論志向の西洋で驚かれた*1とか、巨大科学プロジェクトは見合った成果が出ない(創造は自律性から生まれる、せめて期待は単なる実証レベルでやめとけ)とか。
これはやはり、人文系の人が読んでも面白いだろうが、本当にこれを深く納得できるのは科学者や科学の理解者だろう。私も日本での認知科学理解の浅さにうんざりしてる人間としてとても参考になった。科学論はなんかなぁと言う人にも薄めで読みやすいのでお薦めします。ただし、科学と技術を分ける議論は認知科学の立場からは微妙。基礎研究の軽視はまずいけど、認知科学はそもそも工学的(ハードサイエンスではない)だからこれをそのまま当てはめるのは躊躇する。この本にも記述があるが、科学ってもいろいろで一枚岩じゃない(物理学と古生物学で差は歴然)。で、重要なのは科学の応用の話。応用は避けられないのだから、せめて議論ぐらい可能にしないと。でも日本の実情を考えると暗い気分。

科学が問われている―ソーシャル・エピステモロジー

科学が問われている―ソーシャル・エピステモロジー

*1:今も基本は同じ。失敗した人工知能の第五世代プロジェクトが典型。日本のロボットブームもいかにもらしいよね