日本は一次観察と二次観察とが乖離した不毛な空間

「サードオーダー」問題に関連する文章を書きました http://www.miyadai.com/index.php?itemid=365に関連させて…。分かりやすく言えば、一次(ファーストオーダー)の観察とは現実への観察であり、二次(セカンドオーダー)の観察とはその観察の仕方への観察である*1。例えば、マスコミが行なう事件の報道そのものは一次観察であるが、それに対してマスコミの報道する事件は偏っていると批判をするのが二次観察である。科学世界で言えば、実証研究は一次観察であり、理論研究は二次観察である*2。普通は一次観察と二次観察とがお互いに依拠しあうことによって進展する。
正確には、日本には一次観察と二次観察もろくな形では存在しない。例えば、経験主義の英米系は実証研究による一次観察が盛んで、理性主義の大陸系では理論研究による二次観察が盛んだ。しかしどちらにせよ一次観察と二次観察、つまり実証研究と理論研究とはお互いに関連しあっている。それに対して日本では実証研究と理論研究はすっかり全く別々のものだ。特に日本の学問システムは、実証研究と理論研究とが別々に無関連にあって共存することで成り立っている。これなら他人の批判もしないで済むが自分への批判もなくて済む。日本の実証研究は外国から形式だけを厳密に借りてきて行うことも多い。それに対して理論研究は外国の文献や用語を(日本の)現実とは無関連に参照し続けることが多い。理論研究とは本来は二次観察(実証研究への観察)であるべきだが、実際には外国の文献や用語への一次観察に過ぎないのが実情だ。じゃあ実証研究がましかと言われれば微妙である。だいたい日本の実証研究の良さは職人的な現場主義にあるのだが、しかしそれは同時に二次観察のろくにないことによる効率の悪さをも引き起こしている。日本にあるのはベタベタな一次観察か、現実に基づかない言葉による二次観察もどきしか存在しない*3
別の形に変奏させよう。日本には意識レベルにおいて無自覚型と自意識型がいる(宮台真司が言うところの内在系と超越系の言い換えだと思ってもいい)。無自覚型はともかく根っから懐疑心に欠けており、自分の価値観または一般的に受け入れられている価値観を疑うことがない、一言で言うと想像力がない(日本のネオリベはその典型)。自意識型は説明するまでもなく日本の古典的な文学青年タイプだ。あれかもしれないこれかもしれないと悩み続ける(日本の文系学者や評論家に多いタイプかな)*4。無自覚型と自意識型の対立は一次観察と二次観察の対立にそのままつながる。自分のあり方への根本的な反省に欠けたつまり決まりきった一次観察しか存在しない無自覚型と、現実とは無関連に自分のあり方への反省ばかりするつまり現実に基づかない二次観察ばかりする自意識型と。無自覚型と自意識型をつなげる、つまり一次観察と二次観察をつなげる超越論的レベルは日本には存在しないと言っても過言ではない。
一次観察と二次観察とは互いにつながりを持つことで調整弁の働きをする。しかし、日本にはそれはない。だから日本ではちょっと条件が悪くなると(無自覚型と自意識型とに関わらず)超越論的な外部を外側に探す人が増えてくる。かといって、日本の中にいると個人で超越論的内部を持ち続けることは困難だ。それは日本社会の構造自体に超越論的レベルを持たないことに起因する(つまり一次観察と二次観察とにつながりがない)。日本では誰もが無自覚型か自意識型かでいるしかない*5でもやっぱり日本では個人で超越論的内部(サードオーダー)を求めることしか道がないのかもしれない。しかし、宮台真司が言うところの免疫を獲得したコミットメントをしようにも、そもそもどこで免疫を獲得・保持すればいいのか分からない。日本ではコミットメントして入り込んじゃうと免疫は失われる。日本には意識を文化的コミュニケーションに逃がす手もあるが、それははたしてコミットメントと呼べるのやらなんやら。
ところで、宮台さんの文章にあるアリストテレスの「観照(テオリア)」はハイデガーによる言及と関係させないと理解されないんじゃないの?アリストテレスは初期ギリシアではないし、観照(テオリア)も単なる客観的観察と区別出来る人はほとんどいないと思う。

*1:言っておくが私はルーマンに詳しくわけではない。便利だからルーマンの用語を用いているだけだ。そういう点からこの論考を突っ込まないように

*2:実際には理論研究も文献への観察という点では一次観察といえる。その観察が一次か二次かは相対的に決まる。先走ってしまうと、本当は三次観察(サードオーダー)は現実的にも理論的にもありえない。この三次観察の概念そのものをアイロニーで理解すべきだろう、たぶん

*3:日本の政治や行政があまりまともに科学的成果を参照しないのも典型例か。たとえ参照しても自分の偏見を保つのに都合のいい科学的成果だけを持ってくる。そこでは科学における反証可能性の原理が理解されることはない

*4:大人になればそんな極端なあり方からは回復するが、無自覚型の傲慢なあり方に比べればいつまで経っても社会への馴染めない感が続く。一生を(多かれ少なかれ)モンモンとして暮らすのがオチか

*5:後は文化に走る道が日本には昔からあるが、これで問題は解決しない。ちなみに私自身はこっち。