モジュールとコネクショニズムの問題とか

もらったトラックバック先の記事を見て思ったのだが、いまどき極端な「生まれか育ちか」の議論がありえないのは当たり前だろう(だからピンカーは間抜けに見える)。たとえば、「モジュールとコネクショニズム」の対立でもこれは決して「生得と経験」の対立とは一致しない。モジュールでもどの言語に触れるかでパラメータの値が後天的に変更するし、コネクショニズムでもネットワークにあらかじめ制約を設けたりできる(昔ながらの行動主義とはちがう)。むしろそれぞれが「生得と経験」の対立の解消法を見出しているといえる。
とはいえ、「生得と経験」の対立を端的に破棄してしまうと、知識のない一般の人は議論に全く入れなくなってしまう。「生得と経験」の対立はあくまで議論の支点として用いるべきだろう。その上で、その支点の上に「モジュールとコネクショニズム」だの「生成文法認知言語学」だのといった別の対立をテコして乗せるべきだ。
認知科学には昔「イメージ-命題論争」(人は物事を心で直接イメージしているのか、単に心的に計算しているだけなのか、の論争)ってのがあったが、あれはどっちでも実証レベルをうまく説明できるので区別がつかないなんて意見もあった(要するに片方だけに有利な実証結果はないってこと)。認知科学にはもう新しい論点なんてそうそうに現われる気配もなくなってきたのだから、もう論点を整理しないとどうしようもない。例えば、モデルレベルと現実レベルとで分けて論じないと切りがない。「モジュールとコネクショニズム」だって、モジュールでも生成文法的な計算的モジュール・モデルと脳の中に局在するだろうモジュールとを同じに論じてしまってよいのだろうかとか、コネクショニズムでも現行のコネクショニズム・モデルと脳の中にあるだろうニューラルネットワークとを区別しないと意味わかんなくなくなるとか。今現在何ができるかときっとできる(ある)はずとの区別ぐらいはしたい。