生物の種の問題と普遍論争

生物の種に関する問題は考えると切りがない。人間の普遍的概念への認識や人間の生得的能力の問題と関わっているので、私はそういうことを考える機会があった。(ネオ・ダーウィニズム(進化の総合説)から帰結するように)種が端的に存在しないのなら、種概念は人間の持つ幻想なのか、種としての人間の共通性も否定されるべきなのか、考えると切りがない。
私自身は種はスケールの問題だと思っている。典型的に進化を考えるような*1壮大な視点からは種は存在しないと言えるが、生きる人間が見れるようなもっと小さな視点で見れば種は存在すると言ってもおかしくはないと思う。視点と言っても、観察する生物の大きさや生活環境のあり方によってスケールの採り方は変化する。基本的には、その生物の大きさが小さな方が*2、または淘汰圧がより強い方が、種の確定はよりしにくくなると思う(すいません、私に専門知識はありません。このあたりは自然淘汰の問題が関わってくる)。遺伝子の生殖的ネットワークがどうなっているかが鍵になるだろう。そうしたネットワークが極端に不均衡になったときが種の生成につながるのではないかと思っているが(有名どころでは、種は生殖的隔離から起こるという説がある)、このあたりは考えがよくまとまっていない。
ちなみに、似たことは文化の問題にも言えて、文化は経験の社会的ネットワークに関わっているだろう。ただし、種の問題からそのまま同じアナロジーは使えない、参考にはできるが。「ミーム概念への妥当な理解と脳科学の社会化」も参照。さらに話を進めると、こうしたネットワークの全体を掴むのは並みの人間には無理なので、必要に応じてネットワークの一部をうまく取り出すことが必要だと思うが、この先はだんだん話が哲学的になってきてついて来る人がいなくなるのでやめとく

*1:進化は常に起こってるとかの話はとりあえず置いとく。大進化と小進化は違うような。これは後述の遺伝子の生殖的ネットワークに関連

*2:例えば、ウイルスは短期間でも進化が起こりやすい。鳥インフルエンザへの心配はここにある。いつ人間に感染する進化をするやら